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千葉白井地区

2011年12月14日 (水)

『千葉しらい風土記~白井地区のむかしと今』が発刊

Photo_9約2年にわたり、白井地区の歴史・教育・神社・寺院・城館跡・史跡・交通・伝説伝承について現地・文献調査をしながら執筆した『千葉しらい風土記』(以下、『風土記』という)が発刊になった。

この『風土記』は、30年以上にわたり白井地区を調査し、記録していた前角栄喜氏の資料を基に、再度現地調査と文献調査をしながら書き上げたものである。

『風土記』の「編集に当たって」にも記したが、この冊子は完成品ではなく、「白井地区の歴史研究の始まり」と捉えている。このため、この冊子が起爆剤となり、多くの人々が白井地区の歴史に関心を持ち、さらに深く調査・研究をする人が出ることを期待している。

県・市の図書館で見ることができ、購入を希望される方は、千城台のラパーク3階のときわ書房千城台店(043-236-5611)か、前角(043-228-0048)で扱っている。

仕様がA4判、ページ数が324ページ、価格が税込みで1200円です。

2011年12月11日 (日)

野呂の上人塚(その1)歴代住職

Photo関東8檀林の一つであった野呂の妙興寺。8檀林とは野呂妙興寺の他、下総飯高(匝瑳市飯高寺)・上総小西(大網白里町正法寺)・下総中村(多古町日本寺)・下総玉造(多古町蓮華寺)・常陸三昧堂(水戸太田久昌寺)・池上南谷(池上本門寺)・身延西谷(身延山)をいいます。

先日、この妙興寺の「上人塚」の前を通ったとき、右側の並木が伐採され、両側が並木に囲まれ、趣きがあった風景が無くなり、残念に思いながら通過した。

Photo_4この「房総史譚」の2月20日に「野呂妙興寺の住職調べ」を掲載したが、その中で、上人塚の住職が抜けていることに関して、現在の住職さんの話として、「本寺は不受不施派の時代があり、弾圧を恐れ、身分を隠した人、あるいは住職を名乗ることをしなかったようで、正確なことは史料がないので、分かりません」と紹介したが、正確には「分かりません」ということではなく、「その理由がはっきりしているが、公に出来ないこともある」というのが正しいようです。

Photo_5住職さんのお話を聞く中で、江戸時代の不受不施派の歴史は「複雑であり、単純にとらえることが出来ない」と思い、この時代の弾圧の歴史の影響が現在もあるといい、文献で見る以上に「奥が深い」ということを感じました。

この妙興寺の歴代住職に関しては、現住がお調べになった「歴代住職塔」の脇に彫られている「歴代住職名」が正しいということです。

写真の一番上が並木が伐採される前、その下の2枚が現在の「上人塚」です。

2011年10月13日 (木)

白井村の誕生と役場の新築・移転

P1010695明治22年(1889)4月1日に連合村の中野・和泉・野呂・川井・佐和・五十土・高根・北谷津・多部田の9ヶ村が「白井村」が誕生した。

P1010696


役場は、連合村の戸長役場を使用したが、45年(1912)1月に野呂区字北之谷222番地(野呂町自治会館)に新築・移転した。

このときの村長は、宍倉謙(佐和)であった。

写真は、白井村役場跡に建つ野呂町自治会館

2011年10月11日 (火)

白井地区の戸長役場

P1010694明治17年(1884)5月に戸長制度を改正し、平均5町村500戸に戸長1名を置くことと、戸長を官選制とした。

P1010693

白井地区では,五十土村・野呂村・和泉村・川井村・北谷津村・佐和村・高根村・多部田村・中野村の9ヶ村が連合し、戸長には千葉市原郡書記官の平山長兵衛が就任した。

また、この連合村の戸長役場は、野呂字前畑354番地に置かれた。これが白井地区の初めての独立の役場であった。

この地は、白井小学校のグランド側にあり、空地になっている。

2011年10月 7日 (金)

