南房総市の史跡巡り(14)向西坊

黒滝の右崖の上に、赤穂浪士の一人、片岡源五右衛門高房の家臣で、のちに出家してこの地で入定した洞窟があり、中に不動明王が安置されている。
向西坊は、名を元助といい、東山秋間(群馬県安中市秋間)の百姓、三右衛門の長男として生まれた。幼い頃、母を亡くし、父は後妻をもらい、元助は養母に育てられたが折り合いが合わず、14歳のとき、家を飛び出した。
僅かなお金を持って伊勢に向かったが、途中でお金がなくなり、通りがかりの人に物乞いをしていたところ、地元の乞食たちに縄張り荒しと虐められていたのを助けたのが、片岡源五右衛門であった。

片岡は、元助を助け、赤穂の屋敷の家僕(下男)として働かせた。元助は、主人の仕え、その恩に報いたいと、懸命に働いた。
その忠義は、大石内蔵助をも感心させたといい、赤穂城明け渡し後、浪人となっても片岡に仕えた。
元禄15年(1702)12月14日に赤穂浪士四十七士は、吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げたが、この討ち入りに片岡は元助の同行を許さなかった。
四十七士が切腹後、その菩提を手厚く弔うため、故郷の東山秋間の岩戸山(安中市)に帰って来た。
そして、元助は、出家して仏門に帰依し、名を「音外坊」と名乗り、近くの久保観音堂にこもり、浅野内匠頭夫妻や四十七士の石像と供養塔を造り始めた。
出来上がった石像を岩戸山まで担ぎ上げ、すべての石像が完成するまで、20数年を要した。
その後、名を「向西坊」に改めて全国行脚を続け、晩年は房総の朝夷郡和田村で過ごし、自分の天命を知ると、黒滝の脇の洞窟に入り、「予を念ずれば火難諸災難を除き、家内安全、五福壽を増長せしむ」と遺言し、入口を閉じて食を断ち、念仏を唱え、入定した。
入定して21日、最後の念仏を終えて生涯を終えた。時に享保17年(1732)9月30日、享年53。
































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