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川崎市

2013年3月10日 (日)

「いわいき郷土史の会」の史跡めぐり(6)東京湾アクアライン海ホタル

Photo_8この「いわいき郷土史の会」の史跡めぐりの最後は、東京湾アクアラインの海ホタル。

ちなみに「いわいき」とは、安藤先生の住まい及び貸マンションの名称。

Photo_9木更津と川崎を結ぶ15.1kmのアクアライン。木更津から4.6km、川崎から9.5kmのところにある「海ホタル」。幅が約100m、長さが約650m、5階建ての高さがある、海に浮かぶ施設である。

久しぶりに立ち寄った。

Photo_10海の中の島であるが、島とは周囲が100m以上という規定があり、まさに人工の島である。千葉県には95の島があるといい、その一つである。

5階の展望スペースから、横浜ベイブリッジ・東京タワー・新宿の超高層ビル群などが見られ、時には富士山も眺められる。しかし、この日は、余りにも天気が良すぎ、遠くが霞んでいた。

2013年3月 9日 (土)

「いわいき郷土史の会」の史跡めぐり(5)稲毛神社

Photo_5府中街道の競馬場前の交差点から国道15号を進むと、右側に稲毛神社がある。

Photo_6社伝によると、第12代景行天皇が東国を巡行のとき、この神社に賊難を避けられたといい、第29代欽明天皇の時代、この地方では戦乱が続いたため、天皇はこの神社に幣吊・七串を奉納し、戦いを鎮めることを祈り、祈願所にしたという。

Photo_7この神社は、当初、「武甕槌(たけみかづち)宮」と称していたが、慶応4年(1868)に有栖川熾仁親王が京に行く途中に立ち寄り、「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応(ふさわ)しからず」といわれたことにより、鎮守の地の「武蔵国稲毛庄」の名をとり、「川崎大神稲毛神社」に改名した。その後、明治中期に現在名の「稲毛神社」と呼ばれるようになったという。

境内には浅間神社・弁財天・子神社など境内社が多く、また、ご神木の大銀杏は千年以上といい、見応えがある。

参加者の中には勉強をしている人もおり、「千木の形が女神の形をしているのに、主祭神が武甕槌神は男神でおかしい」といい、疑問を持たれたようであるが、「明治以降、必ずしも千木と祭神がイコールではなく、千木の形の男神、女神は一つの目安でしかない」旨を説明。なかなか図式通りにはいかない。理解されたかどうか?

2013年3月 8日 (金)

「いわいき郷土史の会」の史跡めぐり(4)久地(くじ)円筒分水

Photo円筒分水は、主に農業用水を耕地面積などに応じて公平に分配するための施設である。

Photo_2

水路から円筒形の貯水施設に水を引き込み、サイフォンの原理などで水を湧出させ、円筒の縁からフローさせ、水の分配比率に応じてこの円筒の周を分割し、そこからフローした水を各々の水路に引き込むことによって公平な分配が行われている。

二ヶ領用水は、江戸時代、多摩川から上河原堰および宿河原堰の2ヶ所で取水された後、高津区久地で合流し、「久地分量樋(ぶんりょうひ)」へ導かれ、そこで4つの堀(久地堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀)に分水されていた。

Photo_3この分量樋は、川の中央部は流れが速く、流量も多くなり、それに比べ川岸に近い部分は流れも緩やかで、流量も少ないため、なかなか正確に分水が出来ず、水争いも絶えなかった。

Photo_4そこで、昭和16年(1941)に多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治は、平瀬川の改修に際して農業用水の正確な分水管理の出来る分水装置として円筒分水の方式を採用し、平瀬川の下を潜り、再び吹き上がってきた水を円筒の円周比により、4つの堀に分水し、各堀へ用水を提供できるようにした。

これが「二ヶ領久地円筒用水」で、国の登録有形文化財に指定されている。

それにしてもよく考えたもので、人間の知恵の素晴らしさを実感することが出来た。

2013年3月 7日 (木)

「いわいき郷土史の会」の史跡めぐり(3)登戸研究所(Ⅲ)

Photo_8明治大学生田キャンパス内の登戸研究所の史跡を大学院の学生さんに案内して頂いた。

この学生さん、何と我々と同じ千葉市の人。親しみを持ちながら、話に耳を傾けた。

Photo_9まず、薬品庫と使用されたという「倉庫跡」。近くからしか見ることが出来ないが、何となく不気味さを感じた。

次ぎは陸軍のマークである「五芒星(ごぼうせい)」が入った「消火栓」。星マークが何となく誇らしげに見えた。

Photo_10そして、「動物慰霊碑」へ。昭和18年(1943)春に建立されたもので、実験用に使われた動物を供養するためのものであるという。

Photo_11最後が「弥心(やごころ)神社」。これも昭和18年(1943)に建立されたもので、当時は研究(知恵)の神を祀っていたという。

この他、平成23年(2011)まであった「5号棟」。ここでは偽貨幣づくり(偽札印刷工場)をしていたという。老朽化したため、解体したというが、是非とも保存してほしかった木造の建物。

後世への生きた証言として残しておくべきで、政府(国)はいったい何をしていたのか!

2013年3月 6日 (水)

「いわいき郷土史の会」の史跡めぐり(2)登戸研究所(Ⅱ)

Photo_5明治大学生田キャンパスにある「登戸(のぼりと)研究所」。

スパイ活動や敵の破壊・かく乱活動、暗殺、人心の誘導などの研究をしていた機関であったため、公にはせず、単に「登戸研究所」という隠匿名で呼ばれていた。

Photo_6しかし、実は太平洋戦争における秘密戦の中核を担い、軍から重要視された研究所であったという。

敗戦とともに閉鎖され、昭和25年(1950)に跡地の一部を明治大学が購入し、生田キャンパスが開設され、現在に至っている。

貴重な戦争遺跡。戦争の真実、そして戦争の悲惨さ、戦争を起こしてはならないことを後世にまで知らしめるため、この施設は重要なものであると思う。

Photo_7この資料館を始め、すでに姿を消した「C26号棟」や「D5号棟」は、国が保存に務めるべきで、私立の一つの大学に土地を買わせたり、運営させたりすべきではない。国立大学もあるのではないか!国は何をしているのか!明治大学に感謝!

こんな思いを強く持ちながら見学を続けた。

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