無料ブログはココログ

箱根

2008年8月 5日 (火)

箱根町の「早雲寺」を訪ねて

Photo_131日(金)に仲間2人と出かけた「箱根方面巡検」で、箱根町湯本の「早雲寺」を訪ねました。

この寺は、山号を金湯山といい、大永元年(1521)に北条早雲の遺命により、その子氏綱が創建したといいます。以来、北条氏一門の香火所でしたが、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めのとき、秀吉が本営を置きました。この秀吉の小田原攻めの折に本寺は焼失しました。

その後、寛永4年(1627)に僧侶菊径が再興しました。

Photo_14 境内には「後北条氏五代の墓」があります。この墓の前の「案内板」には、

<天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え、早雲寺に入り、本陣とした。六月下旬、石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。

七月五日、北条氏が降伏し、同十一日、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。

なお、北条一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石が許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北条氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北条氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。

早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北条両家の外護は欠かせないものであった。

こうして北条五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日、狭山北条家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したものである。>

と記されています。

写真下は、「北条五代の墓」で、手前から早雲(88歳)、氏綱(56歳)、氏康(57歳)、氏政(53歳)、氏直(30歳)のものです。

2008年8月 4日 (月)

箱根関所を訪ねて

Photo_12 1日(金)に社会科の仲間と3人で「箱根方面の巡検」に出掛けました。

平成19年(2007)春に復元工事を終えた「箱根関所」へ。

Photo この関所は、江戸幕府が江戸防衛のために全国に53ヶ所に設置されてものの一つで、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓井(群馬県)、木曾福島(長野県)と並んで規模が大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。

Data_01_01_01  関所前に書かれていた「案内」には、

<この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うというものとなっています。

0400_01_top_image_2 一般的に関所では、「入り鉄炮に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り締まりを行っていました。

江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。>

とあります。

この箱根関所は、これまで何度が訪問しましたが、全面的に復元したということで、久しぶりに見学しました。

Sekisyo_3 江戸口御門から入ると、右手に「御制札場」があり、この奥に「大番所・上番休息所」の建物、反対側の左側に「足軽番所」の建物があります。平成11年から発掘調査や石垣の修復、建物の復元などを進め、石垣・建物に関しては、江戸時代の職人が身につけていた「わざ」を使い、復元されたといいます。

実にしっかりした石垣と建物には感心させられました。

厩・下雪隠などを見た後、階段を登り「遠見番所」へ。江戸時代、旅人が芦ノ湖を船で通航することは禁止されていましたので、この番所から足軽が昼夜を問わず交代で四方の大きな窓から見張っていたといいます。関所や芦ノ湖を一望することができる絶景のポイントでした。

最近のトラックバック

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31