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香取市

2012年1月 8日 (日)

小見川地区史跡を訪ねて(6)芳泰寺

Photo岡飯田の森山城東端の麓に建つ芳泰寺(ほうたいじ)は、千葉氏六党の一つ、東氏の菩提寺である。

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曹洞宗に属し、山号を通性山、院号を真性院といい、はじめ平常将が平山村(東庄町平山)に創建したという。

Photo_3その後、建仁2年(1202)に東胤頼が現在地に移し、以後、東氏の菩提寺とした。本尊は十一面観世音菩薩で、本堂の屋根には千葉宗家の紋章、月星がある。

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境内には東氏始祖の胤常夫妻の墓があり、小見川町(香取市)指定文化財となっている。

森山城の一角に建つ本寺は、平山にあった時代は、平山寺と称したといい、鎌倉時代に現在地に移り、東胤頼夫妻の諡名(おくりな)から通性山真性院芳泰寺になったという。

本堂は3回の大火に遭い、現在の建物は弘化4年(1847)に再建したものである。

山門が2階建てとなり、2階が鐘楼になっているのが実に珍しい。

また、山門の手前30mほどのところに建つ結界石(石碑)は、禅宗特有のもので、「不許葷(くん)酒入山門」(葷酒を食して(持って)山門を入ることを許さず)とあり、仏道修行の妨げになるものの持ち込みを禁止している。

葷(くん)とはニラ・ニンニク・ねぎなどの臭気のあるものと意。

森山城は、千葉常胤の6男、胤頼が鎌倉時代の建保6年(1218)に築城した。直線連郭式の山城で、東西端は三城から根小(古)屋まで620mあり、台地の標高は約45mである。

2012年1月 7日 (土)

小見川地区史跡を訪ねて(5)来迎寺

Photo貝塚に東光山宝樹院来迎寺という浄土宗の寺院があり、本尊は阿弥陀如来です。

Photo_2寺伝によると、寛治2年(1088)に千葉常将が東庄町平山に創建したといい、建久9年(1198)に釈迦堂を移転し、明恵高弁上人が開山といいます。この上人は、華厳宗の高僧であることや、第1世の金蓮社親誉上人が「改宗中興」と位置づけられていることから、開山当初は別の宗派であったと考えられています。

Photo_3同年に源頼朝が鹿島神宮参拝の折に、当寺に憩いの場を構えたと伝えられています。境内には頼朝・頼家・実朝の3代将軍の墓碑が建っています。

Photo_4また、本堂の右側に清心院円誉理月大信女(領主松平外記頭伊昌(これまさ)の室おふうの方)の墓碑が建っています。このおふうの方は、酒井忠次の娘で、家康の養女となり、伊昌に嫁いだという。平生念仏を唱え、浄土宗に帰依し、遺言にょって当寺に遺髪を葬り、石碑を建てた。その後、松平家より毎年、茶湯料が寄進され、また、菩提のため、釈迦誕生絵、涅槃絵を寄進したといわれています。

この他、境内には板碑(2枚)、神野角助の墓碑、府馬左衛門尉時持の墓碑、良月妙訓大信女(府馬時持の室おこうの方)の墓碑、四ッ目藤四郎(尾張の人。開山明恵上人は茶道を好み、茶器を造らせた)の墓碑、真阿弥陀仏千葉介常胤の墓碑などがある。

2012年1月 6日 (金)

小見川地区史跡を訪ねて(4)良文(よしぶみ)貝塚

Photo_6香取市貝塚にある縄文時代後期の貝塚で、昭和5年(1930)に国の史跡に指定されている。

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この貝塚は、利根川下流域の最大規模を誇り、標高約40mの下総台地に立地し、東西約250m、南北約100mの範囲に大小9ヶ所に分布している。「良文」とは、この地区の市町村合併以前の旧村名で、「良文村」と称した。

Photo_8昭和4年(1929)に大山史前学研究所により発掘調査が行われ、縄文土器を始め、土偶、鹿角製尖頭器などの遺物が発見された。貝層は、約30~120cmの厚さで、ハマグリが最も多く、シオフキ、オキシジミ、アカニシ、カガミカイ、サルボウなどである。

貝塚が標高40mの台地に群集していることから、当時の気候は現在より温暖で、海水面が高かったと考えられている(縄文海進)。

2012年1月 5日 (木)

小見川地区史跡を訪ねて(3)名医佐藤尚中の誕生の地

Photo_4善光寺の近くにある「内浜公園」は、東京順天堂医院を開設した佐藤尚中(山口舜海)が生まれた場所である。

文政10年(1827)に尚中は、小見川藩1万石の内田候の侍医山口甫遷(ほせん)の次男として生まれ、舜海(しゅんかい)と称した。

Photo_516歳のとき、シーボルトの弟子であった蘭方医の佐藤泰然の門に入り、のちに師とともに佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きにより佐倉に移り、そこで泰然の養子となり、佐藤尚中と改名した。

34歳のとき、長崎に留学し、オランダ人医師のポンペに蘭学を学び、特に外科手術には優れた技能を示した。2年間の留学を終え、佐倉に戻り、佐倉順天堂の経営に当たった。

明治2年(1869)、43歳のときに、大学東校(のちの東京大学医学部)の主宰として迎えられ、大学大丞大博士大典医(だいてんい)となった。この地位は、大学総長・日本で唯一の大博士・明治天皇の侍医頭であった。

