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旭市

2011年7月30日 (土)

旭市史跡散策(1)東禅寺を訪ねて

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網戸字城の内の東禅寺を訪ねました。

この寺は、天正18年(1590)に木曽義昌が下総網戸城に入城(1万石)後、城内の一郭に木曽家の菩提寺として建立したという。

入口の標柱には「木曽義昌公廟所」とあり、境内の右手には「木曽義昌公墓所」があります。

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義昌の奥方は、武田信玄の娘の万里姫(まりひめ)といい、木曽家は武田氏の一族になったが、信玄の子勝頼の代に意を決して織田信長に通じ、天正10年2月に天目山で勝頼の大軍を破った。

この功績により、木曽10万石を賜り、深志城主(松本城)となった。天正10年6月に信長が本能寺で明智光秀に討たれると、義昌は秀吉に属した。

この義昌は、義仲以来の名君で、網戸城に移ってからも、徳政に満ちた街づくりを行い、人々から「木曽様」と崇め慕われた。

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この網戸城で5年余り、文禄4年(1595)3月17日に56歳で病死した。

因みに「旭市」の「旭」は、この木曽義昌を「朝日将軍」と称されていたことに由来するという。

2008年8月26日 (火)

大友皇子(弘文天皇)妃・耳面刀自媛の東下り(その5)内裏神社

Photo_4 旭市泉川の県道104号(八日市場井戸野旭線)沿いに「内裏神社」がある。

この神社の由緒について、明治15年(1882)10月の『北総匝瑳郡野手邑内裏塚記』に、

<(前文は「内裏塚古墳の項」)其後、従者住干椿浦開田野営佃漁、以衛墳塋、天慶三年九月、分野田之墳土於椿海而行招魂之祭、永長元年九月、奉茶麿丘陵霊璽於招魂之地合祀之川口邑内内裏神社也。>

とあり、大正10年(1921)10月の『匝瑳郡誌』には、

Photo_5 <弘文天皇の妃が、壬申の乱を東国に避けようとし、野田浜に漂着して、そこで病歿したので、妃を葬り、墳土を築いて、野田内裏塚(匝瑳市野手)と称したが、妃の従者であった中臣英勝八世の孫美敷が、天慶三年(940)に、その墳土を移しきて、霊廟を造り、嘉保年中(1094~95)に至って、中臣英勝の後胤である正勝が、朝廷に皇妃の事を奉上し、封地を賜って、茶麿陵から霊璽(れいじ)を遷して、祠を建てて、内裏の号を付けて祀ったのが、内裏神社の始まりであるといわれている。>

と記され、内裏神社は天慶3年(940)に中臣英勝(あかつ)から8代目の美敷が野手の内裏塚の墳土の一部を泉川・川口入会地(現在地)に遷したのが起こりであるといい、その後、永長元年(1096)9月に14代目の正勝が、大友皇子の霊奏を合祀して堀河天皇の上奏し、天皇が勅使を下し、内裏の称号を下賜したという。

この神社では、耳面刀自媛が世を去った皇紀1333年にちなみ、33年に1回、旧暦9月22日に「御神幸」を行っている。川口・泉川・大塚原の旧3ヶ村が共同で行うもので、御輿を野手の内裏塚、さらに野手浜に運び、ここで海水に入れ、「お浜下り」を行っている。

この神事は、永長元年(1096)に初めて行われ、文化8年(1811)から33年ごとに行われるようになり、以後、天保14年(1843)、明治8年(1875)、明治40年(1907)、昭和14年(1939)、昭和46年(1971)に実施され、最近では平成15年(2003)に挙行された。

前書の『匝瑳郡誌』の内裏神社の項に、

<先づ県道より入れば、桜樹、整然、道を挟み、以て神域に達す。>

とあり、市街地にもかかわらず、境内は静寂で、いにしえの想いに駆り立てられる。

2008年8月25日 (月)

大友皇子(弘文天皇)妃・耳面刀自媛の東下り(その4)駒込日月神社

P1010159_2 大塚原古墳の東方、高橋川沿いを南北に走る道路の駒込の東側奥に駒込日月神社がある。

この神社の由緒について、明治期の『足川村誌』に、

<日月神社は、村の中央、字東にあり。地坪三百二十四坪。祭神二神(弘文天皇・耳面刀自尊)を合祀す。祭日、毎歳陰暦二月朔日、九月十九日。本社は、承応(天文)二葵巳年(1653,1533)二月創建。宝永五戊子年(1708)十一月再建す。従前より本村の鎮守たり。>

とあり、境内に建立されている平成15年(2003)11月の「記念の碑」には、

<古来、当社は祭神として弘文天皇を日神とし、皇妃を月神として御魂を祀り、帝の御旗を永く御神体として斎ってきた。>

と刻まれている。

伝承によると、不破関(岐阜県)から逃れて野手浜(匝瑳市)に漂着した大友皇子妃・耳面刀自媛は、日月章の御旗を携えていたといい、この御旗を御神体としたのが本社であるという。この御旗は、朝廷の旗印で、錦旗、別名菊章旗といい、日像と月像が描かれている。

