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我孫子市

2013年4月27日 (土)

我孫子布佐の「頼朝の松」

Photo布佐に「頼朝のお手植えの松」があるということで、当地を訪れた。

Photo_2


現場に到着しても、それらしいものが見当たらず、近くの「れいわ保育園」に行き、尋ねた。すると、園長さんが「理事長がくわしい」ということで、親切にも連絡を取って頂いた。

Photo_3留守であったが、間もなくお帰りになり、すでにその松は枯れ、現存しないが、かってあった場所に案内して頂いた。

そこには十数代目の松が植えられていた。枯れる前の写真があるということで見せていただいた。実に見事な松である。

2009年7月29日 (水)

北大宮台歴史を知る会の手賀沼巡検(その5)親水広場の展望室から見た手賀沼

Photo_3 平成3年6月に開設した「手賀沼親水広場」へ。

Photo_4 この広場は、水質浄化に対する理解を深める場として活用されることを目的に設置されたもので、我々は水の館の4階にある展望室へ。

夏休みで、館内は子供連れの入館者が多い。

Photo_5 このから手賀沼の全景を眺めました。

眼下の「じゃぶじゃぶ池」では子供が水遊びをしています。

手賀沼の中央付近に「手賀沼大橋」が見られます。県道8号線です。

Photo_6 手賀沼は、現在、東京ディズニーランドの約14倍の面積があるといい、沼周囲が38km、平均水深が0.86m、最大水深が3.8mといいます。

そして、貯水量が560万㎡で、東京ドームの約5倍といい、流域人口は約48万3千人です(15年度末)。

水質汚濁全国一の汚名は返上したようです。

2009年7月28日 (火)

北大宮台歴史を知る会の手賀沼巡検(その4)子の神大黒天

Photo 旧村川別荘の裏手にある「子の神大黒天」を参詣しました。

Photo_2 ネズミを使徒とする大黒天を奉祀しています。腰下の疾患に霊験があるといわれ、往時は近遠からの参詣者で賑わったといいます。

四国相馬霊場38番札所が境内にあり、桜の開花の時期は見応えがあるようです。

2009年7月27日 (月)

北大宮台歴史を知る会の手賀沼巡検(その3)旧村川別荘

Photo 多くの高校で採用された山川出版社の『高校世界史』教科書を手がけた村川堅太郎の別荘を訪ねました。

Photo_2 大正10年(1921)に我孫子宿の本陣離れを移築して母屋としました。そして、昭和2~3年には朝鮮視察によって得た建物の印象をもとに新館を建てました。

床は寄木作りで、手賀沼側にしつらえた部屋は沼を見渡せるよう、大きなガラス窓となり、奥にある寝室兼書斎は、青く落ち着いた漆喰壁を配し、ベットと机を入れています。

2009年7月26日 (日)

北大宮台歴史を知る会の手賀沼巡検(その2)

Photo_4 手賀沼遊覧は約1時間という。

かってはヘドロなどで汚れた沼として全国的の有名になった手賀沼も、浄化が進み、沼底にはヘドロがあるというが、表面的にはそれほど気にならない。

Photo_5 船上からの親水広場を見る。この前には3疋のカッパがいた(模型)。4疋であったが、1疋は姿を消したという。

Photo_6 説明を受けながら、船は手賀沼の西から東へ。川鵜が獲物をねらって飛んでいる。魚を跳ねるとそれを狙ってスピードを上げて行き、沼の潜り、魚を獲る。魚もいい迷惑である。狙われた魚はすでに川鵜の口の中へ。かわいそう!

手賀沼周辺には散歩コースがあり、市民の憩いの場所になっているという。船上からはそこを歩く市民の姿も見られる。

そして、船はハスが生える場所へ。花も見られる。参加者の中には、花を手にするものも。香りもいい。

2009年7月25日 (土)

北大宮台歴史を知る会の手賀沼巡検(その1)

Photo 7月24日に北大宮台歴史を知る会の夏の巡検で、手賀沼方面を訪れました。

朝7時30分に北大宮台を出発。参加者は25名。一路、我孫子へ。国道16号はそれほど混み合ってはおらず、八千代の道の駅で休憩。女子トイレは長蛇の列。すべてが戻るのを待って、バスは出発。10時前に手賀沼遊覧船の小池さんに到着。

