高村光太郎と智恵子=その愛の軌跡を追って(九十九里町編)その4.千鳥と遊ぶ智恵子
光太郎は、真亀の「田村別荘」で療養する智恵子を見舞うため、ほぼ毎週土曜日の早朝に両国駅を発ち、午後2~3時頃に智恵子の元に着いた。光太郎が背負うリュックには、智恵子の薬の他、好物のお菓子や果物がぎっしり詰められていたという。
智恵子は、光太郎が来るのを待ちに待っていたようで、『九十九里浜の初夏』には、
妻は熱ぽいやうな息をして私を喜び迎へる。私は妻を誘つていつも砂丘づたひに防風林の中をまづ歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。>
とあり、また、療養中の智恵子の様子については、
<彼女は海岸で身体は丈夫になり、朦朧状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になつたり、松林の一角に立つて、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになつた。>
と記している。
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にさわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちいーーー
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつも何か言つている智恵子が
ちい、ちい、ちいーーー
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちいーーー
人間商売さらりとやめて
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。
智恵子の変調は、ますます悪化し、田村別荘に置いておけない状態となり、同年12月20日に光太郎は、智恵子を東京に連れ戻した。しかし、すでに智恵子を自宅で看病することには限界に達していたようで、12月28日に光太郎が中原綾子の送った『封書』には、
<ちえ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽していますが、連日連夜の狂気状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります。何とか方法を講ずる外ないやうに存じます。(中略)此を書いているうちにもちえ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫している始末でございます。看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り、殆ど寸暇もなき有様です。>
とあり、光太郎の悲痛な思いを記している。
昭和36年7月に地元の句会「白寿俳句会」の人たちが中心となり、智恵子が遊んだ真亀海岸に「千鳥と遊ぶ智恵子」の詩碑を建立した。この詩碑は、光太郎のペン書きの草稿を4倍に拡大し、智恵子と同郷で、二本松市のブロンズ像の原型を造った彫刻家・斎藤芳也の「アクセントに強い光太郎の文字を表現するように、全体として太めになるように」という助言によって彫られたという。
また、この詩碑建立の一切を任された草野心平の「砂を高く盛って、きのこが生えるような詩碑にし、智恵子さんの孤独な姿を再現したい」という構想によって出来上がった。
しかし、昭和45年(1970)3月に一宮町から九十九里町片貝までの海岸寄りに「九十九里有料道路(波乗り道路)」の建設が始まり、その前に詩碑は5mほど陸側に移された(写真)。このため、この詩碑から九十九里浜は、有料道路に阻まれ、眺めることが出来なくなってしまった。
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