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静岡県

2012年8月10日 (金)

恒例、夏の3人旅・静岡編(10)由比本陣跡

Photo今年の「3人旅」の最終は、東海道五十三次の16番目の宿場の「由比宿」。

天保年間には、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒、家数160軒、人別713人であったという。

Yu宿場の入口では街道が鍵の手に曲がっている、いわゆる「枡(ます)形」が現在も見られる。

由比本陣の屋敷は、広さが約千三百坪もあり、大名などが休泊した母屋は、表門を入った正面にあったが、明治初年に解体された。

Photo_2現在、この地は整備され、由比本陣公園として整備され、「東海道広重美術館」などが建てられている。庭園には本陣の表門、物見櫓、木塀などが復元されている。

また、由比港の桜エビの水揚げ高が日本一で、毎年5月に「桜エビ祭り」が開催されている。

2012年8月 9日 (木)

恒例、夏の3人旅・静岡編(9)清見寺(せいけんじ)

Photo_3清水区にある臨済宗の清見寺を参詣する。

寺の前の駐車場に車を止め、鉄道線路の上を渡るようになっている参道を進む。記録によると、「駿河湾を望む風光明媚な高台にある」とあり、室町時代には雪舟、明治時代には夏目漱石・島崎藤村などが訪れたという。

Photo_4この寺の創建は奈良時代といい、鎌倉時代に禅宗として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。豊臣秀吉が小田原北条氏攻めのときには、この寺に宿泊したという。

今川氏に人質であった家康は、この寺の住職の太原雪斉に師事し、当寺で勉強したといい、方丈には「家康手習いの部屋」が保存されている。

Photo_5また、境内には家康が植えたという「臥龍梅」と呼ばれる梅の古木があり、家康が好んだという庭園は国の名勝になっている。

江戸時代には、ここから三保の松原を南に見下ろすことができ、目の前に東海道が走っていることから、朝鮮通信使や琉球使が立ち寄り、接待に当たったという。

Photo_6当時に比べると、境内がかなり狭くなり、また、接待の間から駿河湾を見ても、工業地帯の工場の建物がさえぎり、駿河湾を遠望できない状態である。しかし、建物は古く、境内には趣きがあった。

2012年8月 8日 (水)

恒例、夏の3人旅・静岡編(8)久能山東照宮(Ⅱ)

Photo本殿からさらに奥に進むと、「家康公神廟」がある。現地説明板には、

<家康公は元和2年(1616)4月17日に甍去せられ、御遺命によってこの地に埋葬し奉った。廟の高さ6m、西向きになっている。>

と記されている。

Photo_2家康が亡くなった夜、遺命により遺骨は久能山に葬られた。2代将軍秀忠は、1年7ヶ月をかけて東照宮を建てたといい、3代将軍家光は、高さ5.5m、周り8mの石塔を建てたという。

Photo家康の墓所は、この久能山東照宮と日光東照宮の2ヶ所であるが、遺骨はどちらにあるのか?

「1周忌後に日光山に勧請すること」という遺命により、全てを日光山に移されたという説と、一部を久能山に残したという説がある。

家康廟を参拝した後、宝物館で家康の宝物などを見、境内から眼下に広がる駿河湾に感嘆し、再びケーブルカーで日本平に戻った。10数年振りの東照宮見学であった。

2012年8月 7日 (火)

恒例、夏の3人旅・静岡編(7)久能山東照宮(Ⅰ)

Photo_11今年の3人旅のメーンは、駿府城址ともう一つ、この「久能山東照宮」である。

晩年に駿府で過ごした家康は、元和2年(1616)4月17日巳の刻(午前10時)に死去した後、遺命により、この地に埋葬された。

Photo_12家康の遺命は、同年4月2日頃で、側近の本多正純と天海、崇伝の3人に対して、死後の処置について、

<遺体は駿河久能山に葬るべきこと、葬礼は江戸増上寺においておこなうべきこと、位牌は三河大樹寺に立つべきこと、一周忌の過ぎて後、下野日光山に小堂を建てて勧請すること。これによって関八州の鎮守となるべきこと>

