この城は、昭和52年(1977)まで睦沢村大八木字表台の安養寺付近とされていた。これは、『房総逸史』や『上総国誌』などの記録に基づくものであった。
しかし、村史を発行するに当たり、編纂室に提出された、天正18年(1590)の『北山田郷水帳』の中に、
<ふきら前、青柳、城の下、こやの谷、沼田>
などという記載があり、これを基に編纂室で調査した結果、北山田の台地であることが明らかになった。
宝治元年(1247)6月、大柳城主千葉常秀の長子秀胤は、鎌倉の評定衆になったが、三浦半島に拠点をもつ三浦氏と北条氏との間で戦いが起こった。
このとき、常秀は、三浦泰村の妹を妻としていたため、三浦氏に加担したが、将軍頼嗣の命を受けた大須賀胤氏や東胤行らによった大柳城が攻め込まれた。
秀胤は、城内に薪炭を積み重ね、これに火を放って敵が近づけないようにしたが、遂にはこの火中に身を投じて自害したという。
この秀胤には「黄泉の旅」という伝説がある。それは、秀胤には美人の許婚があって、早くに世を去った。秀胤は、死んだ後も、この許婚に会いたくて、閻魔王(えんまおう)に聞いたところ、王は、「地獄には幾万の亡者がいるので、いずれの者か、分かるものではない。このお札を授けるので、これと符号する札を持っている者が貴殿の尋ねる許婚である」といわれ、早速、地獄に行き、許婚の美人を探し当てたという。

この城址に向かう三ノ宮神社の参道の左手には、女性の乳がよく出るようになるという「みたらしの霊水」があるが、今は水が枯れ、よどんでいる。
日之子坂は、大上から夷隅町須賀谷(すがや)に通じる坂道で、東北は上之郷、東南は市野々に接している。
道に沿う畑地や芝地に、無数の小砂利石があるが、これは戦いに使用した「矢玉(やだま)」であるといい、「庁南より飯を馬につけて乗りかるが、士卒(しそつ)、多く討たれ、逃げ走りて食する人なく、この所に飯を捨て帰る」場所を「飯盛山」と呼んでいる。
山田谷には数百年を経た松の木が数本あり、「団子松」の名があり、飯盛山とともに兵糧(ひょうろう)に因む名称であるという。
この坂での戦いについては、『房総軍記』や『関八州古戦録』などに記されている。
天正16年(1588)9月(又は天正17年5月上旬)、安房の里見義康は、万喜城主土岐頼春を討つため、正木大膳(時堯)を大手の大将とし、1万4千余騎を西上総から進発させた。
このことを察知した頼春は、父の小弼を守将として城を固めさせ、日之子坂に庁南城主武田豊信の家臣、山中甲斐守・熱田丹後守・藤平源五郎ら百二十騎、野武士三百人を配置した。
里見氏の将正木大膳は、松丸村の八幡山に陣を構え、ここから矢合わせの鏑矢を発射して合戦が始まった。激戦が展開されたが、結局、里見勢が敗退し、この地で討死した者が多かったという。

寺伝によると、応永10年(1403)に傑堂(けどう)能勝(のうしょう)大禅師が創建したという。
この能勝は、南北朝の文和4年・正平10年(1355)の河内(大阪府)太守楠木正儀の次男で、正成の孫に当たり、俗名を正能という。
24歳のとき、戦場で左膝を負傷して出家を志し、和泉(大坂府)高瀬大雄寺の古剣智訥に得度した。
応永元年(1394)に越後(新潟県)瀬波社沢に耕雲寺を開き、常陸(茨城県)に耕山寺、会津(福島県)に天寧寺を開くなど、越後や東北東部、関東北部に曹洞宗の発展に寄与した。
応永34年(1427)8月7日に73歳で亡くなった。
長昌寺の本堂は、江戸時代に建てられたもので、本尊の木造不動明王像はヒノキ材の1木造り、平安後期の作であるという。
クスノキが混在するスタジイの原生林が残り、遊歩道が整備されている。
緩地性のシダ類などの植物のほか、鳥類や昆虫類も多く生息し、特に初夏になると、天然記念物のヒメハルゼミの大合唱を聞くことができる。
駐車場の脇から登りの遊歩道を行くと、鬱蒼とした木々が茂り、途中に出羽三山の石碑が建っている。
ここを左手に進むと、きつい登りとなり、しばらく登ると、「富士見台」に到着する。高いところにあり、周辺部が一望できると期待して登って来たが、周辺に大きな木々が茂り、眼下を遠望することが出来ない。
この地には大正3年8月建立の「羽黒山大神」・「月山大神」・「湯殿山大神」と刻まれた三山の石碑が建てられている。
東側の一宮市街地や九十九里浜、太平洋が見渡せる地は、三山の石碑の手前からであった。
道の駅の近くにあり、一宮川の支流、瑞沢川をせき止めて造った貯水池である。
延宝5年(1677)から田に引く水の分配を巡り、争いを繰り返してきたが、やっと明治36年(1903)に決着がついた。
築堤の当初は、年々、崩壊して工事に苦しんでいた。ある年、人柱を立てると堅固になるという考えが出た。しかし、この犠牲になるものがいなかった。
あるとき、堤の向こう側に「おな」という一人の女乞食が梅の実を食べていた。。「この乞食こそよかれ」と、村の人々は、矢庭にこの乞食を引き倒し、無理やりに堤の人柱にしてしまった。
その結果、この堤防は頑丈に出来上がった。傍らに1本の梅の木が生え、その実が不思議にも乞食が食いかけた実のように、半分づつ欠けていた。
公園に入口付近の右側に祠があり、その中に、明治41年10月29日に村人が建てた「供養碑」があり、「女堰神」と刻まれている。
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