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鋸南町

2014年10月31日 (金)

鋸南町の隠れた史跡めぐり(4)夏目漱石も訪れた保田海水浴場

Photo保田は、明治以降、多くの海水浴客が押し寄せ避暑地としても賑わい、文人墨客も訪れ、作品の中の舞台としても登場した。

明治22年(1889)8月7日、22歳の夏目漱石は、第一高等中学校の学友と4人で保田を訪れ、昼は海水浴や鋸山の散策、夜は酒盛り、囲碁、カルタをし、10日間過ごした。

小説『こころ』には、保田が舞台となる場面もあり、保田はどこもかしこも生臭いとか、海に入れば大きな石がごろごろしているとあり、あまりいい印象ではなかったようである。しかし、鋸山の景観には深く感銘したようである。

この漱石の保田での海水浴を記念し、保田海岸に「房州海水浴発祥の地」の石碑が建てられている。

2014年10月30日 (木)

鋸南町の隠れた史跡めぐり(3)名家柳原家の屋敷を移築した「大正庵」

結城別荘の手前に「大正庵」がある。『住宅地図』には「東京急行(株)大正庵」と記されている。

この大正庵の建物は、大正天皇の生母である柳沢愛子の実家、柳原家より移築されたものであるという(現在は建て直したもの)。

柳原家は、名家の家柄を有する公家で、京都十三名家、藤原北家の日野家の分流といい、明治維新後、伯爵の叙された。

愛子は、明治天皇と皇后美子(はるこ。旧一条美子)との間には子女が生まれず、側室として天皇に仕え、「典侍(ないしのすけ、こんじ)」という高級女官の最上位に位置した。

大正ロマンの三女流歌人の一人、柳原白蓮(明治18年生まれ)は、柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹に当たる。

ちなみに柳原家の屋敷は、現在の元麻布の中国大使館(約3300坪)のところにあった。

2014年10月17日 (金)

鋸南町の隠れた史跡めぐり(2)孫文が隠れ住んだという「結城別荘」

Photo孫文が日本に亡命中、保田に隠れ住んでいたという家がある。その家を「結城別荘」といい、『住宅地図』で見ると、「大六1126番地、東京電力健保組合保田荘」で、現在は封鎖されており、中に立ち入ることは出来ない。

Photo_2この別荘は、もともとは明治末、または大正初期に福岡の鉱山経営者の結城虎五郎が娘の療養のために建てたもので、のちに関東配電(東京電力の前身)の健保組合に保養所となった。

孫文は、明治44年(1911)に辛亥革命(第1革命)が起こり、翌年1月に南京で「中華民国臨時政府」が成立し、「臨時大総統」に就任した。

しかし、孫文らの勢力はひ弱であり、就任2ヶ月後、その地位を清朝の実力者であった袁世凱に譲った。政権を掌握した袁世凱は、孫文らの勢力を圧迫したため、孫文らは再び兵を挙げた(第2革命)が失敗し、同年8月に日本に亡命し、大正5年(1916)までの約3年間を日本で過ごした。

Photo_3この期間に一時期にこの「結城別荘」で過ごしていたといい、この別荘の奥には鉄格子のはまった部屋があり、ここが孫文が寝泊りした部屋であったという。

この別荘には、蒋介石や東條英機らも訪ねてきたという。

2014年10月14日 (火)

鋸南町の隠れた史跡めぐり(1)靉日(あいじつ)荘

Photo_2JR保田駅から徒歩で10分、保田小学校の裏山(保田776)に「貸山荘 紫花(しか)山荘」がある。この地は、かって相対性理論のアインシュタインの弟子であり、アララギ派の歌人でもあった石原純(あつし)と美貌の女流歌人原阿佐緒(あさお)が駆け落ちし、ここの新居を建てて暮らしたところである。

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新居は、洋風のモダンな建物で、「靉日荘」(阿佐緒は「紫花(しか)山房」と呼んでいた。

この石原と阿佐緒との保田での生活は、大正10年(1921)10月からで、駅の近くにあった旅館「松音楼」に宿泊した。

この二人の関係は、当時、「恋愛事件」としてセンセーショナル的に新聞紙上を賑わせた。

・「歌人原阿佐緒との恋愛で東北大教授を辞職」(東京朝日新聞)

・「女歌人との関係から石原博士辞職」(読売新聞)

・「病気に堪えずとて辞表を提出 原阿佐緒との経緯が直接の原因」(河北新報)

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翌大正11年(1922)5月に保田町本郷776番地の土地を購入し、ここに新居を建て、移り住んだ。


