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白子町

2012年12月 9日 (日)

白子町散歩(12)本従寺の文化財

Photo北高根字北大村の本従寺は、山号を不退山といい、2つの町指定文化財がある。

Photo_2その一つが時報用に造られたという「梵鐘」である。高さ47cm、口径32cm、周囲120cmの小型のものであるが、良質の銅鐘である。

享保18年(1733)に造られたもので、二十三夜講10名と斎藤新左衛門、同庄右衛門、酒井兵左衛門、同八三郎の銘がある。

Photo_3もう一つの文化財は、本堂の裏手にある「酒井市郎左衛門墓碑」である。

この市郎左衛門は、義一といい、享保年間、北高根村の里正を継ぎ、租税賦役を管轄し、率先して農地の荒廃を復興し、治安安全に気を配り、57ヶ村の村政刷新に務め、信望を博した。同家が後世に「赤紋」と称されるようになるが、その基を築いた。

墓碑は、文政6年2月の建立で、碑文は江戸中期の大儒者の亀田鵬斎の筆文である。

2012年12月 7日 (金)

白子町散歩(11)白子自然公園

Photo白子自然公園は、正式には「県立九十九里自然公園白子集団施設地区」という。

Photo_2


白子町の中央を流れる南白亀川の両岸、63.2ヘクタールの敷地に自然を活かした公園が広がっている。

Photo_3ここには野球・テニスを始め、グランドゴルフ・サイクルングなどが楽しめる。

広い駐車場に先に築山があり、ここに上ると、太平洋や白子町のホテルが見渡せ、この日は、遠くに東京湾観音、そして、何と富士山も眺めることが出来た。

2012年12月 6日 (木)

白子町散歩(10)チリー津波の碑

Photo_9九十九里地引網発祥記念の碑と同じく、白子自然公園の入口に「チリー津波の碑」がある。

昭和35年(1960)5月23日、南米チリー沖地震に伴う津波が、翌朝、太平洋を越えて日本の三陸海岸から九十九里海岸などの地にも押し寄せた。

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白子町剃金地先の南白亀川の河口には24日5時20分頃に押し寄せた。轟音を繰り返して押し寄せる高潮は、最高時、県道上1.2mに及び、民家20軒余り、罹災者77人、耕地55ヘクタールを冠水し、漁船具を破壊、道路を崩し、農作物などにも甚大な被害を与えた。

この被害や、救急対策、警防団の活動などを、後代の教訓として伝えるため、翌年5月に白子町が設置した。

2012年12月 5日 (水)

白子町散歩(9)九十九里地引網発祥の地記念碑

Photo_7剃金の白子自然公園の入口付近に「九十九里地引網発祥の地記念碑」がある。

『房総水産図誌』には、

<今から四百数十年前、紀州(和歌山県)の漁師西宮久助なる者、遭難にあい、わが剃金浦に漂着、地元の長嶋丹後の手厚い加護を受けた。感激した久助は、故郷に帰るに当たり、謝意のしるしとして、先進的な熊野のいわし漁業法を丹後に伝授したといわれる。

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かくして地引網による、いわし漁業は、九十九里一円に伝播し、未曾有のいわし漁獲高を誇り、日本一のいわし漁場の名をほしいままにした。>

と記されている。

平成3年(1991)11月にこのゆかりの地に発祥記念碑が建立された。

2012年12月 4日 (火)

白子町散歩(8)玄徳寺

Photo_3関に鎮座する玄徳寺は、山号を澄性山といい、寛永8年(1631)に山辺郡北吉田村(大網白里町)の本成寺の末寺として創建され、元文元年(1736)に現在地に移されたという。

Photo_4北吉田村にあったときには、同村の地頭阿倍四郎兵衛祖先玄徳院殿の位牌所であった。本尊は寛永年間(1624~43)作の日蓮大聖人像で、安倍四郎兵衛が寄進したものである。

Photo_5この寺は、江戸時代の後半から、俳諧の盛んな寺として知られ、句会の会場として賑わった。明治27年(1894)夏、関の大多和雄太郎ら3人が発起人となり、本納・白子・長生の各村々から俳人が集まり、芭蕉翁二百年忌祭を行い、扁平の自然石の記念碑を建立した。

この記念碑には、芭蕉の句の

 草いろいろ 各花の手がら哉

が刻まれている。

Photo_6訪れた時期は、紅葉の真っ最中で、境内の紅葉が美しかった。  

2012年12月 3日 (月)

白子町散歩(7)本法寺境内の宝篋印塔と尚徳校の碑

Photo本法寺境内の右側に高さ2.2mの大型の「宝篋印塔」がある。

この宝篋印塔は、歴代住職の供養塔として建てられたものであるという。もともと宝篋印塔は、塔身体部に宝篋印陀羅尼経を納めたことから起こったという。

Photo_2


また、左側には昭和15年(1940)11月にかって尚徳校に学んだ同窓生が薫風遺韻を偲んで建立した「尚徳校の碑」がある。

この尚徳校は、明治29年(1896)4月から、大正8年(1919)3月もでの23年間にわたり、関、南白亀、白潟、豊岡の4ヶ村が学校組合を設け、本法寺本堂を仮校舎として、尚徳尋常高等小学校と称して4ヶ年の教育が営まれた。

