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2008年1月 5日 (土)

Magameつれづれ<第25号>九十九里町の武家屋敷門

1月3日も九十九里町真亀の「別宅・史想庵」に滞在。こちらに来ると、お昼頃に散歩が日課です。内陸から太平洋へと出ます。

だいたいは、別宅から真亀川沿いに上り、不動堂へ。ここには山脇学園臨海校舎があり、校地には国指定重要文化財の「武家屋敷門」があります。

この武家屋敷門は、江戸末期に老中を務めた本多美濃守忠民の屋敷の表門で、八重洲の大名小路にありましたが、明治に入り、司法省、宮内省、海軍予備学校と、所有者が変わり、縮小移築され、昭和5年(1930)に藤山雷太の所有となりました。その後、昭和39年(1964)に近鉄が買収し、同48年(1973)には山脇学園に譲渡され、翌年、現在地に移築され、復元されました。

門は正面21.8m、側面が4.7mで、二階建てです。屋根は本瓦葺切妻造りで、重厚な感じは往事の大名の重格を偲ばせています。

この種の門は、東京大学の赤門で知られる旧加賀屋敷御守殿門、東京国立博物館の旧伯耆池田屋敷表門があります。

九十九里町の武家屋敷門の本多忠民は、文化14年(1817)4月12日に讃岐高松藩主松平頼儀の5男として生まれ、その後、岡崎藩主・本多忠考の養子になり、天保6年(1835)に岡崎藩主となりました。正室は本多忠考の娘、子は一人娘で、養子に入った本多忠直の正室になりました。

忠民は、弘化3年(1846)に寺社奉行、安政4年(1857)に京都所司代となり、朝廷対策、特に条約締結問題で、朝幕間を奔走しました。翌安政5年(1858)に所司代を辞任しましたが、万延元年(1860)に老中に就任し、2年後の文久2年(1862)に辞任しました。しかし、元治元年(1864)に再任の台命が下り、一旦は固辞しましたが、結局、就任せざるを得ませんでした(老中首座)。翌元治2年(1865)には辞任し、明治維新の際には岡崎藩を恭順に統一しました。

明治2年(1869)に隠居し、藩主の座は、信州小諸藩から養子に入った忠直(牧野康哉の子)が継ぎました。

明治16年(1883)1月29日に東京の森川邸において67才で死去し、台東区浅草の誓願寺に埋葬されましたが、関東大震災のより焼失したため、寺は府中市紅葉丘へ移転し、墓は多摩霊園(府中市)に移されました。

なお、この忠民は、忠勝系本多家宗家の15代でした。

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