皇女和宮が降嫁の際に使用した駕籠~一宮町東漸寺(町指定有形文化財)~
幕末の動乱期に「公武合体」により幕府の権力を回復させようと、文久元年(1861)10月20日(3月12日)、15歳の和宮が14代将軍家茂との婚儀のために京都を出発した。このとき、攘夷派の妨害を避けるため、東海道ではなく、中山道を経由して江戸に向かった。
その行列は、幕府からのお迎えが2万人、和宮の駕籠の警備に12藩、沿道警備に29藩、道中警備のために動員された町人・農民らを含めると20万人とか、数十万人といい、行列は50kmに及んだともいわれる。
和宮について、和宮が埋葬された増上寺の「徳川墓所」が国土計画興業に売却されることとなり、発掘調査が行われ、その『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』によると、身長が143m、体重が34kg、極端な反っ歯と内股が特徴であったと推定されている。また、左手の手首から先の骨が発見されず、増上寺にある和宮の銅像からも左手が不自然に隠れていることから、生前に何らかの理由で左手を欠損していたのではないかという説がある。さらに和宮の棺から直垂姿をした若い男性の写真乾板が副葬品として発見されたが、その後の保存処理が悪かったため、翌日に乾板はただのガラス板になっていたという。この男性は不明であるが、夫の家茂という説、あるいは許嫁の有栖川宮熾仁親王という説がある。
さて、和宮は、11月14日に無事に板橋宿に到着し、翌15日に江戸九段の清水邸に入り、それから約1ヶ月後の12月11日に江戸城に入った。
この和宮の降嫁の時に使用した「駕籠」が一宮町の三島山東漸寺(曹洞宗)に保存されて
いる。東漸寺は、元は東漸寺谷にあった三島神社の別当で、本尊が波切不動明王であったが、慶長17年(1612)7月に光室恵珍によって現在地(一宮字東院)に移され、曹洞宗の寺院として開山したという。
その後、文政12年(1829)12月18日に火災に遭い、全山が焼失したが、天保4年(1834)4月に本堂が再建されたといい、これが現在の本堂であるという。
一宮町一帯は、文政9年(1826)3月に加納久儔(ひさとも)が1万3千石をもって一宮本郷村に陣屋を構えて支配した(一宮藩)。
その後、文久元年(1861)に久徴(ひさあきら)が若年寄に昇進し、和宮の降嫁に際して使者役として警備に当たり、26日間の長旅を無事に果たした。12月に久徴は清水邸に呼ばれ、その労を労われ、お礼として和宮使用の駕籠を下げ渡されたという。
加納家では、この駕籠を家宝として大事に保管していたが、明治4年(1871)7月の廃藩置県の際して、この駕籠を東漸寺に寄進したという。その経緯については、東漸寺は加納家の菩提寺ではないが、当時の住職が加納家と親しかったことによるといわれている。
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