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佐倉市

2009年2月21日 (土)

佐倉・臼井の「権現水」を再訪して

Photo_3久しぶりに国道296号(成田街道)沿いにある佐倉市臼井台の長谷山宗徳寺を訪ねました。この寺は、元は応永3年(1396)に千葉・小弓城主原胤高が生実・柏崎に創建したもので、天正3年(1575)に原胤栄が臼井城に移った時に移転したといいます。

慶長19年(1614)正月に徳川家康が「鷹狩り」のため、東金辺を訪れたときにこの寺にも参詣したといい、享保7年(1722)の『佐倉風土記』の「権現水」の項に、

Photo_4 <印旛郡臼井の宗徳寺仏殿の前にあり。伝ふに東照神君(家康)、狩りのためここにおいて憩ふ。これを美とめていわく。宛も京師柳の水に似たり。>

とあり、家康がこの寺を訪れた時にこの清水を使ったお茶を召し上がり、この水が京都の柳の水に似て、美味しいと褒め称えたといいます。

この「権現水」は、宗徳寺墓地入口の左手にあり、「権現水」と「家康御遺訓」の石碑が建てられ、その前にあります。平成10年に訪れたときには、マンションや住宅地もなく、台地下によどんだ池がありましたが、その当時から比べると、周辺の景観が随分変化していました。

当時は、台地から流れ湧く水の小池であったと思われますが、現在は回りに石を囲んだ池になっており、きれいな水とは言い難く、飲むことはできません。

2009年2月11日 (水)

房総の史跡巡り(その3)臼井城址公園

Photo_4 平安時代末期から鎌倉時代初め頃に千葉氏一族の臼井常康が築城した臼井城は、現在、空堀や土塁が残り、城址公園として整備されている。

Photo_5 臼井氏中興の祖、興胤の代に中世城郭として東西約1km、南北約2km、外周に岩戸、師戸、志津の2支城を配し、稲荷台、臼井田宿内、田久留、仲台、州崎、王子台に砦を構え、鬼門には寺社を配して砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという要害堅固な平山城となった。

Photo_7 しかし、天正18年(1590)に家康の家臣酒井家次に攻められて落城し、翌年、酒井氏が3万石をもって入城したが、文禄2年(1593)に城内からの出火により焼失し、慶長9年(1604)に廃城となった。

2009年2月 9日 (月)

房総の史跡巡り(その2)臼井/雷電為右衛門の墓

Photo 初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回という、江戸時代の名力士・雷電為右衛門の墓が臼井にあります。

この雷電は、明和4年(1767)に信濃で生まれ、天明8年(1788)に松江藩主松平不昧公のお抱え力士になった。享和元年(1801)に臼井で興業があり、臼井上宿の茶屋の八重と出会い、結婚した。そして、文政8年(1825)2月21日に亡くなった。59歳であったという。

この墓石の脇にある「雷電為右衛門夫妻と一女の墓」の説明によると、

<雷電夫人おはんは、文政10年(1827)1月20日没、61歳。2人の間に女(名不詳)があり、寛政10年(1798)7月8日、幼くして没していることが墓石からうかがえる。ここはもと浄行寺(日蓮宗)の墓地で、おはんの生家の菩提寺だったところである。>

と刻まれています。

2009年2月 7日 (土)

房総の史跡巡り(その1)臼井/謙信一夜城の碑

Photo 京成臼井駅を降り、王子台という団地の一角に一夜城公園があります(3丁目)。

ここに「謙信一夜城の碑」が建っています。この碑に刻まれた由来によると、永禄9年(1566)3月、越後の上杉謙信が北条方の千葉胤富・原胤貞が守る臼井城を包囲し、王子台砦を攻略したが、臼井城は落とせず、長期戦となった。しかし、謙信は、足利義昭の上洛の要請を受けたため、越後に撤退したといいます。

Photo_2 この城は、謙信が臼井城を攻撃するため、本陣として建てられたものであるという。

公園には城址らしい形跡は見られず、ただこの大きな碑のみが、その様子を伝えています。

2008年7月25日 (金)

佐倉の武家屋敷通り(鏑木小路)を再訪して

Photo_1320日(日)に佐倉の歴史民俗博物館で研究会がある折に「武家屋敷通り」を訪問しました。

これまで何度か訪問したことがあり、今回、JR佐倉駅から歴博まで歩いて行く途中にありましたので、久しぶりに訪ねました。

Photo P1010059 資料によりますと、江戸時代の各城下町にあった武家住宅の大半は、藩の所有であり、藩士に貸し与えられていたものです。大名屋敷など、極めて少数の屋敷の他は、材料、規模ともに質素なもので、富裕な商家や農家に比較して遊びの空間が少ないことも、武家住宅の造作が藩によって行われていたことが影響していたようです。

P1010058 藩士は、職務内容や俸禄が変わると、それぞれの身分にあった住宅に転居することになりました。

武家屋敷の規模や様式は、居住する藩士の身分の象徴であり、各藩によって住宅の基準を定めていました。

佐倉藩においても、天保4年(1833)の「天保御制」の中に、武家住宅の基準(居住の制)がも設けられていました。この中には、身分による住宅の規模や門の形式、玄関の間口と構造、座敷の長押の有無、畳の種類などが細かく規定されていました。

佐倉の武家屋敷の中で、旧河原家住宅が大屋敷、旧但馬家住宅が中屋敷、旧武居家住宅が小屋敷に当たります。

2008年7月24日 (木)

