多部田町・大草町巡り(16)農民を救った「樰沢(たらさわ)善右衛門」墓碑
多部田の最福寺の裏手に「樰沢善右衛門墓碑」(高さ160cm、幅最大76cm)が樹木の奥に建っています。
天保7年(1836)2月に領主の戸田忠偲(ただし)は、川井村に年貢米を納める倉庫の建築と田地の測量を行おうとしましたが、そのねらいが年貢米の増加にあったことから農民たちが反対の騒動を起こしました(下総騒動)。
この時に忠偲の命を受けた家老の善右衛門は、同年4月中旬に「田地測量係」として当地に派遣されましたが、農民たちは善右衛門に倉庫建築と田地測量の中止を訴え出ました。これに悩んだ善右衛門は、26日の夜、主君宛にこれらを中止するように書いた遺書を残し、宿泊所の石井清太郎宅の離座敷で腹一文字に割腹し、果てました。翌日に発見された時には蒲団の上に血潮に染まってうつ伏せになっていたといいます。
直ちに善右衛門が残した遺書が主君に届けられ、主君は寛大に取扱い、別に咎めもなく、不問に付すとし、葬儀係として2人の家臣を派遣しました。5月2日に農民たちは「領民のために身を犠牲にした義士なり」と参集し、盛大に葬儀が行われ、多部田の墓地に埋葬されました。その後、主君は倉庫建築と田地測量の中止を命じたといいます。


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