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東金市

2013年5月23日 (木)

企画展示「家康鷹狩りと東金御成街道」を参観して

Photo徳川家康が東金を訪れてから400年になることを記念し、東金市郷土研究愛好会が東金文化会館で「家康と東金御成街道」の展示を始めた。

Photo_2案内を受けていたので、本日、その展示の参観に出かけた。内容は、船橋から東金までの「御成街道」と東金から山武市小松までの「御成新道」の史跡を写真や古地図などで紹介している。

Photo_3中でもF100号油絵の「東金御殿図」は圧巻であり、鷹狩の諸道具、白鷹・大鷹の捕獲図、白鷹の掛軸、鳥捕獲禁止の高札など、見るものが多い。

文化会館の一室に、所狭しと、多くの資料を集め、展示してあることに感心しながら、じっくりと参観させて頂いた。

それにしても、東金市には「歴史民俗資料館」がない。何とも不思議に思えてならない。というのも、東金市は山武地区の中心的な都市であり、歴史的にも他地区には劣らず由緒あるところでもあるから。

市では「家康来訪400年、とうがね祭り」を大々的に開催しているとのこと。祭りもいいが、是非、この400年を記念し、独立した「歴史資料館」を開設してほしいものである。

2013年5月13日 (月)

東金に「御成橋」の石碑が建てられる

Photo東金に「家康来訪400年」を記念し、小川幸三郎氏が「御成橋」の石碑を建立したということを聞き、早速、訪れた。

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その位置は,東金街道の旧道の火正神社に入るところで、かってこの道を横切る小川が流れ、木橋が架かっていたといい、その木橋を「御成橋」と称していたという。

Photo_3この橋を渡ると間もなく左手が東金御殿の表門になる。この表門は、今はなく、姫島の本龍寺の墓地にあるのがこの門であるといわれている。

2012年8月30日 (木)

「円筒分水」を訪ねて(2)東金円筒分水

Photo_7円筒分水はmサイフォンの原理などを利用して円筒中心部に水を導き、その水が円筒外縁部を越流する際に、外縁部に設けた仕切りで分配するようになっている。

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東金の円筒分水は、旧公平村を流れる「両総用水」の分水施設で、旧道126号沿いにあった。

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資料によると、完成が昭和30年、形式が「全周溢流式」、規模が内円筒の直径11m、分配数が3(現在は2)とある。

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多古の円筒分水よりも規模が大きく、入口には門柱が建ち、説明板も設置されていた。

2012年8月28日 (火)

「公平村」道路元標

Photo東金市道庭のJA公平支店前に「公平村道路元標」があります。

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道路元標とは道路の起終点を示す工作物で、大正8年(1919)の旧道路法では各町村に1個ずつ設置することとされていた。また、その設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場前か、市町村を通る主要な道路同士の交差点に設置された。

Photo_3この公平村は、明治22年(1889)4月の『町村制』により、道庭村・家之子村・求名村・松之郷村・姫島村が合併して成立した村で、昭和28年(1953)4月に東金町(一部は成東町)と合併して廃止になった。

2012年6月12日 (火)

「おあし坂」経由が東金御成街道

Photoこれまで御成街道は、東金に入ると御殿までの道筋に3つの説があったが、享保7年(1722)4月の『下総牧図』(東京世田谷区・満願寺)の中に、「御成表道」・「御成裏道」という記載から、元蚕糸センターの裏側から「おあし坂」を下り、油井の集落を抜けるのが御成街道の本道であることが分かった。また、この道筋は東金から佐倉への年貢道でもあり、「佐倉道」であったことも分かった。

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これが「御成街道」であるということを示すものに、最近、東金市道庭の石橋家文書の中からも発見された。宝永2年(1705)3月の『草刈場の境争いの裁定書』の絵図で、やはり「おわし坂」から油井への道が太く描かれていた。

これにより、東金から佐倉に向かう道を御成街道はそのまま重用していたことが判明した訳である。

2012年4月10日 (火)

東金山田の墨染桜

Photo東金市山田に「墨染桜」があり、今がちょうど見ごろです。案内板によると、

Photo_2<品種は姥彼岸で、花は初め桃紅色で、しだいに紅白色となる。紅色の姥彼岸の名木は全国的にも数少ない。

伝説によれば、東大寺と興福寺は、平重衡(しげひら)によって治承4年(1180)、焼討ちされた。俊乗坊重源上人は、東大寺の再建を志し、文治2年(1186)、西行に陸奥の豪族藤原秀衡(ひでひら)まで、砂金勧請の旅を依頼した。

Photo_3西行(1118~1190)は、当時の山城国紀伊郡深草の墨染桜の枝を杖とし、赤人・小町をしのびつつ、この地に来て、負神(貴船大明神)を安置い、傍にこの杖をさし、

