稲毛の浅間神社は、富士山を神と仰ぐ信仰に始まり、大同3年(808)に現在の静岡県富士宮市大宮に鎮座する富士山本宮浅間大社の分霊を祀ったのが起こりであるという。
治承4年(1180)に源頼朝が東六郎胤頼を使者として御幣物を寄進し、武運長久を祈願したのを始め、千葉常胤以来、代々千葉氏の信仰が篤かったことが古記録などにより伺うことが出来る。

文治3年(1187)の社殿再建に際して、富士山の形に土盛りし、参道も富士登山道にならい、三方に設け、社殿は東京湾を隔てて富士山と向かい合って建立された。
江戸時代には境内が東西4百間(約720m)にも及んでいたが、明治維新に際し、現在の社地(6400坪)を残して上地したという。
明治39年9月に原因不明の火災により、文治再建の社殿が焼失したが、41年に再建された。これが現在の社殿である。
<この公園の黒松は、かつての海岸線の面影を残す貴重な緑です。根の部分が砂の上をはった奇妙な格好をした黒松は、「根上がりの松」と呼ばれ、砂丘が古くなり砂を失ったためこんな形になったものです。
このような黒松は、全国的にも珍しく、1983年、稲毛の松林として「21世紀に引き継ぎたい日本の名松100選」に選ばれました。
この貴重な黒松林を守り育て、次世代に引き継ぐため、「みどりと水辺の基金」を活用し、新世紀・市制施行80周年記念事業のひとつとして、当公園に隣接する町内自治会をはじめ、市民の皆様の参加により、松の苗木約200本を植栽しました。>
と記されている。
国道14号沿いの稲毛海岸は、明治21年に県内初の海水浴場が設けられ、松林の中に「海気館」という医療を兼ねた宿泊施設も開業しました。

この一角には、大正7年に建てられた日本の「ワイン王」といわれた明治の実業家、神谷伝兵衛の別荘がある。
千葉市内で最も古い鉄筋コンクリート建造物で、関東大震災にも耐え抜いた。1階広間は寄木造りの床、玄関の天井には「ぶどうのモチーフ」、2階の和室には「ぶどうの木の床柱」、「付け書院のぶどう」、「はち、とんぼの木彫り」などが見物である。
神谷伝兵衛は、東京浅草の「神谷バーのデンキプラン」や「牛久シャトー」の創始者として成功し、大正11年に66歳で他界するまで、生涯を日本人のためのワイン作りにかかげた。
検見川神社は、貞観11年(869)に疫病退散のため、素盞鳴尊をこの地に祀られたのが起こりであるという。
その後、江戸時代の元和2年(1616)にこの地の領主であった旗本の金田正明(正辰)が宇迦之御魂神、寛永年間(1624~44)に伊弉冉尊を祀った。
ちなみに金田氏は、源頼朝に仕え、後に誅殺された上総介平広常の弟、頼次(小大夫、千葉
上総介常隆の子)が上総国長柄郡金田郷勝見城に居住し、金田を家号としたという。
『寛政重修諸家譜』によると、金田惣八郎正勝の3男の正辰(まさとき、初め正吉、左平次、惣八郎)は、15歳のときの慶長16年(1611)に初めて秀忠に拝謁し、19年(1614)の大坂冬の陣に大番として供奉し、翌20年(1615)5月の大坂夏の陣で奮戦し、1人軍列を離れ、敵1人を槍で突き伏せ、6~7人の敵兵と戦い、3ヶ所の傷を負ったが、援軍が進み来たのを見て退散した。
このことを家康は軍功と認め、12月27日に正辰は下総国千葉郡の内において采地500石を賜った。このとき、検見川村(5給)187.5石、曽我野村(6給)6.4石、畑村(3給)155.9石、久々田村(習志野)150石(2給)であった。
後の寛永10年(1633)2月に上総国市原、望陀の2郡において200石が加増され、明暦2年(1656)12月にも300俵を加えられた。このとき、市原郡山田橋(市原市)195石、望陀郡林(袖ケ浦市)であった。
千葉市で社会科教育に携わった元教師と現職の教師の有志(約100名)が去る6月15日にNPO法人「郷土ちばに学び親しむ会」を立ち上げました。
