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2008年7月11日 (金)

高村光太郎と智恵子=その愛の軌跡を追って(九十九里町編)その1・九十九里浜の真亀

P1010021_2高村光太郎の「廃頽生活」から救い出した智恵子。両親の心配をよそに結婚した光太郎と智恵子。駒込林町のアトリエの1階で彫刻や詩、翻訳、随筆などに取り組む光太郎。2階で過ごし、絵画を描く智恵子。互いに干渉することなく精進する芸術の道への充実した日々。

しかし、こうした2人にとって幸せな日々はそう長くは続かなかった。

智恵子に初めて精神分裂症の兆候が顕れたのは、昭和6年(1931)8月のことで、丁度、光太郎は時事新報社の依嘱で三陸方面へ旅行していた最中であった。この異常に気付いたのは、智恵子に呼ばれて訪れた母センと姪春子であった。

そして、翌7年(1932)7月15日に智恵子は、自宅の2階の画室でアダリンを多量に服用し、自殺を図ったが、幸い1ヶ月余りの入院と療養により回復した。しかし、智恵子の脳の異常は、悪化の一途を辿っていった。

こうした中で、9年(1934)5月7日、光太郎は、智恵子が幾らかな快方に向かうかも知れないという、藁にもすがる願いで、母センが身を寄せる妹セツの婚家、山武郡豊海村(九十九里町)真亀の斎藤新吉方に転地させた。 この真亀の様子について、『九十九里浜の初夏』に、

<真亀といふ部落は、海水浴場としても知られている鰯の漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里足らずの浜辺に沿った淋しい漁村である。

九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方太東岬に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亙る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、太平洋岸の豪宕(ごうとう)極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。>

とある。

光太郎は、智恵子を真亀の斎藤方に送っていった。そして、東京に戻った光太郎は、9日に母センに宛てて手紙を送った。

<長い間ちえ子を中心に生活していたため、今ちえ子の居ない此の家に居ると、まるで空家に居る様な気がします。病気のちえ子がふびんでなりません。どうぞよろしく御看護お願ひ上げます。この病気は非常に気ながに、せかず静かに療養させる外はないので、そのおつもりに願ひます。東京の事はかえつて忘れる方が病気のためによろしいと思ひます。毎日軽い運動、散歩、新鮮な食物が何よりに存じます。便通毎日一度はあるやうに。風呂は三日おき位でよいかと思ひます。生水のませない様に御注意下さい。どうしても一度沸騰した湯ざましをやつて下さい。病人は時々我がままをするかも知れませんが、みな病気の故と思つて御かんべん下さい。小生は薬のなくなる頃、参上します。>

これ以降、光太郎は、ほぼ毎週1回、東京から真亀まで智恵子を見舞いに行き来することになる。

写真は、7月の真亀海岸。地元の人の話では、砂浜は海により随分削られて来た。以前は砂浜はもっと沖合いまであり、広かったという。

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