無料ブログはココログ

« 千葉八街東照宮(権現神社) | トップページ | 八日市場東照宮と御鷹松 »

2007年7月 9日 (月)

徳川家康、綿貫夏右衛門を「野馬奉行」に任ずる

慶長19年(1614)1月に徳川家康は、鷹狩りで小間子野(八街市)から海上郡(銚子市・旭市・海上町・飯岡町)に行った時、小金村(松戸市)の牧士・夏右衛門政長を呼び出しました。

この夏右衛門政長の父は、千葉介昌胤(千葉介勝胤の子)で、山梨城主(四街道市)であり、のちに「月見星(やまなし)」と名乗ったといいます。この昌胤について、『千葉大系図』には、

<千葉介。明応四年乙卯(1495)五月十日誕生。天文二年(1533)、家督を相続。天文六年(1537)、源(足利)義明、小弓城に在り、逆威を振う。北条氏綱・氏康は謀うに、之を討つを欲す。十月、義明子弟及び里見右馬頭義弘ら、国府台(市川市)に出張し、大戦す(第1次国府台合戦)。義明、敗れ、軍、悉く討死し、義弘、逃げ退く。昌胤、原上総介胤定を小弓城に居さしめる。同十五年丙午(1546)正月二十四日卒。五十二歳。>

とあり、この昌胤の子には、利胤(千葉介)、胤家(原四郎。後、豊前守。原豊前守胤吉の養子となる)、胤盛(海上九郎。後、山城守。海上山城守の養子となる)がいます。

また、『千葉実録』には、永正2年(1505)に千葉介昌胤が元服する時、「山梨主税介」という者が太刀を捧げて佐倉から妙見宮(千葉神社)まで随行したといいます。

ところで、家康に呼び出された夏右衛門は、初めて家康に謁見しますが、この時、夏右衛門は、袷(あわせ)を着る時期でしたが、貧しかったため、綿入れの綿を抜いた服装で出向きました。この服装に気付いた家康は、夏右衛門政長にこれから「綿貫」と名乗るように命じたといいます。

また、家康は、狩場に出向いた夏右衛門政長に牧場の経営について尋ねました。この時、政長は、以前、家康が言った「商いの事」を思い出し、「ただ飼育すべきではなく、よく国用にあて駆使すべきである」と答えました。この政長の回答に感心した家康は、政長を「野馬奉行」に任じたといわれます。

« 千葉八街東照宮(権現神社) | トップページ | 八日市場東照宮と御鷹松 »

コメント

 はじめまして。綿貫夏衛門を調べていて、ここにたどりつきました。
 夏でも綿入れの綿を抜いたものを着ていて 綿貫を名乗るようになったというのは面白いですね。
 別に調べましたが下総、安房には牧が多かったのですね。
 また常磐線が通ることになった時、夏衛門の子孫が土地を寄付して北小金駅ができた。
 電車がここを通る時、「牧場の朝」のメロディが流れるとか。千葉はなかなか味のある所ですね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/205445/15705539

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康、綿貫夏右衛門を「野馬奉行」に任ずる:

« 千葉八街東照宮(権現神社) | トップページ | 八日市場東照宮と御鷹松 »

最近のトラックバック

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31