この会には「教師部」・「児童生徒部」・「市民部」があり、市民部では下記の事業を開催します。
徳川家康ゆかりの御成街道とその街道沿いの史跡の歴史的意味を学ぶ。
1回目は講義で、御成街道の造成の目的などを学び、2回目は徒歩で、現地を散策し、その歴史的な意義を自分の目で見て、肌で感じる。
*1回目 10月3日(土)9:30~正午
会場 千城台公民館セミナー室 (モノレール千城台駅の近く)
内容 講義「徳川家康ゆかりの東金御成街道」
講師 本保弘文(郷土史研究家)
*2回目 10月10日(土) 9:00 モノレール千城台駅改札口集合(正午頃解散)
散策 千城台北町→提灯塚→金親町(高札場跡・長屋門)→金光院→御茶屋 御殿(解散) 約4キロ
講師 本保弘文(郷土史研究家)
*学費 500円(2回分)1回目のときに集金
*定員 40名(先着順)
*申込み方法
「往復ハガキ」に氏名・住所・電話番号を記入し、〒260-0013千葉市中央区中央4-13-10 千葉県教育会館別館5階 NPO法人郷土ちばに学び親しむ会へ
(写真は家康の休憩・宿泊のために建てられた「御茶屋御殿」跡)
この石灯籠には、
<浚明院殿(第10代将軍)
天明六年丙午(1786)九月八日
江州水口城(滋賀県甲賀市水口町)主
従五位下佐渡守藤原朝臣
加藤氏明陳(あきのぶ) 敬白>
と刻まれています。
加藤明陳は、近江水口藩の第5代藩主で、宝暦8年(1758)8月1日に第3代藩主加藤明熙(あきひろ)の次男として江戸で生まれました。明和6年(1769)5月15日に第4代藩主加藤明堯(あきたか)の養子となり、安永5年(1776)12月朔日に初めて10代将軍家治(淩明院)に拝謁(時に15歳)し、同月16日に従五位下能登守に任官しました。その後、同7年(1778)5月10日に明堯の隠居により、家督を継ぎ、近江国に2万5千を領し、水口藩第5代藩主になりました。同9年(1780)12月3日に佐渡守に任じられ、寛政6年(1794)10月15日に関東の川々の普請や京都の警護などに当たりました。
同11年(1799)9月6日に家督を明允(あきまさ)に譲って隠居し、文化5年(1808)10月8日に病により死去しました。51歳でした。
さて、水口藩主(城主)加藤明陳が将軍家治の逝去に伴い、寛永寺に寄進した石灯籠が、いつ、どうして千葉市にあるのかは、今のところ不明です。
川光倉庫の旧気球連隊格納庫を見た後、椿森の国立千葉医療センターに向かいました。途中、右手に「作草部公園」があり、ここには「作草部神社」が鎮座しています。境内に大正4年11月の忠魂碑、明治21年4月の木花開耶姫命、元治元年4月の石尊大権現、同年同月の山王大権現などの石仏、昭和35年8月の庚申塔があり、脇には出羽三山供養塚もあります。この神社について、大正15年の『千葉郡誌』には、
<都賀村作草部字宮後に鎮座す。大雷神・大山砥神・高雷龍神・伊邪那岐命・伊邪那美命・事解男命・高産霊命・猿田比古命・応神天皇・菅原道真・素盞鳴命・市寸島比咲命を祀る。由緒詳かならざれども、慶応三年十一月二日、神位吉田殿より授位有之、明治四十三年十一月十一日、同所字屋敷熊野神社及び同四十四年十一月六日、同所皇産霊神社、道祖神、子安神社、天神社、摩利支天神社、疱瘡神社、駒形神社を本社に合祀す。境内社一社あり。日枝神社と称し、大山咋命を祀る。>
と記されています。この公園一帯も、かっては陸軍歩兵学校の敷地でした。
先に進み、東寺山と西千葉を結ぶ「作草部坂道」を横切り、細い道を直進し、右手に曲がりながら進むと、「千葉医療センター」脇に出ました。かって傷病兵の治療に当たった「陸軍衛戌(えいじゅ)病院」が前身で、明治41年4月に開業しました。
隣にある椿森中学校の一帯は、「鉄道第一連隊」があったところで、明治40年10月に東京中野のあった交通兵旅団の鉄道大隊が発展的に拡充してこの地に移転して鉄道連隊となり、その後、大正7年10月に津田沼に鉄道第2連隊が出来ますと、鉄道第1連隊と改称されました。