消滅した「旧川井道」をたどる

Photo_3旧東金街道の「川井坂」を下り、県道(旧東金街道)に出ると、旧道(旧川井道)はすぐに左手に入り(消滅)、左側の民家の裏から田んぼの中を走り、都川を渡り、さらに田んぼの中を行き、反対側の台地の裾を右手に曲がり、再び県道に出ていた。

Photo_5


この旧川井道は、明治15年(1882)5月測図の『迅速測図』では上記の道筋になっているが、昭和15年(1940)1月作製の『地番割図』では現在の道のように直線道になっている。ただ、旧川井道はそのまま描かれている。

Photo_6


しかし、昭和35年(1960)5月測図の『地形図』では旧川井道が消滅している。

2011年10月 5日 (水)

大詰めを迎えた『千葉しらい風土記』の出版

Photo一昨年から執筆し、出版を計画していた『千葉しらい風土記』も最終的な校正に入り、12月には発刊の運びとなりました。

その内容は、

・第1章 白井地区の歴史

・第2章 白井地区の教育

・第3章 白井地区の神社・寺院

・第4章 白井地区の城館址

・第5章 白井地区の交通

・第6章 白井地区の伝説・伝承・年中行事

・第7章 白井地区の各町(中野・和泉・野呂・川井・佐和・五十土・高根・北谷津・多部田・大広)の歴史

であり、A4版、324ページで、1冊1200円を予定しています。

印刷・製本は東金の街波通信社に決まり、予約出版のため、白井地区町内自治会連絡会を通して「予約」を取ることになっています。

出版の告知は『千葉日報』にお願いする予定で、千城台の書店でも販売をお願いすることも考えています。

2011年4月 3日 (日)

多部田町の富士塚

Photo 多部田城から裏道を最福寺に向かうと、坂道の中腹、右手に「富士塚」の碑(高さ90cm、幅54cm、奥行8cm)があり、

(表面)不二 大願成就  

      白井八郎兵衛

(裏面)大正四年四月

      白井庄作建之

と刻まれている。  

2011年3月28日 (月)

新築された多部田の最福寺本堂

Photo 昨年の12月に完成した最福寺の本堂は、これまで北向きであったので、南向きに変えたという。

Photo_2 しかし、この向きは、集落の方には向かず、方位だけを視野に入れて建てた感がある。そもそも寺院は、その集落の人々のためにあるはずだが・・・・・?

境内については、現在、大改修中である。随分様子が変わった。

2011年2月20日 (日)

野呂妙興寺の住職調べ

Photo すでに妙興寺の住職さんが「歴代上人」を調べ、「歴代上人譜」として刻まれていますが、上人塚の墓碑との関係から、調査してみました。

Photo_2 そこで分かったことは、上人塚の墓碑の世と「歴代上人譜」の世とに違いがあることです。このことについて、住職さんは、「本寺は不受不施派の時代があり、弾圧を恐れ、身分を隠したりした人、あるいは住職を名乗ることをしなかった人もいるようで、正確なことは史料がないため、分かりません」という。

上人塚の墓碑をすべて読み取り、妙興寺の「歴代上人譜」と比定し、不受不施関係の文献で調査しています。

それにしても、すべてを解明するのは無理のようですが、すこし時間をかけて調べてみようと思います。

2011年1月26日 (水)

北谷津町の神直日神高山神社

Photo 北谷津町の泉蔵寺の裏山(字高山)を上ると、中腹の大木の根元の2基の石仏がある。

一つは「摩利支天(まりしてん)」で、「武右衛門支配」と刻まれている。この摩利支天は仏教の守護神である天部の1柱で、護身・蓄財などの神として、特に中世から武士の間で信仰を集めたという。

Photo_2 もう一つは「神直日神(かみなおひのかみ)」で、右側に「保食神」・左側に「稲倉魂命」と刻まれている。神直日神は、黄泉から帰ったイザナギが禊(みそぎ)を行い、黄泉の穢れを払ったときに生まれた神で、凶事を吉事に直す神であるという。

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