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匝瑳市

2011年7月14日 (木)

匝瑳市の史跡(1)脱走塚

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匝瑳市の中台に「脱走塚」がある。

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明治元年(1868)10月6日、匝瑳郡松山村で水戸藩内部の諸生派(佐幕派)と天狗党(維新派)との戦いが起こり、諸生派が敗れ、30名が討死した(「松山戦争」という)。

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そこで、天狗党は亡くなった諸生派の首を塩漬けにして竹槍に刺し、水戸に持ち帰ったといい、残された死体は、村人の手によって手厚く中台村西方寺墓地に葬られた。これを「脱走塚」と称されている。

2008年8月23日 (土)

大友皇子(弘文天皇)妃・耳面刀自媛の東下り(その2)内裏塚古墳(内裏神社)

P1010165 匝瑳市野手にある「内裏塚古墳」(内裏神社)は、県道122号(飯岡片貝線)の内裏塚集落の一角にある。

野手浜に上陸した病の耳面刀自媛は、野手村の熱田重郎兵衛宅に身を寄せ、従者の中臣英勝らは勿論、重郎兵衛や忠兵衛ら里人の手厚い看護を受けたが、その甲斐もなく、白鳳元年(672)9月23日に20歳の若さで亡くなった。

従者や里人たちは、近くに塚を築き、ここに耳面刀自媛の遺体を埋葬したという。

P1010161 明治15年(1882)10月の『北総匝瑳郡野手邑内裏塚記』(広田彬)には、

<北総匝瑳郡野手邑、旧野田、西南連滄海、東北接平田距、古之椿湖三里許也、田圃之間有一小丘松柏蒼然、其中存桑樹枯根周囲八尺、此地土人称神山、或神林所謂内裏塚也、相伝葬、天皇大友之妃、彬謹按古史、皇妃名耳面刀自大織内大臣藤原鎌足之女也、白鳳元年皇妃避兵乱、東国中臣英勝等従者十有八人、船漂到干下総浜、皇妃病而薨薨、従者涕泣面葬之、野田邑内裏塚是也>

とあり、大正10年(1921)の『匝瑳郡誌』には、

<雑樹叢生陵形を為さず、元八日市場警P1010162 察署長広田彬の建てたる小碑あり。碑前に一桑樹の枯根存す、八尺、近年まで一,二葉を生じたりと云ふ。土俗、此の内裏塚、或は神山、或は神林と称し、周囲の菜園、不潔の肥料を施すを禁じ居れり。>

と記され、この付近の人たちは、この内裏塚を崇敬したという。

耳面刀自媛の死後、従者の中臣英勝らは、この地に住み、漁業と農業を営みながら、この塚を守ったが、嘉保元年(1094)に中臣英勝から数えて14代目の正勝のとき、この塚に埋められていた耳面刀自媛の遺骨を大塚原(旭市)に移したという(大塚原古墳)。

P1010163_2 その後、この内裏塚一帯は、永く荒廃していたが、県営圃場整備事業により、塚の一部が排水路用地となったために移設し、昭和41年(1966)に記念碑が建立された。

現在は、前面に小径と排水路、周辺が田んぼとなり、「内裏神社」の鳥居の中には2基の記念碑があるだけで、墳丘のような形状は見られない。

*写真上は内裏塚古墳全景

*写真中は明治15年に広田彬氏が建立した記念碑

*写真下は、昭和41年2月に建てた記念碑

2008年8月22日 (金)

大友皇子(弘文天皇)妃・耳面刀自媛の東(あづま)下り(その1)野手浜

P1010167_2 672年6月の「壬申の乱」で、大海人皇子(のちの天武天皇)に敗れた大友皇子(弘文天皇)は、海路、房総に逃れ、君津郡小櫃村俵田(君津市俵田)に御所(小川御所)を営んだが、のちに天武天皇軍に攻められ、遂に自害した。俵田に鎮座する「白山神社」は、この大友皇子を祀ったものであるといい、裏山にある「丸山古墳」がその御陵であるという。

他方、大友皇子妃・耳面刀自(みみもとじめ)媛も、難を逃れるため、中臣英勝(あかつ)ら18名の従者と共に、父藤原(中臣)鎌足の故郷・鹿島郡(茨城県)に向かった。

P1010166 不破の関(岐阜県不破郡関ヶ原町松尾)から陸路を熱田(名古屋市。東海道の陸路・海路の乗換点)に行き、ここから海路で鹿島浦(東茨城郡)に向かったが、その途中、耳面刀自媛は船上で病に倒れ、急遽、野手浜(匝瑳市野手)に船を寄せた。

この野手浜は、野田浜ともいい、匝瑳市国民宿舎「のさか望洋荘」が建っており、海岸には波防堤があり、これをを境にして南側には白砂が広がる海水浴場となり、北側は浜辺が少なく、サーファー場となっている。この浜は、年間を通してサーフィンをするために訪れる人が多いという。

写真上は波防堤から北側で、サーファーが多い。

写真下は広い砂浜が広がる野手浜海水浴場。

2008年7月10日 (木)

飯高壇林跡(飯高寺)を訪ねて

P1010034 匝瑳市にある飯高壇林跡(県指定史跡)を訪ねました。

天正8年(1580)にこの地の豪族、平山刑部少輔常時が日生を招き、城内に寺を造り、学問所(壇林)としたのが始まりとされています。天正19年(1591)に徳川幕府から日蓮宗の宗門根本壇林として公認され、以後、幕府の保護を受けました。特に家康の側室お万の方(養珠院)の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宣の寄進などにより、規模が整えられ、以後、寺は日蓮宗の根本壇林として全国各地から参集する修業僧たちで賑わい、名僧を輩出しました。

慶安3年(1650)に火災に遭い、衆寮・楼門・大講堂を焼失し、現在の建物は、その翌年(慶安4年)に再建されたものといわれています。

明治7年(1874)に壇林の制度が廃止され、不要な建物は取り壊され、現在では広大な境内・杉並木・大講堂・総門・鐘楼・鼓楼などが往時の盛大さをしのばせてくれます。

写真は、古木の杉並木から大講堂に向けて写したものです。

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