2012年12月 1日 (土)

白子町散歩(6)本法寺

Photo_13関にある本法寺(日蓮宗)は、山号を白鳳山と号し、その縁起について、『長生郡郷土誌』に、

<寺伝によれば、白鳳2年、浪速四天王寺の僧、此の地に来り、創建せるにより、白鳳山と号すと。一説には、永徳元年七月、僧日什の開山なりと。

Photo_14また、本寺は、もとは真言宗なりしを、文亀元年、住僧日円、日蓮宗の雄、僧日泰の説を信じ、真言宗を改めて日蓮宗に帰すといふ。>

と記されている。

Photo_15かっては七堂伽藍の威容を誇った。今残る山門は、延宝年中(1673~80)の建立と推測され、茅葺き四脚門で、中央の梁の上の彫刻が素晴らしい。

2012年11月30日 (金)

白子町散歩(5)鎌田の御塚山

Photo_9剃金を通過する旧県道から、東へ約30mのところに蒲鉾形の墳丘が見える。

Photo_10これが「鎌田の御塚山」といわれ、一面、雑木林が生い茂っているが、南北27m、東西19mの地形で、高さが2m余であるという。

Photo_11もとは東北隅の木の下に小祠があったというが、今は見当たらない。

『長生郡郷土誌』には、「鎌田兵衛の墓」とあり、

Photo_12<里伝によれば、安房国里見義弘の臣、鎌田兵衛の墓なりと云ふ。如何なる故にや、弘化年中(1844~47)より、此の墓に参詣して祈願するもの多し。>

と記されている。

また、この鎌田兵衛は、里見四十八士の一人であったともいわれている。

2012年11月29日 (木)

白子町散歩(4)白子町歴史民俗資料室

Photo_6白子町中央公民館(もと役場)の2階に町の「歴史民俗資料室」がある。

Photo_74つの展示室からなり、

・第1展示室・・・「里のくらし」、「海に生きる」

・第2展示室・・・「郷土のお祭り」

・第3展示室・・・「白子のあゆみ」

・第4展示室・・・「なつかしい衣装」

Photo_8で、町の様々な文化財の散逸を防ぐために設けられたという。

資料が所狭しと展示されており、町の歴史的な様子がよく分かる。

来訪の記録を見ると、見学者も結構、多いようである。

2012年11月28日 (水)

白子町散歩(3)真忠組潰滅の地及び矢野重吾郎終焉の地

Photo剃金の真光寺墓地(中の台)の一角に「真忠組潰滅の地」及び「矢野重吾郎終焉の地」がある。

Photo_3鶴牧藩の『御用留』には、

<同日(文久4年正月17日)、長柄郡一ノ宮城主加納備中守軍兵五十人、茂原村砂(東)光寺浪士屯所へ討手として押し寄せたり。此の時、茂原の大将三浦帯刀は小関(九十九里町)旅館の異変を聞き、同勢を引き連れ、小関を差して発足せり。加納家の軍勢は、跡(後)より之を追ひ掛けて、剃金村にて追ひ付きたり。浪人共は、迚(とて)も敵する事能はず。大小刀を差し出して降伏(服)せり。此の時、浪人矢野十郎は、手向ひせしにより、討ち取られたり。三浦帯刀、千葉源次郎、大向泰助、大木八郎、大山重助の五人、生捕りになる。残党は迯走(とうそう)せり。此の生捕り五人の者は、(正月)二十六日に一ノ宮加納家の人数にて警衛して、関東御取締馬場俊蔵、東金町旅館へ引き渡しになる。>

とあり、楠音次郎を中心に貧民救済と攘夷を主張し、世直しに発展し、小関新田(九十九里町)の大村旅館を本拠に置いた真忠組は福島藩・一宮藩・多古藩・佐倉藩の藩兵1500人により制圧された。

Photo_4この剃金中の台では、本部がある小関を援助するために茂原の藻原寺東光院に拠った三浦帯刀の率いる茂原隊は、ここで関東取締出役の指令を受けた一宮藩兵150名の討伐隊に包囲され、三浦ほか5名が生け捕りとなった。矢野重吉は、最後まで抵抗し、討死した。

Photo_51月26日に一宮藩に捕らえられた5人は、一宮藩兵に警固され、東金に置くられ、3月29日に田間村(東金市)辻堂で処刑され、その後、小関新田で晒し首となった。

<獄門>

・三浦帯刀(49歳)・・・旗本津田英次郎(佐原村地頭)の元家来。

・小高泰助(36歳)・・・下総佐原村の道具屋。

・千葉源次郎(46歳)・・・下総八日市場村商人。

・大木八郎(26歳)・・・上総蕪木村、無宿

<死罪>

・大山重助(30歳)・・・下総倉橋村酒職人。

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