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南房総市

2014年7月22日 (火)

南房総市の史跡巡り(14)向西坊

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黒滝の右崖の上に、赤穂浪士の一人、片岡源五右衛門高房の家臣で、のちに出家してこの地で入定した洞窟があり、中に不動明王が安置されている。

Photo_2向西坊は、名を元助といい、東山秋間(群馬県安中市秋間)の百姓、三右衛門の長男として生まれた。幼い頃、母を亡くし、父は後妻をもらい、元助は養母に育てられたが折り合いが合わず、14歳のとき、家を飛び出した。

僅かなお金を持って伊勢に向かったが、途中でお金がなくなり、通りがかりの人に物乞いをしていたところ、地元の乞食たちに縄張り荒しと虐められていたのを助けたのが、片岡源五右衛門であった。

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片岡は、元助を助け、赤穂の屋敷の家僕(下男)として働かせた。元助は、主人の仕え、その恩に報いたいと、懸命に働いた。

その忠義は、大石内蔵助をも感心させたといい、赤穂城明け渡し後、浪人となっても片岡に仕えた。

元禄15年(1702)12月14日に赤穂浪士四十七士は、吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げたが、この討ち入りに片岡は元助の同行を許さなかった。

四十七士が切腹後、その菩提を手厚く弔うため、故郷の東山秋間の岩戸山(安中市)に帰って来た。

そして、元助は、出家して仏門に帰依し、名を「音外坊」と名乗り、近くの久保観音堂にこもり、浅野内匠頭夫妻や四十七士の石像と供養塔を造り始めた。

出来上がった石像を岩戸山まで担ぎ上げ、すべての石像が完成するまで、20数年を要した。

その後、名を「向西坊」に改めて全国行脚を続け、晩年は房総の朝夷郡和田村で過ごし、自分の天命を知ると、黒滝の脇の洞窟に入り、「予を念ずれば火難諸災難を除き、家内安全、五福壽を増長せしむ」と遺言し、入口を閉じて食を断ち、念仏を唱え、入定した。

入定して21日、最後の念仏を終えて生涯を終えた。時に享保17年(1732)9月30日、享年53。

2014年7月21日 (月)

南房総市の史跡巡り(13)黒滝

Photo花園地区を流れる長者川の中流にあり、花園山奥地の水を集め、一気に落ちる、落差15mの滝。

Photo_2花園林道のすぐ下で、鬱蒼と茂る木々、その中にあり、静寂にして、神秘的な様相を示す。

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近年、花嫁街道の名が知れ、この街道を歩く人や団体が多い。ハイキングコースの3kmのポイントの1つである。

滝の右崖には展望台が建てられ、全体を見渡すことが出来る。

2014年7月20日 (日)

南房総市の史跡巡り(12)勝栄山日運寺

Photo_7加茂にあり、「あじさい寺」としても知られ、境内に約2万本のあじさいが植えられている。

古くは勝栄坊という真言宗、または天台宗の小堂であった。

Photo_8文永元年(1264)頃に日蓮が鎌倉から小湊に帰る途中にこの坊に宿泊した。このとき、住職の行然が日蓮の人徳や高説に敬服し、日蓮宗に改宗したという。

また、このとき、異常な旱魃に村人が困窮しているのを知った日蓮は、自ら祈願し、御杖をこの地に立てた。すると、御杖のもとから清水がこんこんと湧き出たといい、この水で村人を救ったという(日蓮上人御杖井戸跡)。

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その後、元亀元年(1570)に里見義弘の命に依り勝浦城主正木時通は、小田原の北条氏を討つため、伊豆へ出兵したが、敗れて鎌倉の妙本寺に蟄居した。

翌年、時通は、房州に帰り、弟の頼忠(家康側室のお万の方の父)とともに勝栄坊を再興し、寺名を現在名に改め、菩提寺とした。

2012年11月20日 (火)

南房総市の史跡巡り(11)野島崎の「伝説の岩屋=源頼朝の隠れ岩」

Photo_2野島崎公園の遊歩道には「伝説の岩屋」がある。

Photo_3この岩屋前にある「説明板」(西暦2002年6月5日、白浜町記)には、

<西暦1180年、伊豆から安房に渡って来た源頼朝公は勢力的に動き、この野島崎に立ち寄り矢鏃(やじり)で大岩に野島山の三文字を刻んだ伝説であるが、史実でもあると云われている。

Photo_4この地で武運再興を願掛けている時、突然に時雨に近くの岩屋に実を寄せ、雨を凌いだ。この岩屋を「頼朝公の隠れ岩」と称し、この場所に深海に棲む創造の大蛸(おおだこ)の海神を祀った。海神は海面を鎮め、豊漁を授け、そして人々に幸をもたらす事であろう。

大蛸の廻りには鮑(あわび)やサザエを配し、特に中央の大鮑の殻の中に願いを掛けた賽銭を投げて、見事、貝の中に入れば開運間違いなしととの事。なぜならば貝運は開運への道の如し!>

と記されている。

2012年11月18日 (日)

南房総市の史跡巡り(10)野島崎灯台

Photo房総半島の最南端にそそり立つ白亜の灯台。

Photo_2光遠距離が17.0カイリ、高さが地面から灯台まで26m、水面から灯台まで38mで、明治2年(1869)12月18日に初点灯した。

Photo_3付近には、房総半島最南端の碑、若い海女の像、里見義実上陸の碑などがある。

Photo_4灯台の上から見る白浜の町並み、そして、海水が海岸をたたく白い波と雄大な太平洋。実に見応えがある。

2012年11月17日 (土)