杉とあららぎなどに囲まれた境内は、平成18年(2006)の大神幸を行うに当たり、本殿・幣殿の改修、拝殿の新築、御輿の修造、境内の整備を行ったといい、鳥居をくぐると右側に「天明二年(1782)八月建之」と刻まれた御手洗石があり、中央には真新しい本殿がある。この本殿の周辺には金比羅大明神・道祖神などの石仏が並び、境内の右側は公園となっている。

2008年8月24日 (日)

大友皇子(弘文天皇)妃・耳面刀自媛の東下り(その3)大塚原古墳

Photo_3 旭市大塚原の集落の一角に「大塚原古墳」がある。

嘉保元年(1094)に耳面刀自媛の従者の中臣英勝(あかつ)から数えて14代目の正勝は、浪荒い野手(匝瑳市)の内裏塚から住まいの椿海に近いこの地に媛の遺骨を改葬したといい、この古墳の墳形は円墳で、全長約10mである。

この古墳について、大正10年(1921)10月の『匝瑳郡誌』の豊畑村の項に、

<此の小丘は、明治24年(1891)、発掘せられたるに人骨及び土器を存じ、且つ棺蓋と見るべき石面に中臣(なかとみ)連金(むらじかね)子英勝と刻しありを以て、単に遙拝所のみならず、中臣英勝の墳墓なることをも確むるに至れり。蓋し中臣英勝なる者は右大臣中臣連金の子ならん。>

とあり、発掘された棺蓋の石面の文字から、この古墳は遙拝所だけではなく、中臣英勝の墳墓であることが判明したという。

また、前書の『匝瑳郡誌』の大塚原の項には、

<一小丘あり、広さ百余歩、蓋し遙拝所の趾ならん、其南五十歩計小流あり、御手洗川と云ふ、丘上より南に距る一里、野手の内裏塚を望むべく、北数町を距りて川口内裏神社を観る。>

と記されている。

Photo_2 その後、昭和46年(1971)11月に墳丘整備を行ったとき、瓶棺から細片した人骨が発見された。これを新潟大学学部に鑑定を依頼した結果、

<長い歳月を経てきたため、細片化し、体数・性別など、明確でなかったが、中に高貴な人の埋葬に使用したと思われる朱の付いたか細い骨片が発見された。>

という。

現在、墳丘に鳥居が建ち、中央に記念碑があり、この右側に「連金子英勝の石棺蓋石」(縦86cm、横54cm。水成岩)があるが、摩滅し、文字を読むこたが出来ない。

2008年8月 3日 (日)

九十九里浜の名のルーツ(その2)旭市・矢指神社

Photo_6 石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、安房に逃れますが、房総の地には「頼朝伝承」が数多く残り、旭市の矢指神社もその一つです。

九十九里浜の伝承について、『いすみの民話さんぽ』を元に見ていきます。

Photo_7 頼朝軍が太東岬にかしかかりました。黒潮洗う浜が青い空の下にどこまでも続いています。

「美しい景色だのう・・・・・」

「いったい、この浜辺はどのくらい続いているのか?」

と頼朝が家来に一人に問うと、

「は、はい。いまだ誰も計ったことがありま

Photo_11せんので、いかほどの道のりかは分かりかねます」

と。この答えに頼朝は、

「わからぬのか。このような美しい浜が・・・・・。それではわしが計ることにしよう」

「殿、地の果てが見えぬこの浜を、どのようにしてお計りになられますか?」

「ああ、たやすいことよ。このように計って

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いけばいいのだ!」

といい、頼朝は弓矢を取り出しました。

「一里(約600m)ごとに矢を立てていけば、計れるのではないか」。

頼朝は、家来を使い、1里ごとに矢を立てて行きました。

「九十八本目。そして次がいよいよ最後の矢だ」

先に太平洋に突き出た岬(刑部岬)が見える海岸(矢指ヶ浦海岸)に、最後の九十九本目の矢を指しました。そして、頼朝は、

「ここが九十九本目。この浜の名を『九十九里浜』と呼ぶがいい」

といわれました。

この九十九里浜は、南のいすみ市太東岬からこの刑部岬まで約60kmに及ぶ砂浜です。

この海岸から岡の方に200mほど行ったところに「矢指神社」があります。地元の人たちは「ぐんだり様」といい、昭和3年(1928)11月に「氏子中」が建立した石鳥居があり、先には朱色の権現造の本殿があります。

Photo_6 本殿の前には「打瀬若者中」が寄進した二基の石灯籠があり、右手には昭和34年(1959)6月1日建立の「仙元大菩薩」、本殿の裏に「金比羅大神」の石碑が建てられています。本殿から九十九里浜を眺めますと、石鳥居が見え、その先に九十九里浜の白い波が目に入ります。当時は、石鳥居から先一帯が砂浜であったといいます。

2008年6月28日 (土)