  深草の野辺の桜木心あらば 亦この里にすみそめに咲け

と詠じて去った。

この杖が芽をふき、いわゆる墨染桜となり、今日に至ったと伝えられている。>

と記されている。

国道126号(東金街道)から東金有料道路を越え、谷津沿いに進むと左側に見えます。街道から中に入ったところに位置しているが、次から次へと見物者が訪れています。

2012年4月 9日 (月)

東金八鶴湖の桜

Photo関東地方は7日・8日が桜の満開時期で、各地で桜見物で賑わいを見せている。

Photo_2ここ東金の八鶴湖も桜の花が満開で、ここに車の乗り入れも禁じている。

Photo_3観光協会の「桜まつり」も開催され、昼夜、多くの人で賑わったという。

Photo_4写真は、7日の9時頃の様子である。

Photo_5桜まつりの準備中で、まだ人手も少ない。

2011年10月18日 (火)

東金市本漸寺の学童疎開児童の「慰霊碑」を訪ねて(写真入り)

Photo


東金市八鶴湖畔に本漸寺(顕本法華宗)があり、この寺院の山門を抜けると左手に(東京)墨田区長勝田菊蔵書の「慰霊碑」(高さ125cm、幅55cm)が建っています。

この本漸寺は、大永元年(1521)に酒井定隆が田間城から東金城に移ったとき、金谷の巨徳山本漸寺を現在地に移し、山号を鳳凰山に改め、酒井氏の菩提寺としました。その後、天正19年(1591)に徳川家康から寺領30石を賜りました。

昭和17年(1942)4月、政府は、東京・大阪など大都市の住民に対して、米軍の空襲から難を逃れるため、地方に親戚・縁故がある者はそれに頼って大都市を離れて生活するよう促し(縁故疎開)、東京・大阪の国民学校3~6年の児童で、縁故疎開ができない者には集団で地方に疎開させること(学童疎開)にしました。

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19年(1944)3月には学童疎開が開始され、4月から学童の縁故疎開が始まり、8月には20万人の児童が東京から近県に疎開しました。

この学童疎開で、千葉県は本所区(墨田区)の児童を受け入れることになり、8月に菊川国民学校の4~5年の男子が土気町(千葉市緑区)の善勝寺や本寿寺など、5~6年の女子が東金町(東金市)の東金高等女学校(県立東金高校)、そして6年の男子が本漸寺に疎開してきました。

しかし、20年(1945)3月1日に疎開していた6年生は、中等学校の入学試験のため、東京に戻りました。

・年が明けて2月の末には5年生と「お別れ会」をし・・・・・3月1日に帰京しました。10日後に死別する友がいるなど、夢にも思わず・・・・・(増田、旧姓清水久子)

・昭和20年3月1日、私たちは、その頃の女学校の試験を受けるため疎開先の東金から引き揚げて来ました。戦争中でしたが、やはり小さな胸には夢が一杯でした。(木村千恵子)

そして、3月10日未明の東京大空襲に遭い、本所深川一帯が火の海化し、帰宅した児童の大半の若い命が絶たれました。もしも、この時期に中学校の入学試験がなかった、、、あるいはもう少し遅かったら、、、、、、。

昭和32年(1957)3月17日に東金から東京に帰宅して亡くなった児童の霊を慰めるため、菊川小学校20年度卒業生と東金市は、この本漸寺に「慰霊碑」を建立しました。この慰霊碑の裏面には、

<第二次世界大戦末期、東金へ疎開学童が受験のため帰郷中、昭和20年3月10日未明 本所深川大空襲に依り戦災死した旧友の霊を悼み 此処ゆかりの地 本漸寺境内の碑を建立するもの也>

と刻まれています。

2011年7月21日 (木)

家康鷹狩り道「御成新道」(その5)下武射田の「提灯松の碑」

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御成新道を白幡から先に進むと、下武射田に入り、左側にコンビニがあり、この先が十字路になっています。

この十字路の右側に「提灯松の碑」があります(桜田家敷地)。この碑は6面からなり、平成23年2月に「元東金市史編纂委員根本茂、下武射田区、上武射田区、桜田雄一」が建立したものです。

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碑文には「提灯松、慶長19年(1614)、家康は山辺郡田間村峯下より小松村の木戸川岸に至る。いわゆる「御成新道」の急造を命じた。その造成のため、峯下の山頂、下武射田桜田家敷地および白幡村内にあった松の大木に日中は白旗、夜間は提灯を目安として工事が急がれたとの事である。そのため、この大松を「提灯松」と呼んだという」と刻まれています。

2011年7月11日 (月)

家康鷹狩り道「御成新道」(その2)御狩橋

東金市田間から「御成新道」を山武市小松に向かう。

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国道126号(東金街道)を横切り、先に進むと間もなく十文字川に架けられている「御狩橋」を渡る。

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現在の橋は、昭和41年3月に両総用水の工事により架け替えられたものである。

ここからさらに直線道が続く。

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