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東庄町

2012年1月15日 (日)

東庄町の史跡巡り(7)豊玉姫(とよたまひめ)神社

Photo貝塚に綿津見神の姫神の豊玉姫尊を祭神とする豊玉姫神社がある。

景行天皇の皇子日本武尊が東夷征伐のため、相模国から上総国の船で渡ろうとしたとき、嵐に遭遇し、海上安全を綿津見神に祈り、事なきを得て上陸し、その後、海上郡編玉郷貝塚字網ノ岡を訪れた。このとき、日本武尊は、貝塚字海内高台に綿津見神に姫神の豊玉姫尊を祀ったというのが本社の起こりである。

Photo_2往古は海上郡15郷の一つ、編玉郷の総鎮守として、編玉総社「大宮大明神」と号し、上5郷下7郷の氏子を有した。

延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のとき、本社を参詣し、御剣と御鏡を献納し、延長元年(923)には平良文がこの地を領し、社領として30貫を寄進し、一門の祈願所とした。

その後、本社は風害のため、本殿が倒壊したため、康和2年(1100)に現在地に社殿を再建し、社号を「新宮大明神」に改めた。現在名に変更したのは明治5年(1872)である。

現在の本殿は宝暦7年(1757)に改築されたもので、萱葺きであったが、昭和55年(1980)に萱葺きの姿を踏襲し、銅板葺きに改めた。

2012年1月14日 (土)

東庄町の史跡巡り(6)蔵福寺と松平陣屋

Photo_9小南にある蔵福寺(ぞうふくじ)は、山号を円覚山、院号を地蔵院といい、鎌倉時代の弘安9年(1286)に沼闕城主東盛胤(初代胤頼の曾孫)が円覚寺開山の無学仏光国師の弟子の歓了禅師を招き、創建したという。

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その後、千葉氏一族の衰亡により衰退したが、享禄元年(1528)に長了法印により、臨済宗を真言宗に改宗したという。

本堂の内陣には大日如来、左右に地蔵菩薩、不動明王が安置されている。

この蔵福寺の近くに「松平陣屋」があった。天正18年(1590)に徳川家康が関東に入部し、関東一帯を支配するために各地に家臣を配置するが、「下総国小南(東庄町)松平定勝 3千石」を配置した。

この松平定勝は、家康の異父弟で、慶長5年(1600)には4千石に加増され、伊勢国長島に転封となり、同時に松平陣屋は廃止になったという。

この陣屋跡は、宅地となり、遺構は残っていない。

2012年1月13日 (金)

東庄町の史跡巡り(5)東大社

Photo_7景行天皇が東国巡幸の折、春臣命に命じて1社を造営させ、玉依姫尊を祀り、東海の鎮護としたのが始まりであるという。

以来、歴代天皇の崇敬が篤く、康和4年(1102)に堀川天皇より「総社玉子(たまご)大明神又は王子(おおじ)大明神」という2つの称号を賜った。地元ではこの社を「おおじん様」と親しんで呼ばれているが、これは王子大明神を訛ったものといわれている。

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享徳3年(1454)には後花園天皇から勅額が贈られ、天皇の他に寿永3年(1184)に源頼朝から御厨1処、天正19年(1591)に徳川家康から神領10石の寄進を受けている。

また、下海上の総社として、東庄の総氏神として近在近郊の人たちの信仰が篤く、特に東氏は社殿を造営したり、神領を寄進するなど、代々崇敬していた。

応永2年(1395)に東胤家が社殿を造営し、現在の社殿は、本殿が文政9年(1826)、拝殿が文政10年(1827)に再建されたものである。

毎年春と秋に例祭が行われ、特に秋に行われる「やぶさめ」神事は、堀川天皇の御代から始まったといい、この矢を拾うと幸福が訪れるとされている。また、30年に一度の式年大神幸祭は、東総地方最大のお祭りである。

2012年1月12日 (木)

東庄町の史跡巡り(4)福聚寺(ふくしゅうじ)

Photo_3東庄県民の森の一角にある禅宗の一つ、黄檗宗(おおばくしゅう)の寺院である。

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山号を補陀落山といい、延宝6年(1678)に下総国にあった椿海を開拓した禅僧鉄牛(てつぎゅう)道機の開山により創建された。本尊は十一面観世音菩薩。

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この地は、千葉氏六党の東盛胤の居城があったところで、千葉氏の祖平良将がいたとも伝えられ、沼闕(ぬまかけ)城と呼ばれていたが、千葉氏が滅びると城もなくなり、城山という名だけが残った。