椿森中学校前を直進すると、右手に「椿森公園」があります。ここには「将校集会所の庭の築山」がそのまま残っています。この公園から椿森中の方に少し戻ったところに椿森集会所があり、その脇に「鉄道大隊の記念碑」、その傍に「鉄道大隊駐屯地の跡」と刻まれた小さな石があります。この脇にある地蔵様は、連隊の営庭の片隅にあったものであるといいます。築山の中央には大日如来が鎮座しています。
ここから国道16号に出るために歩きながら、「そうだ。天気もいいので、近くのコンビニで弁当を買い、千葉公園で食べよう!」の思い、コンビニに立ち寄りました。
すぐに国道16号を横切り、「千葉公園」に向かいました。かって「鉄道第1連隊演習跡」を中心とした一帯で、樹木の全くない台地と沼池に、昭和22年に戦災復興計画の公園造成として工事が始まり、40年に完成しました。約40ヘクタールの敷地に野球場・競輪場・体育館・プールなどがあり、綿打池にはボートが浮かんでいます。
平日の昼間ですが、園内には結構、人がおり、思い思いに過ごしています。池の畔のベンチに腰を降ろし、ゆっくりと買って来た弁当を食べました。晴れていて、温かで、絶好の散歩日和。
この「綿打池」の由来は、江戸時代、この附近が旗本領の作草部村と佐倉藩領の寒川村との境界で、池の帰属をめぐって争いが起こった時、役人の実地検分の前日、寒川村の綿打ちの太郎兵衛が、村内の弁天様の石仏を寒川寄りに移しておいたところ、検分の結果、この池は寒川村のものになったといい、この太郎兵衛の機転を称揚して、この名が付いたといわれています。
時間をかけ、美味しく昼食を取った後、かって鉄道第1連隊が架橋演習のために造った「橋脚」を見ながら、「荒木山」に向かいました。この山の由来について、石にはめ込まれた「説明」には、
<当時、この小高い丘は、連隊のラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山」と呼ばれ、親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵達により、銅像が建立されたため、以後、「荒木山」と呼ばれるようになりました。その後、物資窮乏の時局を迎えて、銅像の姿は消えましたが、今でも、この小高い丘は「荒木山」と呼ばれ、市民に親しまれております。>
と刻まれています。
荒木山を下り、ボート管理事務所側から公園を出ると、左手に「厳嶋神社(通称弁天様)」があります。弁天及び弁天町という町名は、この弁天様に由来するといいます。祭神が市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、子孫・繁栄・学問、特に芸能の神で、神社の由来について、境内の「厳嶋神社綿打池畔」の由緒沿革には、
<江戸の春、綿打池の地積について、寒川村と作草部村との間に争いがあり、藩士のいざ実地検分の前夜、寒川の綿屋太郎兵衛が弁天様の礎石を、こっそり寒川寄りに移し置き、この池が寒川のものである証とした。
明治以降、池のほとりに、ひっそりと佇(たたず)む弁天碑に祠を作り、祭祀を行い、社会の福祉に貢献した村人数名の功績は境内の顕彰碑で知ることができる。又、千葉家が隆盛時代、千葉常胤の六男、東胤頼の館が存在し、爾来、この地を吾妻台と呼ばれる。>
と刻まれています。
午後2時頃、この厳島神社を出て、JR千葉駅に向かいました。天候に恵まれ、一人でゆっくりと、気ままに歩き、途中で道に迷ったところもありましたが、かって若い人たちが帝国日本の勝利を目指して軍事訓練に明け暮れたであろう地を、平和な世の中のありがたさを感じながら、3時間余りをかけて歩き終えました。
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