明治6年(1873)にはすべての官職を辞め、民間人の病院である東京順天堂医院(現在の順天堂大学)を建て、医学界に多大な業績を残した。

Photo明治15年(1882)に56歳で他界した。誕生の地は、尚中の甥に当たる山口翁助(おうすけ)が明治23年に東京に移転するまで続いた。

公園の一角には尚中産湯の井戸跡がある。

2012年1月 4日 (水)

小見川地区史跡を訪ねて(2)善光寺(その2)「腹切り様」伝説

Photo_3善光寺の墓所の中に「腹切り様」の石碑が建てられ、縁結び、厄除けの願をかけると願いが叶うという伝説がある。

この「腹切り様」には次のような伝説がある。

安永年間、小見川一の豪商回船問屋の平塚屋は、内田藩1万石の御用商人であつた。その一人娘の弥生は、小見川小町といわれるほどの美人で、気立てのよい評判の娘であった。

ところが、不治の病に罹り、医薬を尽くすが、痩せ衰えていくばかりであった。そんなとき、吉野屋という旅籠に泊まっていた江戸の医学生、源之進が治療を依頼され、もし病気が治れば望みは何でも叶えるとの確約をした。

そこで、源之進は、治療に専念し、2ヶ月が経つと、次第に弥生が食欲が出て、回復に向かった。同時に2人は、お互いに恋心を抱くようになった。

そこに、藩の勘定奉行の倅が横恋慕をしたため、結局、2人の恋は叶わなかった。源之進は、平塚家の墓前で割腹自殺をし、一足違いで遅れて来た弥生の喉を突いて果てた。

折り重なって死んだ2人の死に顔は、実に幸せそうで、町に人たちは、あの世で晴れて夫婦になれたと噂し、この墓を「腹切り様」と呼ぶようになった。また、平塚家では、2人の供養のため、山門を寄進し、冥福を祈ったという。

2012年1月 3日 (火)

小見川地区史跡を訪ねて(1)善光寺(その1)初代松本幸四郎の墓

Photo初代松本幸四郎の墓があるということで訪ねた。

江戸歌舞伎界の名優、松本幸四郎は、延宝2年(1674)に香取市外浜(とはま)の嶋田家で生まれ、幼名を小四郎といった。

元禄元年、15歳のときに江戸に出て、久松多四郎の弟子となり、のちに「松は霜雪に操を変えず、本は本心の本」として松本姓にし、名を幸四郎と改めた。

50歳のときに「弁慶」の役に大当たりし、弁慶の上演回数は1100回に及んだといい、2代目の市川団十郎と並び、当代の名優と称された。

Photo_2享保15年(1730)に57歳で亡くなり、ここ善光寺と、東京都文京区の栄松院に墓所がある。

ところで、この善光寺の創建は天正4年(1576)で、信州善光寺の沙門清賢法師が開山したといい、本尊が阿弥陀如来で、天台宗の寺院である。

2008年7月14日 (月)

佐原の大祭・夏祭りを訪ねて

P1010040_27月12日(土)に「いずみ郷土史会」の人たちと「佐原の夏祭り」に出掛けた。

8時30分に更科公民館を出発し、10時前に佐原市内に入った。丁度、10時から交通規制が始まったが、その前に通過し、伊能忠敬記念館の駐車場に車を止めた。ほとんど満車であったが、ぎりぎり駐車することが出来た。

ここから忠敬橋を渡り、伊能忠敬旧宅前で山車を見学することにした。

P1010041 この佐原の大祭は、国の「重要無形民俗文化財」に指定され、夏は小野川を挟んで東側の本宿・八坂神社、秋は西側の新宿・諏訪神社の祭礼として行われている。

この大祭の起源は、中世からの町場である本宿の八坂神社の前身、牛頭天王社の「浜下り」であるといい、正徳4年(1714)に初めて御輿神幸に練物が登場したという。

一方、天正年間(1573~92)に開起された新宿では、本宿・新宿の区別なく、天王社を祀っていたが、享保6年(1721)に名主・伊能権之丞が中心となり、本宿の祇園祭とは別に、練物を中心とした諏訪神社の祭礼を開始した。

現在の山車祭りは、祇園祭の練物が享保10年(1725)に取り止めとなり、再開するのが明和5年(1768)であることから、諏訪神社祭礼の享保6年を起源としている。

P1010038 今年の夏祭りの山車は10台(秋祭りを12台)で、この日は10時から「山車乱曳き」が始まった。田宿の伊弉諾尊(嘉永4年作)、船戸の神武天皇(平成9年作)、下仲町の菅原道真(作年不詳)、上仲町の太田道灌(明治34年作)、本川岸の天鈿女命(明治15年作)、寺宿の金時山姥(嘉永3年作)など、どの山車も見応えがあり、素晴らしい。また、若い男女の他に子供たちも参加し、指揮者の元に山車を引っ張ったり、押したり、そして、所々で躍ったりしている。実になごやかな光景である。

お昼となり、かつ丼・天丼で有名な「おけまつ」で名物を美味しく頂き、2時過ぎに佐原を後にした。

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