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高村光太郎

2009年12月24日 (木)

高村光太郎が一服した白里村(大網白里町)の南今泉

Photo 昭和9年(1934)5月7日、光太郎は「藁にもすがる思い」で智恵子を母センが住む豊海村(九十九里町)真亀納屋に転地療養をさせました。

そして、光太郎は、ほぼ毎週1回、この真亀の地を智恵子の見舞いのため、訪れました。

朝早く両国駅を発ち、2時間20分かけて大網駅に着き、ここから東海バスに乗り、白里村(大網白里町)南今泉に着きました。

Photo_2 ここで、一宮からの東海バス、片貝行きに乗り換えますが、光太郎はこの南今泉の店屋で休憩をとりました。この店屋は、「富塚屋」であったといい、この店の女主人は、「黄八丈の着物を着て、帽子はなく、その頃流行した、藤のボストンバックを持った、光太郎先生をみつけました」と話されていました。

この富塚屋は、10年ぐらい前にセブンイレブンに変わりましたが、その後、閉店しています。

2009年12月22日 (火)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その13)智恵子ゆかりの「羽織」(Ⅱ)

Photo_3 智恵子が九十九里町真亀を去るとき、お世話になった真亀の小倉機屋さんの奥さんに、そのお礼にと置いていった「羽織」。

その後、大網の小川さんから、現在保管している鈴木茂さんに渡ったといいます。

Photo_4 鈴木さんは、町の方で保管し、展示するように申し出たが、町の方では「その経緯を書いたものがない」ということで、受け入れられなかったといいます。

鈴木さんは、地元で保管・公開先を探していますが、関心がないようで、可能性は薄いといい、「こうなつたら、福島の智恵子記念館しかないですかね」と話されています。

2009年12月21日 (月)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その12)智恵子ゆかりの「羽織」

Photo 昭和9年(1934)12月20日、智恵子は九十九里町真亀で7ヶ月余り療養し、母センや斎藤一家に見送られ、光太郎の連れられて自動車で東京のアトリエに戻りました。この間、体は丈夫になったが、脳の変調は進展したといいます。

Photo_2 この真亀での療養生活で、近くの機屋(はたや)の奥さんにお世話になったといい、東京に発つとき、そのお礼として「羽織」を置いていきました。

この「羽織」が大網白里町北今泉の鈴木茂さんが保管しています。羽織は、身丈98cm、幅64cm、袖丈54cm、袖幅31cmで、上品な文様のものです。

2009年12月12日 (土)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その11)その変遷の新説Ⅶ

Photo 汐浜観光組合が買い上げた「田村別荘」は、その地代と改修費の支払いは勿論、定期的な清掃も組合員が行っていた。

同時に組合は、大網白里町に「文化財」に指定するよう要望した。昭和48年(1973)2月に大網白里町文化財審議会の議題として提案されたが、

Photo_2 <昔の面影が薄く、純粋な文化財としての価値が少なく、現状は老朽化も進み、移築後、増築され、当時の遺構は柱と欄間程度である>

として否決され、文化財の指定には至らなかった。

その後、組合が経営する「汐浜荘」の閉鎖、組合員の高齢化により、管理が行き届かなくなり、廃屋状態になり、ときには浮浪者が寝泊まりしていたこともあったという。

写真上は宴会場に掲げた「汐浜荘」の旗

写真下は「田村別荘」跡地

2009年12月10日 (木)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その10)その変遷の新説Ⅵ

Photo 大網白里町北今泉の糸日谷正次氏が住まいとして使用していた「田村別荘」は、昭和46年(1971)5月に伊勢化学工業が工場地を広げるため、土地と一緒にこの伊勢化学工業に売却され、糸日谷氏は北今泉3696ー27に新築移転した。

翌47年(1972)に地元の「汐浜観光組合」(組合長大矢喜一)がこの「田村別荘」を伊勢化学工業から譲り受けた。

Photo_2 その理由については、この観光組合は、近くの国有地を借り、民宿兼海の家の「汐浜荘」を経営していた。この汐浜荘は、白里小学校の校舎の一部を移築し、近くに池を造り、うなぎの養殖も行っていたという。

当時、この付近は、夏になると東京方面からの海水浴客で賑わい、民宿や海の家が20軒以上建ち並んでいたという。

Photo_3 組合では、その観光の目玉として、この田村別荘を解体せずに汐浜荘の隣に移築しました。そして、地代を国に支払い、「高村光太郎智恵子抄ゆかりの家」として保存・公開した。

写真上は、伊勢化学工業内の「田村別荘」旧地

写真中は、宴会場に掲げられていた「汐浜荘」の旗

写真下は、汐浜荘の跡地

2009年12月 8日 (火)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その8)その変遷の新説Ⅳ

Photo 田村別荘は、地元の「汐浜観光組合」の所有となり、「高村光太郎智恵子抄ゆかりの家」として公開されましたが、組合員の高齢化により、組合そのものが自然消滅になりました。

そこで、平成元年(1989)に大網白里町はこの建物を文化財にすることを検討しましたが、やはり前回と同様の理由により、指定を断念し、平成2年(1990)から地代は町が負担しました。その額は109.5㎡、1万1498円であったといいます。

