
東金市八鶴湖畔に本漸寺(顕本法華宗)があり、この寺院の山門を抜けると左手に(東京)墨田区長勝田菊蔵書の「慰霊碑」(高さ125cm、幅55cm)が建っています。
この本漸寺は、大永元年(1521)に酒井定隆が田間城から東金城に移ったとき、金谷の巨徳山本漸寺を現在地に移し、山号を鳳凰山に改め、酒井氏の菩提寺としました。その後、天正19年(1591)に徳川家康から寺領30石を賜りました。
昭和17年(1942)4月、政府は、東京・大阪など大都市の住民に対して、米軍の空襲から難を逃れるため、地方に親戚・縁故がある者はそれに頼って大都市を離れて生活するよう促し(縁故疎開)、東京・大阪の国民学校3~6年の児童で、縁故疎開ができない者には集団で地方に疎開させること(学童疎開)にしました。

19年(1944)3月には学童疎開が開始され、4月から学童の縁故疎開が始まり、8月には20万人の児童が東京から近県に疎開しました。
この学童疎開で、千葉県は本所区(墨田区)の児童を受け入れることになり、8月に菊川国民学校の4~5年の男子が土気町(千葉市緑区)の善勝寺や本寿寺など、5~6年の女子が東金町(東金市)の東金高等女学校(県立東金高校)、そして6年の男子が本漸寺に疎開してきました。
しかし、20年(1945)3月1日に疎開していた6年生は、中等学校の入学試験のため、東京に戻りました。
・年が明けて2月の末には5年生と「お別れ会」をし・・・・・3月1日に帰京しました。10日後に死別する友がいるなど、夢にも思わず・・・・・(増田、旧姓清水久子)
・昭和20年3月1日、私たちは、その頃の女学校の試験を受けるため疎開先の東金から引き揚げて来ました。戦争中でしたが、やはり小さな胸には夢が一杯でした。(木村千恵子)
そして、3月10日未明の東京大空襲に遭い、本所深川一帯が火の海化し、帰宅した児童の大半の若い命が絶たれました。もしも、この時期に中学校の入学試験がなかった、、、あるいはもう少し遅かったら、、、、、、。
昭和32年(1957)3月17日に東金から東京に帰宅して亡くなった児童の霊を慰めるため、菊川小学校20年度卒業生と東金市は、この本漸寺に「慰霊碑」を建立しました。この慰霊碑の裏面には、
<第二次世界大戦末期、東金へ疎開学童が受験のため帰郷中、昭和20年3月10日未明 本所深川大空襲に依り戦災死した旧友の霊を悼み 此処ゆかりの地 本漸寺境内の碑を建立するもの也>
と刻まれています。
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