しかし、二人の生活は、日に日にギクシャクしたといわれ、昭和3年(1928)9月25日に阿佐緒は、石原に無断で保田を去り、27日には上野を発って実家の宮床村(宮城県大和町宮床)に帰った。

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これが、7年間続いた石原と阿佐緒との保田での生活の終焉であり、かつ別離でもあり、再び顔を合わすことはなかった。

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著名な大学教授と歌人として将来が期待された女流歌人とが恋の逃避行をした地は、現在、地元の電気屋が土地を購入し、建物は昭和44年(1969)に取り壊され、新たに貸山荘を建て、その屋根には靉日荘の屋根瓦を使用している。

その屋根瓦が、唯一の名残りである。

2010年6月20日 (日)

鋸南町巡り見学会(その4)菱川師宣の墓

Photo元禄7年(1694)に江戸で亡くなった師宣は、この鋸南町の別願院に祀られたといいますが、元禄16年の大地震と大津波で、墓は流されたといわれます。

Photo_2 現在の墓は再建されたものです。

2010年6月18日 (金)

鋸南町巡り見学会(その3)菱川師宣生誕の地

Photo_9 次は保田街中に「菱川師宣生誕の地」へ。

Photo_10 師宣は、ここに屋敷があった縫箔師(ぬいはくし)菱川吉左衛門の長男として生まれました。しかし、その生年月日は、不明になっています。

のちに江戸に出て、浮世絵師として活躍します。代表作が「見返り美人」です。

2010年6月17日 (木)

鋸南町巡り見学会(その2)大黒山

Photo_4 次に訪れたのが「大黒山展望台」です。

勝山海岸にいた地元の人によると、「子供の頃はよく登ったが、今は行かない」といいます。

Photo_5 歩いて20分ぐらいといいことですが、結構、急な階段を登ります。息を切らしながら、かつ休みながら、上へ上へと。

Photo_6 一緒に行った80歳を越えた人は、一気に頂上へと進みます。

女の人も、途中で残念せずに私の後へと続きます。

Photo_8 やっと頂上の展望台へ。東京湾が実にはっきりと、きれいに見えます。さわやかな風が汗をかいた額を横切ります。

登った甲斐がありました。

2010年6月16日 (水)

鋸南町巡り見学会(その1)

さらしなの仲間(泉郷土史会)と鋸南町方面に出掛けました。

Photo 大宮インターから館山道を通り、鋸南富山インターで下車し、一般道を走り、まず訪れたのが「源頼朝上陸の地」です。

Photo_2 石橋山の戦いに敗れた頼朝は、安房に逃れるため、小舟に乗り、着いたのが勝山海岸の地です。治承4年(1180)8月29日のことでした。

Photo_3 この日は天気もよく、勝山海岸から浮島がじつにきれいに見えました。

ここから右の方には三浦半島も遠望できました。

下の写真は、夏は賑わう勝山海水浴場です。

2008年7月29日 (火)

鋸南町の「源頼朝上陸地」を訪ねて

Yoritomo02 鋸南町の竜島にある「頼朝上陸地」を訪ねました。

この上陸地は「県指定史跡」になり、海岸に向かって「石碑」が建っています。

P1010097 脇の「説明文」(鋸南町教育委員会)には、

<源頼朝が、治承四年(1180)八月、相州石橋山の合戦に敗れ、同国土肥郷真鶴崎を小舟で脱出。安房国へ渡航し、上陸した地点については、伝承をもとに数箇所の地名があげられていました。

中でも、安房郡鋸南町竜島と館山市洲崎は代表的な地点として有力視されてきましたが、文学博士大森金五郎氏の研究により、「吾妻鏡」の「八月二十八日、土肥郷真鶴崎より船に乗り、安房国に向い、二十九日、同国平北郡猟島に着く」という記載と、十分な考証から、現在の鋸南町竜島を上陸地点と認定するに至りました。

Mfwmapserv 頼朝上陸当時の安房の国情は、安西・神余(かなまり)・丸・東条・長狭の五氏が、ほぼ国を五分して領国支配をしていましたが、長狭氏を除く四氏が敗戦の将・頼朝を擁立して鎌倉幕府創設の基礎を築きました。なお、四氏に擁立された頼朝と戦った長狭氏は、敗れて滅亡しましたが、鴨川市の一戦場はその古戦場として有名です。>

と記されています。

この石碑の右側にある道路は羽田沖に運ぶ土を載せたダンプカーがひっきりなしに通り、海岸には海水浴場・釣り場として整備され、当時を偲ぶような面影はほとんど残っていませんでした。

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