Photo_2 平成6年(1994)には九十九里町が観光資源として「智恵子抄碑」の隣接地に移築することを検討しましたが、これも財政的な理由などで実現しませんでした。

平成10年(1998)になり、地元でペンションを営む栗原親子が「田村別荘保存会」を設立し、3ヶ月をかけ、草刈り・室内の整備・屋根の修復などを行い、公開しました。

しかし、翌11年(1999)3月に管理上の問題から突如、取り壊され、姿を消しました。

2009年12月 7日 (月)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その7)その変遷の新説Ⅲ

Photo_6 昭和47年(1972)に汐浜観光組合が伊勢化学工業から譲り受けた「田村別荘」は、組合員が地代や改修費を負担し、定期的に清掃も行っていました。

そして、組合は、大網白里町に「文化財」に指定するよう、要望しました。これを受け、48年(1973)に町で検討しましたが、

(1)町に縁がない。

(2)原形を留めていない。

という理由で、指定を見送られましたといいます。年とともに、組合員も高齢化が進み、管理も行き届かなくなり、次第に廃屋の状態になりました。

時には浮浪者が住み着いたこともあったようです。

(写真は東金九十九里有料道路の今泉PAに建つ光太郎智恵子像)

2009年12月 6日 (日)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その6)その変遷の新説Ⅱ

Photo_2 昭和16年(1941)頃に田村別荘は、糸日谷正次氏が真亀の中村宏氏(あぶらや)から購入し、大網白里町北今泉3696番67号に移されました。

建物は解体せず、下にドラム缶を入れ、そのドラム缶を回しながら移動したといいます。

北今泉に移った「田村別荘」は、糸日谷氏は、自らの住まいとして使用し、その大きさは6畳が2部屋、4.5畳が1部屋などであったといいます。

糸日谷氏は、昭和26年(1951)頃に「田村別荘」を改修し、使える柱を基に建て替えたといい、この時、「田村別荘」の形態は失われたといいます。

その後、46年(1971)5月に伊勢化学工業が工場用地を広げるため、糸日谷氏の土地と建物を購入し、糸日谷氏は北今泉3696番27号(現在地)に新築・移転しました。

糸日谷氏が住んだ「田村別荘」は、47年(1972)に伊勢化学工業が地元の「汐浜観光組合」に譲り、伊勢化学工業の前辺りの県有地に移転しました。組合では「高村光太郎智恵子抄ゆかりの家」として保存し、公開しました。

2009年12月 5日 (土)

高村智恵子が療養した「田村別荘」(その5)その変遷の新説Ⅰ

Photo 智恵子が療養した「田村別荘」の変遷を探るため、九十九里町真亀と大網白里町北今泉を調査しました。

この別荘があった土地は、大正9年(1920)12月に東京市本郷区金助町17番地(昭和6年1月に本郷区湯島1丁目に転居)の田村豊造が地元真亀の中村守蔵から購入したもので、その後、建物が建てられたものと思われます。

昭和9年(1934)5月7日から12月21日までこの建物に智恵子が療養のために住み、光太郎はほぼ毎週1回、智恵子の見舞いに訪れました。

智恵子がこの別荘を引き上げ、東京に戻りましたが、母親センが引き続くこの別荘で生活していましたが、12年(1937)3月には引き上げています。

その後、15年(1940)3月にこの土地と建物は、真亀4674番地の網元の中村宏(あぶらや)が田村から購入しました。

建物は空き屋となり、壁や窓ガラスに落書きが目立ったといい、16年(1941)頃に、網元中村の曳き子であった大網白里町北今泉の糸日谷正次(こまちや)がこの建物を買い取り、解体せずに北今泉3696-67番地(太陽化学工業、のちに伊勢化学工業に合併の前)に移転したといいます。

このときの建物は、木造トタン葺平屋建、6畳が2部屋、4.5畳が1部屋などでした。

2009年11月22日 (日)

高村智恵子が療養した「田村別荘」について(その4)

Photo_4 智恵子が療養した「田村別荘」は、東京の湯島1丁目に住む「田村豊造」の所有であったことがはっきりしたが、疑問なのがこの別荘を誰の伝で借用したのかという点である。田村がもと住んでいたところが本郷区金助町(文京区本郷3丁目)で、この付近には明治から昭和にかけて夏目漱石・坪内逍遙・二葉亭四迷、正岡子規・宮沢賢治・石川啄木などの多くの文人たちが居を構えていたという。

この本郷区の千駄木に光太郎のアトリエがあることから、田村が知り合いの文人が、光太郎に紹介したとも推測することが出来る。

Photo_9 この「田村別荘」はすでに姿を消したが、かって大網白里町は「もともと自分の町にあったものではなく、建物が改築されているため、保存の予定はない」といい、九十九里町が「『千鳥と遊ぶ智恵子』の歌碑付近に移して保存する」との話もあった。

しかし、いずれ九十九里町真亀に戻り、保存されるだろうと思っていたが、平成12年に大網白里町に行ったときには影も形もなく、目を疑った。

地元の話によると、建物の柱は町役場の方で保存してあるというが確かではない。しかし、財政難や管理面、いきさつなどもありうが、文化的に貴重な文化財をいとも簡単に無くすことができるものと、腹立たしい限りである。

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