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2008年12月 5日 (金)

千葉市緑区東山科町に入植した山科郷士(その2)金刀比羅(ことひら)神社

Photo_11 明治9年(1876)8月24日に山科郷士比留田権藤太ら20名は、戊辰戦争までの報償として千葉郡平山村・坂尾村・長峰村入会(字中峠野)の31町5反2畝25歩の土地を賜り、開墾のために入植しました。

この時、入植した山科郷士は、比留田権藤太(49歳)の他、四手井新五兵衛、その子四手井佐太郎(17歳)、岡田藤左衛門、大野木元右衛門らでした。

この開墾に当たっては、すでに賜っていた内藤新宿や大久保村の土地を売却し、開墾の資金としたといいます。

Photo_12 しかし、その開墾の努力も空しく、同13年(1880)1月には一万一千九百四十五円の負債を抱え、継続と村の維持が困難となり、同14年(1881)10月、岩倉具視に相談し、二千二百円を以て東山科村の土地の全部を宮内省に売却(「皇宮地附属地域」)し、古巣の山科に引き上げて行きました。

この東山科町には「山科郷士」の足跡はほとんどありませんが、唯一、「金刀比羅神社」が鎮座しています。明治・大正期の『県神社明細帳』(県総務部)には、

<一.祭神 倭大物主(やまとおおものぬし)竒長瓦魂(くしみかたま)命

一.由緒 右社は明治九年西京山科郷士比留多(田)権藤太、下総国千葉郡平山村字四作の原地を賜り、東山科村と号し、開墾候節、鎮座尊敬し、然るに目今信徒、頻に相増し、参拝を希望候者、既に数千人の多に至り候。依て今般、信徒の願に任せ、身體を始め、建物一切、信徒者寄附し、境内地の儀は藤川希璞所有地の内三百坪分割寄附し(中略)普く諸人に参拝為致度儀、明治二十年(1887)五月十四日御許可相成候。>

と記されています。

この土地について、法務局の『旧土地台帳』には、

<沿革/明治九年(1876)より同二十三年(1890)迄開墾鍬下年期  

  大正九年(1920)七月二十三日払下

登記/明治九年 東京市麹町区霞ヶ関一丁目藤井希璞

  明治二十四年(1891)皇宮地所属地域>

とあります。 

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