南房総市の史跡巡り(9)杖珠(じょうじゅ)院

Photo_8白浜の若宮横手にある「前期里見氏の菩提寺」。

山号を「三峰山」といい、伊豆大仁(静岡県伊豆の国市)の曹洞宗蔵春院(のちに延命寺)の末寺で、本尊が延命地蔵尊。

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文安元年(1444)に蔵春院が月舟宗白禅師を招いて開山とし、里見氏初代の義実(よしざね)を開基として創建したという。

Photo_10本堂内には、前期里見氏の義実、成義、義通、義豊の4人の木像や、白浜里見一族の義穂(10世)が実家から持って来たという里見氏の記録がある。

また、墓所には、里見義実の供養塔などがある。

2012年11月16日 (金)

南房総市の史跡巡り(8)白浜の鍾乳洞

Photo_4白浜に千葉県では唯一の鍾乳洞があるということで、早速その地を訪れることにした。

県の案内による地番は、「白浜14039-1」とあったので、カーナビにこの地番をセットし、車を進めた。しかし、カーナビは「この近くです」というだけで、見当たらず。

Photo_5そこで、付近の方に聞くと、何か笑いながら、「塩浦バス停の所を入っていったところにあります」と。そして、「どこから来たの?」、「千葉からです」というと、「まあ、ご苦労様。わざわざ見に来るほどのものではありませんよ」と。

しかし、教えてもらった通りに車を進め、細い道を行くと、右手に「白浜の鍾乳洞」と記された案内柱を見つけた。この先を強引に車を進めると、行き止まりとなってしまった。どうにかUタウンが出来るだろうと思い、車を止めて案内柱のところに行った。

Photo_6この案内柱から実に細い道を行くと、県教育委員会が建てた案内板があり、

<この鍾乳洞は、中新世千倉貝層の泥岩からできているもので、奥行5m、高さ1.6mであり、壁には鍾乳石、石荀、石柱が形成されているが、規模はさほど大きくない。これらの鍾乳石などは、洞穴周辺の岩石のカルシウム分を溶かしこんだ地下水が、洞穴壁ににじみ出て、水分が蒸発することによりカルシウムが沈殿して形成されたものと考えられ、石灰岩地帯における鍾乳洞とは異なる。また、洞穴の奥には、不動明王像がまつられ、乳の神として効があるといわれて信仰されている。>

と記されている。

千葉県に鍾乳洞があると聞き、興味を抱き、探し探し訪れた。やっと見つけたものの、「立入り禁止」となり、危険防止のために二重の柵が建てられ、中に入ることが出来ない。残念!

Photo_7この鍾乳洞の左側には、落差30m、3段の「涼源寺の滝」がある。けたたましく水が落ちていた。涼源寺とは、正面の山の頂上にあった寺院であるという。

2012年11月15日 (木)

南房総市の史跡巡り(7)小松寺

Photo千倉町大貫に紅葉が美しい檀持山小松寺(真言宗)がある。文武天皇の時代(683~707)に役小角(えんのおづぬ=役行者)が小さな庵を建てたのが始まりという。

Photo_2その後、養老2年(718)に1間四面の堂宇が建てられ、巨松山檀持寺と称した。

平安時代の初期に火災により全山が焼失し、しばらく廃墟のままであった。延喜20年(920)には安房守住吉(すみよし)朝臣(あそん)により再建され、檀持山巨松寺に改めれられた。

Photo_3当初は天台宗に属していたが、その後、真言宗に改宗した。本尊は木造薬師如来像(平安時代作)で、瀬戸浜で魚網にかかった海中出現の像であるという。

安政元年(1854)に再び火災により全山が焼失。現在の小松寺は、本堂正面の龍の彫刻に「安政二丙辰十一月吉日」とあることから、安政2年(1855)に再建されたと考えられている。

境内一帯の地形の地形が生み出した紅葉の絶景スポットである。

2012年11月13日 (火)

南房総市の史跡巡り(5)正文寺

Photo和田町中三原にある「威武(いぶ)山正文寺」は、日蓮宗大本山小湊誕生寺の末寺で、安元・治承年間(1175~80)に当地の豪族である真田氏の菩提寺として創建した。禅宗の寺院であったという。

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天正2年(1574)に勝浦城主である正木頼忠(環斎)が、父の時忠の菩提を弔うため、この寺を日蓮宗に改宗し、再建したという。このときに、誕生寺第12世日威上人を開山とし、時忠の法名「威武院殿正文日出居士」から、現在名に改めた。

Photo_3開基の頼忠の娘は、家康の側室「お万の方」(養珠院)で、紀州徳川家の頼宣、水戸徳川家の頼房の生母であり、熱烈な日蓮宗の信者でもあった。

写真の一番上は本堂、2番目が祖師堂、最後が大檀那の正木頼忠の供養塔である。

2012年11月12日 (月)

南房総市の史跡巡り(4)石堂城址

Photo_13石堂寺境内の自然観察遊歩道を進むと山道となり、この山道を上って行くと、山頂部分に野鳥観察展望台と東屋がある。

Photo_14この一帯が「石堂城址」で、規模は15m×30mほどのものである。北側と南側には小規模ながら堀切によって区画されていて2郭であるが、地勢がかなり傾斜し、面積も狭いことから、建物を建てることは不可能で、物見のための小規模な出城であったようである。

Photo_15多分、山頂からの景色は、広大で、一見に値すると思い、険しい坂道を休むことなく登り、息を切らし、やっとの思いで到達した。しかし、回りに木々が大きくなり、石堂の集落の一部しか見えず。期待外れ、残念!

Photo_16国道をはさんで西側には石堂原城址がある。

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