徳川家康、綿貫夏右衛門を「野馬奉行」に任ずる
慶長19年(1614)1月に徳川家康は、鷹狩りで小間子野(八街市)から海上郡(銚子市・旭市・海上町・飯岡町)に行った時、小金村(松戸市)の牧士・夏右衛門政長を呼び出しました。
この夏右衛門政長の父は、千葉介昌胤(千葉介勝胤の子)で、山梨城主(四街道市)であり、のちに「月見星(やまなし)」と名乗ったといいます。この昌胤について、『千葉大系図』には、
<千葉介。明応四年乙卯(1495)五月十日誕生。天文二年(1533)、家督を相続。天文六年(1537)、源(足利)義明、小弓城に在り、逆威を振う。北条氏綱・氏康は謀うに、之を討つを欲す。十月、義明子弟及び里見右馬頭義弘ら、国府台(市川市)に出張し、大戦す(第1次国府台合戦)。義明、敗れ、軍、悉く討死し、義弘、逃げ退く。昌胤、原上総介胤定を小弓城に居さしめる。同十五年丙午(1546)正月二十四日卒。五十二歳。>
とあり、この昌胤の子には、利胤(千葉介)、胤家(原四郎。後、豊前守。原豊前守胤吉の養子となる)、胤盛(海上九郎。後、山城守。海上山城守の養子となる)がいます。
また、『千葉実録』には、永正2年(1505)に千葉介昌胤が元服する時、「山梨主税介」という者が太刀を捧げて佐倉から妙見宮(千葉神社)まで随行したといいます。
ところで、家康に呼び出された夏右衛門は、初めて家康に謁見しますが、この時、夏右衛門は、袷(あわせ)を着る時期でしたが、貧しかったため、綿入れの綿を抜いた服装で出向きました。この服装に気付いた家康は、夏右衛門政長にこれから「綿貫」と名乗るように命じたといいます。
また、家康は、狩場に出向いた夏右衛門政長に牧場の経営について尋ねました。この時、政長は、以前、家康が言った「商いの事」を思い出し、「ただ飼育すべきではなく、よく国用にあて駆使すべきである」と答えました。この政長の回答に感心した家康は、政長を「野馬奉行」に任じたといわれます。
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はじめまして。綿貫夏衛門を調べていて、ここにたどりつきました。
夏でも綿入れの綿を抜いたものを着ていて 綿貫を名乗るようになったというのは面白いですね。
別に調べましたが下総、安房には牧が多かったのですね。
また常磐線が通ることになった時、夏衛門の子孫が土地を寄付して北小金駅ができた。
電車がここを通る時、「牧場の朝」のメロディが流れるとか。千葉はなかなか味のある所ですね。
投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年10月29日 (月) 19時57分