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鴨川市

2012年11月10日 (土)

鴨川市内めぐり(12)主基斎田(すきさいでん)跡

Photo長狭街道の鴨川市北小町字仲ノ坪に「主基斎田跡」があります。

Photo_2この主基斎田(すきさいでん)とは、明治天皇の即位後、最初の新嘗祭(にいなめさい)である大嘗祭(だいじょうさい)に斎田として選ばれた場所です。

Photo_3大嘗祭に用いられる新穀は、卜定(ぼくじょう)された(骨を焼いて出来たひびによって占い定める)悠紀(由基)と主基(次)の2ヶ所の斎田から献上される。

明治4年(1871)の大嘗祭では、悠紀斎田が甲斐国巨勢郡、主基斎田には長狭郡北小町字仲ノ坪の6反歩(約60アール)が卜定された。

Photo_4村では斎田の周囲に青竹を立て、しめ縄を張り、垣をめぐらせて厳重に囲った。また、隣地には八神殿、稲実殿、幕社、御備所が建てられ、花房藩の役人が番屋で警備に当たったといいます。

大嘗祭に先立ち、神祇(じんぎ)省から抜穂使(ぬきほのつかい)ら8人が多くの従者を伴って訪れ、抜穂式が厳かに行われた。

以来10年目ごとに斎田跡において記念祭が行われ、昭和55年の明治神宮の鎮座60年の大祭を機会に、毎年、主基斎田の初穂と、斎田から収穫した新米で醸造した神酒「白酒(しろき)」が明治神宮に奉納されている。

Photo_5現在、主基の地名は、小学校に名を残すのみですが、旧主基村は模範村として、また、長狭米の産地として知られています。

2012年7月10日 (火)

鴨川市内めぐり(11)日蓮寺

Photo_3国道128号(外房黒潮ライン)の日蓮交差点を右に行くのが県道82号で、踏切を越えると、この県道82号に分かれ、右側に進む道がある。

Photo_4この道の突き当たりが岩高山日蓮寺である。案内板には、

<建治三年(1277)、中老僧寂日房日家上人によって開創されました。日蓮聖人は、文永元年(1264)11月11日、小松原法難の際、地頭の東条景信から襲撃を受け、眉間に三寸余りの刀傷を負いました。からくも死地を脱した聖人は、北浦忠吾、忠内とともに岩高山に入りました。そして、この地で傷の養生をしたことから、「日蓮聖人刀難避難養生の霊場」として知られ、古くから、「剣難除けの祖師」、または「お綿帽子の祖師」と呼ばれています。>

と記されています。

Photo_5駐車場から階段を登ると、すぐに右手に日蓮が傷を洗ったという谷間の湧水の「疵洗井戸」があり、さらに階段を登ると、左側に、日蓮が傷の養生をした岩屋跡の「養疵窟」がある。

そして、階段を登りつめると、正面に本堂がある。日蓮は、岩高山の窟の砂を削り、血止めに使用したといわれ、本堂内で「血止めの砂」が売られている。

また、ここで日蓮は、乳母と面会し、傷口の寒さ除けに「綿帽子」を頂いたといい、この「綿帽子」に似せたものも売られている。

まさに、静寂とした山間部に建つ「小松原法難由縁(ゆかり)の精舎」である。

2012年7月 9日 (月)

鴨川市内めぐり(10)宝国寺

Photo波の伊八屋敷跡から細い道を先に進むと、左手に「宝国寺」(真言宗智山派)がある。

Photo_2


この寺の本堂の向拝(こうはい)に4代目伊八・信明作の「龍と波と天女」がある。龍・獅子・波が見事で、裏側には「明治・銘、武、伊八郎信明作」と刻まれている。

信明は、文久2年(1862)に生まれ、明治41年(1908)に46歳で亡くなった。

2012年7月 8日 (日)

鴨川市内めぐり(9)波の伊八生誕の地

Photo打墨の西条小学校の裏に波の伊八の生誕地がある。案内板には「波の伊八屋敷・工房跡」とあり、

<五代まで続いた武志家は、ここ大塚台周辺一角の地主で、西条小学校西側の現墓地の辺りに屋敷を構えていました。

Photo_2前の水田辺りに工房(作業場)を構えて、小規模な作品はここで、大規模な彫刻は現地に泊まりこみで、製作に没頭したと言われています。

Photo_3孫の三代信美は明治初頭に下打墨村の戸長を務めました。>

と記されている。

Photo_4この伊八の屋敷跡は、現在、一族の墓所となっている。平成17年9月に4代信明が鏡忍寺にあったものをここに移した。

ちなみに、波の伊八は、

・初代 武志伊八郎信由(武石伊八)

・2代 武志伊八郎信常(武石万右衛門)

・3代 武志伊八郎信美(武石伊八郎)

・4代 武志伊八郎信明(高石仙蔵)

・5代 武志伊八郎信月(高石武一郎)