佐倉城址を訪ねて

Photo_6 JR佐倉駅から歩くこと約30分。佐倉城址を訪ねました(上の写真は本丸跡)。Photo_4

右手の佐倉中学校(校門前が大手門跡)を過ぎると、間もなく左手に佐倉東高校があり、その先が佐倉城址公園になっています。大手門(追手門)跡のところに「案内板」があり、

<大手門は惣曲輪の表門。この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。>

とあり、また、城址公園入口にも「案内板」があり、

<佐倉城は、印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を加えて築城した平山城で、石は用いていない。

戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族・鹿島幹胤(みきPhoto_7たね)によって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。千葉邦胤(くにたね)もここに本城を移そうとしたが、なかばにして果たさず、のちに徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ、慶長16年(1611)正月から7年間をついやし、元和3年(1618)ごろに完成した。以来、徳川幕府では、江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。

Photo_12 延享3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間、11万石を領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ、城の施設はことごとくこわされた。その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵舎となった。>

と記されています。

周りが土塁に囲まれた本丸跡には夫婦モッコウの木、天守閣跡、台所門跡、角楼跡があり、内部は全くの平地です。

Photo_6 本丸は、一の門、台所門によって二の丸と通じ、二の丸には対面所などがありました。城主は、徳川家康が腰をかけた本丸をはばかって、対面所に居住したと伝えられています。

所々に表示板が立っており、その跡を探るには有り難い。かっての「侍屋敷」の一角に国立歴史民俗博物館が建っています。 

2008年7月23日 (水)

佐倉の歴史民俗博物館の企画展示「旅」を観に!

Photo_3  20日(日)に研究会が佐倉の歴史民俗博物館であり、出席しました。

この会は、同館教授の山本光正先生が主宰するもので、20年近く継続しています。

7月の例会は、企画展示「旅~江戸の旅から鉄道旅行へ」が行われている同館で開かれました。こ の企画展示は、山本先生が責任者となっており、先生の解説を聞きながら、展示の数々Photo_5を観ました。

P1010079_2  主な展示は、

・東海道路行之図

・東海道・中山道・甲州街道図屏風

・東海道パノラマ図

・鉄道作業局路線案内

・海光の千葉県

・伊豆の番頭

・東海道五十三次漫画絵巻

などが、2つの展示室に所狭しとばかり、展示され、見応えがあります。

この「企画展示」は6月30日の「内覧会」で参観し、今回が2度目でしたが、山本先生のお話を聞きながら廻りますと、よくわかり、1時間余りの解説時間があっという間に終わりました。

久しぶりに「旅」・「道」について、その基本を勉強した一日でした。

写真中は、見学者に説明される山本光正先生。

写真下は、7月に出版された山本先生の御著書(臨川書店。2600円+税)。

2008年7月 1日 (火)

国立歴史民俗博物館の企画展示「旅ー江戸の旅から鉄道旅行へ」の内覧会に出席して

Photo 昨日(6月30日)に国立歴史民俗博物館で7月1日からの企画展「旅ー江戸の旅から鉄道旅行へ」の内覧会に出席しました。

これまで佐倉市内へは自家用車で出掛けていましたが、この日はJR千葉駅から電車で佐倉へ、そして、歩いて博物館に行きました。佐倉城下をフラフラするつもりで、家を早めに出ました。11時頃に佐倉に着き、堀沿いを歩き、城址公園に入り、本丸址へ。意外と時間がかかり、博物館の入口付近で食事場所を探しました。やっと見付けたそば屋に入ったのが12時45分頃。内覧会開始が1時30分でしたので、急いで食事をし、5分前に会場へ。

内覧会には実に多くの人が集まり、会場に入れない人も出る始末。この企画展示の主任の山本光正先生の説明と、展示場における解説。

この企画展示については、

<現代の観光旅行のルーツは、近世に求めることができます。近世の旅は、伊勢参宮に代表される寺社参詣が目的でしたが、旅は街道も楽しみの場であり、各地の都市を中心に多様な旅行地が成立しました。>

との説明文があり、大いに期待しながら説明・解説を聞き、展示も見ました。山本先生の説明・解説は、講師馴れをしているようで、分かり易く、楽しく聞くことが出来ました。また、展示物には興味を引くものが多く、勉強になりました。

下のような工夫をこらした展示もありました。

<東海道線(東京~大阪間)所要時間の変遷>

・明治45年6月15日、初の特急列車・・・・11時間55分

・昭和5年10月1日、超特急「燕」・・・・・・・8時間20分

・昭和31年11月1日、全線電化、特急つばめ・・・7時間30分

・昭和33年11月1日、初の電車特急「こだま」・・・6時間50分

・昭和39年10月1日、新幹線開業、超特急「ひかり」・・・4時間

・昭和40年9月1日、新幹線超特急「ひかり」・・・・・3時間10分

・平成19年7月1日、現在の最速列車、新幹線「のぞみ」・・・2時間25分

博物館から頂いた「解説書」を読み、もう一度、じっくりと観に行く予定にしています。

帰りも城下周辺を歩き、JR佐倉駅へ。不思議に思ったのは、駅前というとその町の中心で、店も人も多い訳ですが、JR佐倉駅は、そうした様相がない。なぜだろうか?城下とはかなり離れています。これも、当時、鉄道が通ることに反対した結果なのだろうか?

いずれにしても、昨日はよく歩き、よく勉強した一日でした。

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