2009年7月 6日 (月)

金親町散策(6)大宮神社

Photo 御成街道の金親町には3つの長屋門がありますが、その街道を挟んだ反対に大宮神社があります。明治大正期の『県神社明細帳』(県総務部)の(村社)大宮神社の項に、

一.祭神 天鈿女命

一.由緒 不詳

一.社殿 間口四尺 奥行四尺

      大正六年十月一日、暴風雨のた   め、倒潰

Photo_2一.拝殿 間口二間 奥行三間半

一.境内坪数 四百坪

一.境内神社 三社 明治二十二年十月一日、大宮神社に合併

  ・天神社 祭神菅原神 建物間口二尺 奥行一尺五寸

         大正六年十月一日、暴風雨のため、倒潰

  ・八幡神社 祭神誉田別命 建物間口二尺 奥行二尺

         大正六年十月一日、暴風雨のため、倒潰

  ・塞神社 祭神猿田彦命 建物石宮(一尺四方)

一.氏子 三十三戸

と記されています。

現在は、新たに建てられた社殿があり、境内も整備されています。

  

2009年7月 1日 (水)

土気城址を訪ねて

Photo 土気城址は、神亀元年(724)に蝦夷の侵入に備えて、この地に唐城あるいは貴船城を築いたのが始まりといい、鎌倉時代に土気太郎が地頭として居住したといわれています。

Photo_2 戦国時代には畠山重康の支配下となったが、長享2年(1488)には中野城の酒井定隆が入城した。

その後、天正18年に定隆は豊臣秀吉の小田原北条氏攻めに北条方として小田原城の守備に出向いた。その最中、この土気城は秀吉の家臣浅野長政に攻められ、落城し、廃城になったといいます。

城址は日航の研修センターでしたが、現在、閉鎖中で、中に入ることが出来ません。

千葉市は、文化財保護のため、土地を購入し、公園として開放すべきであると思います。

2009年6月29日 (月)

千葉大宮巡り(65)もう一つの「多部田道」

Photo 大宮町から多部田町に向かう道は、京葉銀行グランドの北側に古道がありますが、その手前にも台地を登り、畑の中を進み、多部田に向かう道が残っています。

この道は、舗装もされず、道幅も狭く、両側に木立が並び、昔のままの形態が残っています。

Photo_2 これがまさに「古道」と思わせる道です。

この先で畑に出ますが、畑の脇を進み、途中で途切れ、曲がりますが、さらにその先にも「古道」跡が残っています。

2009年6月26日 (金)

国立公文書館へ

Photo_2 文献資料を求めて、国立公文書館へ行って来ました。

何しろ、この公文書館には資料が多いため、ここへ行ってゼロから調べますと、時間が掛かりすぎ、すぐに必要な資料が見つかりません。そこで、必要な資料を事前にインターネットで調べ、その資料を確認しながらコピーするために出掛けた訳です。

Photo_3 事前に申し込み用紙などに必要事項を記載して行ったため、スムーズに資料に当たることができ、短時間でコピーすることが出来ました。

それにしてもコピー1枚が30円とは実に高い。千葉県文書館や図書館では1枚10円です。30円という根拠は何かとの疑問を持ちながらも、次々にコピー。

Photo_4 早めに資料が手に入ったので、公文書館前付近の皇居周辺をフラフラ。まず乾門へ。結構、出入りする人が多いようで、門から車が出たり入ったり。

Photo_8次ぎに北桔橋(きたはねばし)門へ。実に眺めがいい。そして、竹橋を渡り平川門へ。皇居の景観を楽しみながら、ゆっくりと歩いたり、立ち止まったり。

何か、公文書館で調べ物をしていた時間よりも、皇居周辺をフラフラしていた時間の方が長かったかも知れません。

2009年6月22日 (月)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(5)行元寺

Photo 大多喜城下を見て回った後、いすみ市荻原の「行元寺」(天台宗)へ。

寺伝によると、849年に円仁によって、現在の大多喜町伊東に創建され、無量寿院と号したが、治承4年(1180)に大納言冷泉行元の発願により、荻原茶田之谷に再興され、行元寺と改称し、その後、天正14年(1586)に現在地に移ったといいます。

Photo_2 中世以降、房総における天台教学の拠点となり、江戸時代には江戸上野の寛永寺から代々住職を迎え、上総・安房の末寺96ヶ寺を有する大寺院として檀林・祈願所として発展したそうです。

参道を登ると、享保20年(1735)建立の山門があり、最近改修したことにより、朱色が目に眩しいばかり。

Photo_3 本堂は房総屈指の大建造物で、内部の欄間彫刻は、宝永3年(1706)に江戸城改修工事などで彫刻棟梁として活躍した高松又八郎邦数の作品であるといいます。

本堂の隣には寛政12年(1800)建立の旧書院があり、この書院には「波の伊八」の作品があります。

住職さんから詳しく説明をして頂き、欄間彫刻をじっくりと見ると、波の動きには実に躍動感がありました。

2009年6月21日 (日)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(4)良玄寺

Photo 大多喜城主本多忠勝は、文禄4年(1595)に菩提寺として城下の新町(新丁)に良信寺を建立した。開山には下総小金の東漸寺の了学上人を招きました。

Photo_2 その後、3代政朝が元和元年(1615)に2代忠朝の法号を以て、良玄寺と改めました。本堂の西側には「忠勝公園」が整備され、その奥に本多忠勝・同夫人・忠朝の墓がありました。