と指示している。

Photo_13家康の遺体は、その日のうちに久能山に移された。この遺体に従ったのは、本多正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝・金地院崇伝・南光院天海・神龍院梵舜(ぼんしゅん)、それに秀忠の名代の土井利勝、義直の名代の成瀬正成、頼宣の名代の安藤直次、頼房の名代の中山信吉だけであった。

さて、我々3人は、日本平まで車を飛ばし、ここからロープウエイで久能山東照宮に向かうことにする。階段で上ると1159段(いちいちごくろうさん)の石段、並大抵のことではない。しかし、この東照宮に務める人たちは、毎朝、この階段を登り、出勤するという。

2012年8月 6日 (月)

恒例、夏の3人旅・静岡編(6)臨済寺

Photo_8静岡市内の駿府城址の北方にある「臨済寺」へ。

寺伝によると、「今川義元の兄氏照の菩提寺で、義元の軍師太原(たいげん)雪斉(せっさい)長老が、師の大休禅師を迎え、開山した。雪斉は、今川義元の執権職として、帷幕(いばく。軍議をする場所)に縦横の機智を振るった人である。義元が、駿・遠・三の太守(たいしゅ)として東海に勇を振るったのも、雪斉の力によるとことが大で、この時代がまた、今川家の最盛期でもあった」という。

Photo_9また、この寺と家康の関係については、「竹千代時代の天文十八年(1549)、八歳のときから、今川家の人質としての十二年間、この太原雪斉から文武両道を学んだのである。後年、家康が天下を治め、徳川三百年の基礎をつくった素地は、この幼年時代に培われたといえる」という。

Photo_10最近、寺院を参拝する機会が多いが、本堂などがきんきらきんで、けばけばしさを感じることが多い。

しかし、、この寺院の本堂及び境内ともに落ち着きが感じられ、そんな中にも格式に高さが伺われた。庭園が国の指定庭園、大方丈が国の重要文化財に指定されている。

2012年8月 5日 (日)

恒例、夏の3人旅・静岡編(5)安倍川もち

Photo_5江戸時代初期、家康が安部川岸の茶屋に立ち寄ったとき、その店主が黄粉を安部川上流(梅ヶ島)で取れる砂金に見立てて、撞きたての餅に塗し、「安部川の金な粉餅」と称して献上した。

Photo_6家康は、これに大層喜び、安部川にちなんで「安部川餅」と名付けたという。

江戸時代、日本では大変珍しい白砂糖を使用していることから有名になり、東海道の名物になった。

Photo_7吉宗もこの安部川餅が好物であったといい、駿河出身の家臣に作らせたといわれている。

むかしながらの安部川もちが、旧東海道の安部川橋の東側で製造・販売しているということで、その店に伺い、試食することにした。

建物も古めかしくて、いい感じである。

撞き立ての餅や湯通しして柔らかくした餅に、黄粉や餡子を塗し、その上に白砂糖をかけて食べる。・・・・・「うまい!」。

餅の味が実にいい。これも伝統の味。300~400年続いている味で、江戸時代もこの東海道を行き来する旅人たちが「うまい!」といって食べたことであろう。

2012年8月 4日 (土)

恒例、夏の3人旅・静岡編(4)静岡浅間神社

Photo_2次に訪れたのは、静岡浅間神社。この神社は、神部(かんべ)神社と浅間(あさま)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社を総称している。いずれも、駿河国総社として広く信仰されているという。

Photo_3三社とも鎌倉時代から歴代幕府の崇敬を受け、江戸時代には、徳川氏の篤い尊崇を受けて寛永・文化年間に大造営が行われた。特に文化5年(1804)から60年余の歳月と巨額な費用を投じて建築されたのが現在の社殿群であるという。

Photo_4境内は4万5千坪と広く、宏壮華麗な社殿群があり、いずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は、浅間造りの代表的なもので、高さ25m、殿内が132畳敷きの広さがある。

