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茨城県

2014年12月21日 (日)

茨城南部(神栖・鹿嶋)史跡めぐり(5)剣豪・塚原卜伝の墓

Photo_13須賀の梅香寺跡に「塚原卜伝」の墓がある。

延徳元年(1489)に鹿島神宮の神官卜部(うらべ)覚賢(あきかた)の次男として生まれ、幼名を朝孝と称した。

Photo_14のちに塚原城主土佐守安幹(やすもと)の婿養子となり、新右衛門高幹と改め、実父から鹿島中古流刀術、養父から天真正伝神道流を学び、鹿島神宮に籠って、これに工夫を加え、「一の太刀」という剣術を編み出した。

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生涯3回の廻国修行をし、足利義輝や弟の義昭なども指導し、元亀2年(1571)に83歳の天寿を全うした。

その後、甥の吉川晴家に伝えられ、「鹿島新当流」として継続している。

2014年12月20日 (土)

茨城南部(神栖・鹿嶋)史跡めぐり(4)天狗党の墓

Photo_11天狗党とは、元治元年(1864)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派である。

その一派の「太平組」と称する川股茂七郎ら800人余りは、幕府の追討軍に追われて鹿島に集まり、旅籠や寺院などに逃れた。

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そして、大船津から北浦を渡り、延方へと逃れるが、逃げ遅れた23名は、この地で捕らえられ、下生の石橋外で打ち首に処せられ、大壌(だいじょう)新田の馬捨て場に埋められた。

明治になり、斎藤俊鹿島郡初代郡長によって「殉難諸士之墓」が建てられた。因みに天狗党の本隊は、敦賀で全滅している。

2014年12月19日 (金)

茨城南部(神栖・鹿嶋)史跡めぐり(3)鎌足神社

Photo_9あの大化の改新を成し遂げた中臣(藤原)鎌足は、この鹿嶋で生まれたという伝承がある。

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この伝承に基づき、宮中に「鎌足神社」がある。平安後期の『大鏡』に「鎌足は常陸(茨城)の生まれで(父親が鹿島神宮に派遣されたときに生まれた)、氏神の天児屋根命を鎮座した。元明天皇のとき、鹿島は遠いから大和に鎮座し、春日明神と名付けた」と記されている。

境内には明治25年に建てられた「大識冠藤原公古宅址碑」という石碑がある。

日本の歴史史上の偉人の一人である鎌足を祀る神社にしては、何となく規模が小さすぎ、粗末しすぎるような感がする。

2014年12月18日 (木)

茨城南部(神栖・鹿嶋)史跡めぐり(2)鹿島神宮

Photo_5皇紀元年(紀元前660年)の建造と伝えられ、祭神は香取神宮の経津主神(ふつぬしのかみ)とともに天孫降臨に先立ち、国譲りの交渉をしたという「武甕槌神。たけみかづちのかみ)。武の神として古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、さらに鎌倉時代以降、武家政権の信仰を受けた。

Photo_6社殿、楼門、宝物類の奉納や所領寄進が繰り返されてきた。現在の本殿は元和5年(1619)に徳川秀忠、楼門は寛永11年(1634)に徳川頼房、奥宮は慶長10年(1605)に家康により、それぞれ寄進されたものであるという。

神秘的で、鬱蒼とした境内を行くと、右手に本宮がある。香取神宮よろも規模は小さい。しかし、桃山期の極色彩が華やかなものである。

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先には御手洗(みたらし)の池がある。古くから神職のみそぎの場で、大人が入っても、子供が入っても、水面が胸の高さを超えないといわれ、「鹿島の七不思議」の一つとなっている。

公園も整備されており、売店での「みたりし団子」が美味しかった。

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この池の手前を右手に進むと「奥宮」がある。家康が奉納した本殿を、元和の造営の際に移したものであるという。

2014年12月17日 (水)

茨城南部(神栖・鹿嶋)史跡めぐり(1)息栖神社

Photo_3息栖神社は、鹿島神宮・香取神宮とともに古くから「東国三社」と呼ばれ、信仰を集めてきた。

社伝によると、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ。神栖市日川)に創建され、その後、大同2年(807)4月に藤原内麻呂によって現在地に移転したという。

Photo_2主祭神の久那戸神(くなどのかみ)は、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導に当たった神であるという。

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一の鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる2つの井戸(男瓶・女瓶)があり、神功皇后3年に造られたという。

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