である。

2012年7月 7日 (土)

鴨川市内めぐり(8)荒島(灯台島)

Photo_4鴨川松島の一つの荒島は、弁天島のすぐ近くにあり、鴨川灯台が設置されていることから「灯台島」とも呼ばれている。

Photo_5防波堤から架かる橋は、ハシゴ状で、ジャングルジム並みに鉄骨のはしごである。足元は金網の状態で、何か寒気を覚える。

Photo_6鴨川灯台は、白亜円形の小型の灯台で、昭和29年(1954)7月に設置され、その後、56年(1981)3月に改築された。

灯台の高さ(地上から塔頂まで)が11.1m、標高(平均海面から灯火まで)が26m。

光達距離は12海里(約22km)。

Photo_7島は荒島層という凝灰岩の島で、岩まで波が押し寄せ、長くいるところではなく、すぐに防波堤に戻った。

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この荒島の全景を弁天橋に戻って写したのが一番下の写真である。この橋も風通しがよく、カメラのシャッターを切ると、一目散で戻った。

2012年7月 6日 (金)

鴨川市内めぐり(7)弁天島

Photo鴨川漁港を通り抜け、防波堤を進むと、右側に「鴨川松島」で最も大きな島がある。厳島神社が祀られている弁天島で、面積0.02平方キロ、周囲0.5キロである。

Photo_2新しく建て替えられた橋を渡ると、厳島神社の赤い鳥居があり、その先に改修中の本殿である。

Photo_3この神社は、広島の宮島を総本社とし、祭神は田心姫(たごりひめ)、端津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の3女神である。

創建は平安時代に唐から戻った慈党大師であるといい、癸巳(みずのとみ)の年の3月に60年に一度の大開帳、また、30年に一度、中開帳が行われる。その時は、浜から弁天島まで漁船が横に並び、船伝いに渡る儀式が行われる。

この癸巳は、平成25年(2013)が大開帳である。

2012年7月 4日 (水)

鴨川市内めぐり(6)鴨川松島

Photo_10鴨川の貝渚(かいすか)から江見にかけての海岸には多くの小島や奇岩が点在しており、中でも、鴨川漁港の沖には外房随一の名勝と称される「鴨川松島」の絶景が広がっている。

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この鴨川松島は、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波濤根島・猪貝島・海獺(あしか)島の7るの島とその周囲の岩礁からなる。

Photo_12この7つの島の中で、一番大きな島は、弁天島で、漁港の堤防と橋で繋がっており,歩いて渡ることが出来る。

この鴨川松島の絶景を、貝渚(かいすか)の集落から眺める。

~かもがわや、あ~あかもがや、かもがわや。

2012年7月 3日 (火)

鴨川市内めぐり(5)一戦場スポーツ公園

Photo_8一戦場とは、治承4年(1180)に源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、伊豆の舞鶴崎より海を渡って安房国猟島(鋸南町)に逃れ、山を越え、この辺で宿をとったとき、地元の豪族で、平家恩顧の臣であった長狭(ながさ)六郎常伴(つねとも)に襲われ、戦って、これを討ち破ったという、このことが地名の由来であるという。

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現在は、体育館、テニスコートなどが整備され、桜の樹木も多く、花が咲く時期には訪れる人が多いという。

2012年7月 2日 (月)

鴨川市内めぐり(4)魚見塚展望台(その2)

Photo_4この魚見塚(うおみづか)について、5月4日の『千葉日報』には、

Photo_5<鴨川を一望する絶景。太平洋のかなたを望む女神像の足元には、いくつもの南京錠がかけられ、恋人たちが交わした約束を大事に守っている。魚見塚展望台では市民が憩い、旅行者は感動を、恋人たちは未来を見出す>

と記されている。

Photo_6昭和62年に整備されたが、昨年、外壁や床タイル、展望台までの登坂道などが改修され、夜間には2階デッキの床にちりばめられた蓄光タイルが淡い光を放ち、ムードを高めている。

シンボルのブロンズ製の女神像は6mで、柔らかい笑をたたえている。

Photo_7この展望台からは、嶺岡山系の東側、反対側には太平洋の海原が美しく延びている。

しばし時を忘れて、「鴨川松島」に目を見張る。

そして、鴨川の市内に目を向ける。

そして、『千葉日報』には、

<太平洋の大海原、緑豊かな里山、自然が創り出した美しい海岸線が延びる。>

と記されている。

2012年7月 1日 (日)

鴨川市内めぐり(3)魚見塚展望台(その1)

Photo魚見塚とは、漁師が魚群を探すためにここに登って見たという伝承がその由来であるという。

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海抜110mの地点に位置し、頂上には長谷川昴氏が彫刻したシンボル女神像「暁風」が太平洋を見つめている。

Photo_3この像の前で恋人同士が愛を誓いあい、その誓いの場に鍵を結ぶと幸せが未来まで続くといわれていることから、「誓いの丘」とも呼ばれている。

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