Photo_3 本多忠勝は、幼名を鍋之助といい、通称平八郎といいます。永禄3年(1560)の大高城に向かう家康に従ったのが初陣で、その後、生涯に戦場を往来すること、50数度。勇悍(ゆうかん)を謳われて四天王の一人でした。

一向一揆の鎮圧に槍の功名をはせ、永禄9年(1566)に騎馬の士50余を付けられ、12年(1569)6月に榊原(さかきばら)康政と遠江天方城を攻め取り、のちに1手の将に進みました。

Photo_5 小牧の戦いでは僅か300騎をもって長久手に向かわんとする秀吉軍数万と並走し、進軍を阻止するために戦うなど、秀吉をして「東の本多平八郎、西に立花宗茂あり」と、その眼力を賞され、また、「家康に過ぎたる武将」讃えられました。

天正18年(1590)8月、家康の関東移封のとき、大多喜10万石を領し、関ヶ原の戦いが起こると、井伊直政と共に東軍先鋒の監軍役を務め、慶長6年(1601)に伊勢桑名10万石に転じました。

慶長15年(1610)10月18日に63歳で生涯を閉じました。

2009年6月19日 (金)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(3)長南町の称念寺

Photo_3 長南町の称念寺(浄土宗)に「波の伊八」の彫刻があるということで立ち寄りました。

Photo_4 境内の山門から中門・本堂が一直線に並ぶ伽藍配置となり、本堂の正面には波の彫刻に優れたことから、「波の伊八」と称された武志(たけし)伊八郎信由(のぶよし)の「龍三体の図、欄間三間一面」がありました。

この彫刻は、本堂正面からガラス越しに中央、右側、左側と、移動して眺めるしかなく、もっと近くからじっくりと見たいという思いでしたが、残念ながら叶いませんでした。

Photo_5 この伊八の作品に興味を抱くのは我々だけではなく、一人でバイクに乗り、見に来ている人もいました。

会員の一人は、「拝観料を払うようにして見られるようにしたらいいのに」と。同感です。

2009年6月15日 (月)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(2)茂原の鷲山寺(じゅせんじ)

Photo_3 藻原寺に続いて、隣にある鷲山寺へ。

この寺院の境内には、元禄16年(1703)の元禄大津波の死者を供養する「元禄津波供養塔」があります。

Photo_4 11月22日の夜半から23日にかけて房総沖で、推定マグニチュード8・2の地震が起こり、安房から九十九里浜一帯に津波が起こりました。津波の高さは、千倉で5m、御宿で8m、九十九里浜で4mに達したといい、白浜の野島崎周辺では6mもの土地が隆起し、それまで島であった部分が陸続きになりました。

津波の被害も甚大で、この供養塔には、現在の長生村・白子町・大網白里町の地域で溺死者計2514人で、一松郷だけで845人の死者を数えています。

2009年6月14日 (日)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(その1)茂原市の藻原寺

Photo いずみ郷土史会の6月例会は、車での大多喜方面巡りです。

9時に更科公民館を出発し、まず立ち寄ったのは茂原市の藻原寺(日蓮宗)に。一休みを兼ね、境内をフラフラ。

寺号の藻原が茂原の語源であり、藻の原であった湿原を平安時代に藤原南家が牧野として開墾し、荘園にしたことに由来します。

Photo_2 藻原寺は、日蓮宗の最初の信者である斎藤兼綱(かねつな)の居館から始まっています。建長5年(1253)に安房の清澄山で法華開宗を宣言した日蓮は、法華経布教のため、鎌倉に向かう途中、ここで1ヶ月余り滞在しました。

このとき、「題目初唱の一族」と称された斎藤氏が居館を開放し、布教の便宜を図りました。この居館に設けられた仏堂を日蓮は「榎本庵」と名付け、のちに「妙光寺」と称され、江戸時代初期には地名から「藻原寺」と改名し、東身延といわれ、宗門から重視されました。

境内は実に整然と整備され、掃除が行われていました。「きれいですね。こんなにきれいにしておくと、汚す人はいないのでは?」と掃除をしている方に声を掛けますと、「いや、ゴミを捨てたり、置いていったりする人もいますよ」と。

2009年6月13日 (土)

房総のんびり紀行(2)久留里城址

Photo_6 かっての同期の管理職の仲間と、続いて訪れたのが久留里城址です。

たびたび訪れていますが、初めてという仲間がいましたので、案内しました。この城址は、南西に小櫃川が流れる天然の砦で、頂上に本丸跡がある他、二の丸跡や曲輪跡などが残っています。

平将門の三男頼胤(よりたね)が築いたもので、天文2年(1533)に里見義堯(よしたか)が北条軍と戦った城です。別名雨城(うじょう)とも呼ばれ、江戸時代には黒田氏3万石の居城でした。

模擬天守閣からの眺望が素晴らしく、訪れる人も多いようです。

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