かって海上・香取・匝瑳の3郡にまたがる椿海は、東西12km、南北6kmの広大な湖であった。江戸時代初期からこの湖を干拓し、水田にする願いが地元から度々幕府に提出された。しかし、幕府はそれを認めなかったが、寛永16年(1639)頃に鉄牛和尚によって椿海の新田開発が計画され、幕府の許可を得て工事に着手した。

約30年をかけて大工事が行われ、水田2741町歩、18ヶ村が誕生した(干潟八万石)。

鉄牛和尚は、寛永5年(1628)に山口県に生まれ、11歳の時に寺に入り、やがて徳川幕府の信頼を得て、この椿海の干拓など、多くの功績を残し、晩年にはこの寺院で送り、73歳の生涯をこの地で閉じた。

遺言により、境内で荼毘に伏され、その場所に2mに及ぶ石造無縫塔が建立された。

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県民の森の一角に展望台があり、眼下に広大な「干潟八万石」を遠望することができる。

2012年1月11日 (水)

東庄町の史跡巡り(3)延命寺

Photo東庄町笹川の街中の細い路地先にある真言宗智山派の寺院で、山号を笹川山という。江戸時代には鹿島神宮寺の末寺であった。

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境内には昭和15年(1940)に建立された笹川繁蔵の供養塔があり、両脇には繁蔵の1の子分の勢力富五郎の供養塔と客分の平手造酒の墓がある。

2012年1月10日 (火)

東庄町の史跡巡り(2)天保水滸伝遺品館

Photo_6浪曲「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」で有名な天保水滸伝は、江戸時代後期の笹川繁蔵と飯岡助五郎の任侠争いを描いている。

笹川繁蔵は、下総須賀山村(東庄町)の岩瀬嘉三郎の3男として生まれた。力士を目指して江戸に出たが、のちに笹川に戻って博徒となった。水運で賑わう笹川河岸の賭場を仕切るようになり、周辺地域へ勢力を広げた。

一方、飯岡助五郎は、相模国三浦郡公郷村山崎(神奈川県横須賀市三春町)の半農半漁の家に生まれた。文化7年(1807)に江戸の出て相撲取りになるが、親方の友綱が急逝したため、1年も経ずに相撲取りを止め、出稼ぎに大漁景気に沸く飯岡村(旭市)の網元半兵衛の元で働くうちに、持ち前の器量で漁師仲間の兄貴から親分になり、大きな勢力を持っていた。

2人の縄張り争いは、やがて大きな抗争に発展していった。弘化元年(1844)に飯岡勢は舟で笹川河岸を襲い、これを笹川勢が撃退した(大利根河原の決闘)。敗れた助五郎は、奉行所から預かる十手の威光で繁蔵を捕らえようとした。

繁蔵は、笹川河岸を離れ、伊勢路を目指したが、3年後の弘化4年(1847)に笹川に戻り、再び勢力を盛り返し、飯岡勢を討とうとした。しかし、頼りとする富五郎、その他の子分の騙しに遭い、独りで飯岡を討とうと機会をねらった。

同年7月4日、賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちに遭い、殺害された。男盛りの38歳であった。

遺品館には繁蔵が愛用したキセル、剣客の平手造酒が使用していた手槍・徳利などが展示されている。また、別室には郷土史研究会のメンバーが友人などから収集した天保水滸伝に関する映画のポスター、シナリオなどが展示されている。

2012年1月 9日 (月)

東庄町の史跡巡り(1)諏訪神社

東庄町といえば、すぐに(1)天保水滸伝、(2)千葉氏一族東氏の領地ということが頭に浮かんでくる。

Photo_5そこで、これらを中心にしながら、東庄町の史跡を訪ねた。

まず、諏訪神社へ。大同2年(807)に坂上田村麻呂が東征の際、この地に至り、武運長久を祈願して勧請したといい、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っている。

境内には笹川繁蔵が建立した相撲の神様である野見宿禰命(のみのすくねのみこと)の碑がある。天保13年(1842)に繁蔵は、農民救済の奉納相撲を開き、著名な親分衆を招いて盛大な花会(賭場)を開催した。上州の国定忠治や清水の次郎長などが集まったという。

これに倣い、境内の相撲は秋季大祭(7月最終土曜日)に合わせて奉納相撲が行われている。また、毎年8月には大相撲の出羽海部屋による笹川夏合宿が行われている。

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