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鮮魚(なま)街道

2013年8月28日 (水)

鮮魚(なま)街道めぐり(15)旧井上家住宅

Photo井上家3代までは江戸尾張町(銀座6丁目)の名主職にあり、江戸城に食料品を納める「近江屋」という御用商人であった。

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4代の佐治兵衛は、「享保の改革」に合わせて手賀沼干拓のため、江戸の商家をたたんで参加した。

相馬新田を開き、代々名主を務め、水害対策には特に力を入れたという。

敷地内には数多くの歴史的建造物があり、表門・母屋・2個の蔵は江戸時代後期もものである。

現在、この建物は我孫子市が管理し、公開している。

2013年8月27日 (火)

鮮魚(なま)街道めぐり(14)布佐の一里塚

Photo_35天和3年(1683)以前の「水戸道中」である国道356号沿いに、我孫子市内では根戸、東我孫子、湖北、布佐に「一里塚」が築かれた。

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現在は、東我孫子と湖北には塚が残り、この2ヶ所と布佐に昭和9年(1934)に県が建立した「一里塚跡」碑がある。

Photo_37裏面には「一里塚は慶長九年、徳川家康の築造に係わるものにして江戸日本橋を起点とし、全国の主要な道路の両側に一里毎に塚を築いて榎樹を植え、以て里程を明らかならしむと共に行路往還の旅情を慰めたるものなり」と刻まれている。

2013年8月26日 (月)

鮮魚(なま)街道めぐり(13)布佐の竹内神社

Photo_32承平年間(931~938)の草創とされ、平将門の乱が平定した天慶2年(940)に武内大明神を奉斎したと伝えられている。

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祭神は天之迦具命、布佐の鎮守である。社殿は昭和8年(1933)に改築し、さらに54年(1979)に修築された。鳥居は文政10年(1827)に建立。

Photo_34谷山権現、神明社、御嶽社を再建、三峰社、天神社、白山社、琴平社を合祀している。

2013年8月22日 (木)

鮮魚(なま)街道めぐり(12)勝蔵院

Photo_20山号が西光山という天台宗の寺院である。

文禄元年(1592)に創建されたといい、本尊は阿弥陀三尊である。鎌倉時代の和田氏の墓と称される石碑があるが、開山・開基は不明である。

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相馬霊場の第21番札所で、戦前までは徴兵年齢(21歳)の青年の参詣祈願者が多かったという。

2013年8月21日 (水)

鮮魚(なま)街道めぐり(11)布佐の延命寺

Photo_16布佐の延命寺は、求宝山医王院といい、真言宗豊山派の寺院である。

Photo_18本尊は薬師如来・虚空蔵菩薩で、文禄2年(1593)に忠変僧都が行基菩薩の作とされ、大和国平郡法隆寺境内にあったとされる像を安置するため、堂宇を建立したのが始まりであるという。

Photo_19明治6年(1873)に本堂で刀寧(とね)小学校が開校した。

明治40年(1904)から住職の名にちなむ「俊雄(しゅんゆう)水」という目薬と「シュンユウサン」という解熱剤を頒布していた。

現在の本堂は、昭和3年に再建したもので、墓地には岡田武松の墓がある。

2013年8月20日 (火)

鮮魚(なま)街道めぐり(10)岡田武松邸跡

Photo_13近代気象学のパイオニアで、大正12年(1923)に第4代中央気象台長になった岡田武松の屋敷は松岡邸の向かい側にあった。

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岡田は、のちの日本海海戦のとき、「天気晴朗なるも波高かるべし」と予報したのは有名で、文化勲章を受章している。

現在、岡田邸は取り壊され、立派な近隣センター「ふさの風」が建っている。

2013年8月19日 (月)

鮮魚(なま)街道めぐり(9)松岡(柳田)

Photo_10民俗学者柳田国男の長兄で、医者であり、後に布佐町長、県医師会長を務めた松岡鼎(かなえ)の家。

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明治26年(1893)に一家は国男が少年時代を送った布川(茨城県)から転居した。国男は、一高時代に友人田山花袋や島崎藤村などと過ごした。

Photo_12入口付近には車が置いてあるが、誰も住んでいないという。

2013年8月18日 (日)

鮮魚(なま)街道めぐり(8)布佐河岸

Photo_6銚子からの鮮魚を扱った荷宿の石井源左衛門家は、岡田邸跡の向かい側にある。

Photo_7家の1階の古びた白壁の土蔵だけが往時を偲ばせる。

Photo_8今は高くなった利根川の堤防をすぐに背負う旧宿場。鮮魚の集積地として栄えた。木立と池水に囲まれた榎本次郎右衛門家は、浜方の鮮魚を取り扱っていた。

Photo_9利根川の土手に上がってみると、雄大な流れが眼下に広がる。対岸は茨城県布川である。

2013年8月17日 (土)

鮮魚(なま)街道めぐり(7)布佐の馬頭観音堂

Photo_3かっての布佐河岸の集落に入る。この集落内の鮮魚(なま)街道は、車での通行は禁止され、右手に曲がって直進することになる。

Photo_4利根川の改修により、江戸時代に栄えていた時代の面影は薄く、すでに河岸もなくなっている。

Photo_5この河岸付近にあった馬頭観音堂を訪ねる。鮮魚問屋や馬主が建立したが、明治3年(1879)に堤防が決壊して流失。大正2年(1913)に再建された。

2013年8月16日 (金)

鮮魚(なま)街道めぐり(6)海野作兵衛頌徳碑

Photo鮮魚街道を進み、発作集落に入り、街道の左側には「水塚(みづか)」の建物が見られるが、その中に「海野作兵衛頌徳碑」が建っている。

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日本橋の鮮魚問屋を営んでいた作兵衛は、家財を売り払い、幕府から多額の借金をして手賀沼の開発や小林・笠神を経て印旛沼に流れ込む水路を築造し、231町もの水田を生み出した。

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