Photo_3 舟場ではきれいなハスの花の出迎えを受ける。思わずカメラにおさめた。

今日の天気予報は、雨時々曇り。バスの中では小雨模様であったが、手賀沼に着くと、晴れ模様となる。実に我々の巡検は恵まれている。

そして、遊覧船は出発。

2009年6月 4日 (木)

我孫子散策(その4)水神山古墳

Photo_2 新興住宅が建ち並ぶ高野山の舟戸台に「水神山古墳」(県指定史跡)があります。

5世紀以前の造営としては県北西部では最大の規模で、墳丘は比較的よく保存されています。

昭和40年3月に東大・日大・南山大によって徹底的な発掘調査が行われました。その結果によると、

<古墳の大きさは、ほぼ東西方向にそって長さ63m、後円部が径52m、高さ5m、東側に位置する前方部が幅28m、高さ2.5m、墳丘が三段形状に造られ、北側に周壕が設けられていた。

Photo_3 この古墳には埴輪はなく、内部主体は後円部の頂に5.15mの長大な割竹形の木棺の痕跡が見られた。これは木をくり抜いて棺とし、遺体を納めたもので、木棺の周囲は赤土で固められていた。遺体は分解して消えていたが、棺内部は古墳の大きさからみて、副葬品が乏しく、鏡や刀剣類はなく、270個ほどのガラス玉、刀子、針束、管玉などがあった。

また、前方部から和泉式土師器の壺が出土した。玉類は遺体の顎飾りとしてかけられていたようで、鉄器類が足下に置かれていた。

出土品から女性の首長を思わせるもので、興味深い。>

とあります。

この古墳は、近くまで住宅が押せ寄せ、住民にとっては何か邪魔そうに見え、また、一面が雑草で覆われていました。

2009年6月 1日 (月)

我孫子散策(その3)滝不動

Photo 開発戸に鎮座する滝不動は、かって手賀沼からは一幅の絵のように美しかったという。

「新四国相馬霊場第三十六番札場」で、旧称を「滝前山宝積寺」、俗に蓑滝不動ともいい、江戸初期に正泉寺七代住職がこの地に一寺を営み、空海作の不動明王を安置したのが起こりであるといわれてます。

Photo_2 また、相馬霊場は、取手・我孫子・柏の寺々や辻に建つ八十八ヶ所巡りで、宝暦年間、取手の長禅寺の光音禅師が、この地方に数多くいた病者や貧者を済度するため、高野山で修行の後、四国霊場八十八ヶ所を巡り、その地の砂を一握りずつ持ち帰り、彼の地によく似た中利根の各地に札場を建立したのが始まりであるといいます。

それにしても、境内が荒れているのには驚きました。

2009年5月31日 (日)

我孫子散策(その2)我孫子宿脇本陣跡(小熊家)

Photo 旧水戸街道沿いに茅葺きの屋敷があります。この屋敷が江戸時代、我孫子宿の問屋兼名主で、脇本陣であった小熊甚左衛門家です。

天保2年(1831)の建築といわれ、調査によると、公用客室として式台玄関、板の間、四畳・六畳・八畳の控室、床の間、厠(かわや)付き12畳の書院造りの客間など、計30畳があります。北側に廊下、中庭、白壁の土塀、西に小さな門があります。

Photo_2 私宅は公用客室の西側で、南側に濡れ縁付きの板の間が2つ、12畳の広間、北側に仏壇、押し入れがあります。これらは公と私をわずかな板戸で出入りしていたといいます。

現在、この母屋は一部、手を加えられましたが、黒光りする梁や柱は往事のままです。

道路の拡張により、前庭が削られたといいますが、その門構えと屋敷は、かっての問屋・名主・脇本陣の姿を偲ばせてくれます。

2009年5月30日 (土)

我孫子散策(その1)志賀直哉邸跡

Photo 7月24日(金)に北大宮台歴史を知る会は「夏の巡検~我孫子・手賀沼方面」を予定していますが、28日(木)に下見に行ってきました。志賀直哉邸跡は、緑2丁目にあり、大正4年から12年までここで暮らし、「城の崎にて」、「和解」、「小僧の神様」、「暗夜行路」などを書き上げました。

Photo_2 この邸宅は、昭和55年に我孫子市が買い上げ、当時の庭木を残し、移築したものです。

直哉が初めて自宅を持ったのがこの我孫子の地であり、25.6坪の茅葺きの家であったといいます。

樹木が生い茂った地に邸宅が建てられ、作品を書き上げるのに相応しいところのようでした。

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