大坂夏の陣戦死者「出左次衛門」について

旭市岩井にある「大坂夏の陣戦死者墓石」の「出左次衛門」について調べています。

この大坂夏の陣における豊臣方の戦死者について、江戸初期の「長沢聞書」には、

<一.大坂衆の首級一万八千三百五十江戸表御公儀首帳の印有之候、大名衆自身の手柄は松平伊予守殿、永井信濃殿の由。>

とあり、豊臣方の戦死者は一万八千三百五十であったといいます。また、「冬夏難波深秘録」の中に「卯五月七日落城之節首帳」があり、

<一.首一ッ 二十許具足下黒若党討之  加藤三七郎

一.同一ッ 四十計黒えぼし黒帷子大小取若党堀石九右衛門討之 天野刑部左衛門

一.同二ッ 一人具足下浅黄二十六七 一人は三十計具足下柿さめ大脇指 石川弥七郎(中略)

五口合二百七十三也

右之通茶臼山へ差上候分此外切捨に相成り候所此首数よりは多御座候以上

元和元乙卯年五月七日落城也>

とあり、徳川方の家臣が豊臣方を討つたものの首数を記していますが、首の人名が分かるのは1名だけです。

このようにこの戦いで敗れ、亡くなった人の全てを把握するのは難しいようで、中でも豊臣方はさらに困難なようです。

大阪府大東市寺川4丁目の「法妙寺」に境内に、「大坂の陣戦死者供養塔」があり、冬の陣・夏の陣で戦死した豊臣方の霊を供養するため、その戒名を刻んであるといいます。その数は1万数千にのぼるようです。現在、これを記録したものを探しています。

まだまだ、「出左次衛門」の解明まで到達しないのが現状です。この人について、何か情報があれば連絡をお願いします。

2008年6月13日 (金)

旭市の鎌数伊勢大神宮を訪ねて

旭市内に境内1200坪(所有地18000坪)を誇る「鎌数伊勢大神宮」(通称お伊勢様。祭神天照大神)を訪ねました。

国道126号沿いの大鳥居をくぐると、左側に社務所・神楽殿、右側に直会殿があり、正面にはずっしりと構えた神宮が建てられいます。この神宮の由来は、寛文11年(1671)まで内陸部に「椿の海」という周囲42km、東西12kmの大きな池があったが、江戸の白井治郎右衛門や辻内刑部左衛門らが、この大きな池の水を九十九里浜に流し、この地を干拓して田畑を作る計画を立て、幕府に申請し、許可を得た。しかし、工事を始めると、周辺の農民や漁民が強く反対し、工事を中止するに至った。

そこで、工事関係者が協議し、伊勢神宮に祈願することとなり、内宮梅谷左近大夫長重神主が祈願したお札とご神木を下さり、このご神木を流した所より川を掘るように話された。

このお話の通り、川を堀り始めると、反対する人は一人もなく、寛文12年(1672)5月の干拓事業が成り、「干潟八万石」と、その川(新川)は完成したという。このときに伊勢内宮より分霊を移し、「鎌数伊勢大神宮」と称し、干潟の鎮守とした。

境内には樹齢300年以上という「夫婦杉」がある。根本が一つで、木の間から木が生まれている大杉で、この杉にお参りすると子宝に恵まれると伝えられている。この他、寛文15,6年に植えられたという「大イチョウ」、椿の海時代の塩のかたまりが化石になったという「塩の化石」(約1000年以上)などがある。

2008年6月12日 (木)

旭市岩井(旧海上町)の「大坂夏の陣戦死者墓石」を訪ねて

P1010211 千葉から126号(東金街道)を進み、旭市の綱戸交差点から県道銚子海上線に入り、岩井に向かう。岩郷郵便局のところのY字路を右手に入り、しばらく行くと集落になる。すぐに右手の細い道を入って行くと、すぐに右手に墓地があった。龍福寺の墓地で、この墓地に入ったところに町指定文化財(昭和46年10月1日指定)の表示があり、五輪塔(高さ29cm、幅33.6cm)があった(最下部のみ。飯岡石)。この五輪塔には、

(正面)性圓禅定門

    アク  連座

    為大菩堤也

(右側面)出左次衛門

      アン

      五月七日 大坂打死

(左側面)慶長二十年乙卯

      ア 十月二日

      施主敬白

(裏面)アー

と刻まれている。また、この五輪塔のうしろに夫人の「供養塔」という宝篋印塔(高さ22.5cm、幅35cm)があり、P1010212

(正面)妙勝禅定尼

    連座

    為逆修苛也

(左側面)慶長二十年

      乙卯十月二日

      施主敬白

と刻まれている。

五輪塔は、「出左次衛門」の墓石であり、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣に出陣した左次衛門が7日に討死したために建てた供養塔であるという。

この「出左次衛門」とはいったい何者なのか?そして、徳川方か、豊臣方か、誰の家臣か、どこの出身かなど、疑問があり、これを解決するため、所有者の龍福寺(真言宗)を訪ねた。丁度、住職さんがいらっしゃって、これらの疑問を尋ねたが、「史料」はなく、「伝承」のみであり、詳しくは分からないという。

何一つ疑問を解決することが出来ず、この地を後にした。

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