楼門といい、大拝殿といい、それぞれの神社の社殿といい、立派なまので、じっくり見ると、かなりの時間を要するところである。それにしても、大拝殿は見応えがある。

夏の暑さ。ほどほどに休憩所に入り、お茶を頂く。冷たくておいしい。「おせんげんさま」参拝記念に「葵大丸」のお煎餅を買い、食べることにする。「安倍川もち」も売っており、個々の社殿に対しておごそかに拝礼するのを省略し、本物を食べに安倍川沿いに向かうことにする。

何と気ままな「三人旅」でしょう!この旅も、2人で始めてから30年以上経過している。よくも続くものである。

2012年8月 3日 (金)

恒例、夏の3人旅・静岡編(3)駿府城址(Ⅱ)

Photo_7中央の本丸跡に昭和48年(1973)に建立された「徳川家康公銅像」がある。家康唯一の趣味であった「鷹狩り」。右手には鷹がのせられ、家康に相応しい銅像である。

Photo_8


元和2年(1616)4月17日にこの家康の銅像が建つ辺りで、75歳の生涯を終えたのである。

Photo_9また、この銅像の隣に「家康お手植えのみかんの木」がある。家康が駿府に隠居したとき、紀州から献上されたものであるという。

2012年8月 2日 (木)

恒例、夏の3人旅・静岡編(2)駿府城址

Photo_4最初の見学地は、駿府城址。もう4~5回、訪ねているが、久しぶりの見学となる。

この駿府城は、家康の隠居城であるが、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏が、この地に「今川館」を築き、今川領国支配の中心地であった。

今川氏全盛期の9代義元時代に、家康(松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、この駿府で生活した。

武田氏は、天正10年(1582)に織田・徳川勢力により滅亡し、甲斐・駿河の武田遺領は三河の家康が領有した。

天正18年(1590)には豊臣氏が小田原北条氏を倒し、家康が関東に入国すると、この城には豊臣氏の家臣中村一氏が入城した。

慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍に任じられたが、2年後の11年(1606)に将軍職を子の秀忠に譲り、大御所となり、この駿府城を改修し、ここに移った。

Photo_5東御門から城内に入り、巽櫓の見学である。この櫓は、平成元年(1989)に完成したもので、建築材料が太く、長い木材を使用しており、いつ行っても感心する。

Photo_6新たに紅葉山庭園が造られているということで見学した。もともとはこのような庭園は駿府城にはなく、観光用に造られたようである。

近年、明治時代に陸軍歩兵第34連隊を置くために埋められた内堀(本丸堀)の発掘調査が行われ、そのごく一部が公開さて、石垣も見られる。現地説明板には、

<本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅23~30mで、深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木(さんぎ)積み」という積み方で、横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。>

と記されている。

出来れば、もっと本丸御殿を囲んでいたこの堀を可能な限り当時の形で、大きく公開してほしいものである。

2012年8月 1日 (水)

恒例、夏の3人旅・静岡編(1)新東名高速の駿河湾沼津サービスエリア

Photo今年の3人旅は、「新東名で行く駿河国」~家康ゆかりの地を訪ねて~ということで、静岡県へ。

Photo_2朝、6時に北大宮台を出て、大宮インターから京葉道路・湾岸道路を経て、東名へ。そして、今年の4月14日に御殿場JCTから三ケ日JCTまで、約162kmが開通した新東名を通り、静岡市へ。

Photo_3北大宮から3時間足らずで、新東名の駿河湾沼津SAに到着する。ほとんど渋滞には遭遇せずに、東京を抜け、御殿場から新東名に入る。新しいこともあるが、道幅が広く、車数も少なく、爽快に新東名を走る。運転は、一番若い浅井さんであるが、「運転しやすい」、「運転しやすい」と何度も口にしながら、先を急ぐ。

この新東名には6ヶ所のサービスエリアがあるが、その一つ、「新東名で唯一のオーシャンビューエリア」の駿河湾沼津SAへ。駿河湾が眼下に広がり、富士山もきれいに見え、実に気が晴れ晴れする。

商業施設「ネオパーサ」も、中央エントランスホールは、波のゆらぎをイメージし、曲線で柔らかく爽快感あふれ、広々として、気持ちがいい。

オーシャンビューの商業施設で、ゆっくりと時間をつぶしたいが、静岡県内の史跡を見て回るのが目的であり、ほどほどに出発する。

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