千葉(亥鼻)城の落城と千葉氏嫡流の断絶
正長元年(1428)1月に室町幕府第4代将軍義持が死去し、その跡継ぎをめぐって幕府と鎌倉府(公方)とが対立する中で、永享2年(1430)6月に千葉介兼胤が亡くなり、胤直が12歳の若さで家督を継ぎ、上総・下総両国守護職に任じられました(胤直は兼胤の弟で、兼胤の子賢胤が幼少であったため、宗家を継ぎました)。この胤直には円城寺下野守尚任(なおとう)と原筑後守胤房という2人の重臣がいましたが、両者は領地をめぐる争いなどから、ことごとく反目し合っていました。
こうした中で、享徳4年(1455。7月から康正元年に改元)3月20日、原胤房は、一族の馬加康胤と共に軍勢を率いて胤直・円城寺尚任らが居る千葉(亥鼻)城に攻め寄りました。胤直は、子の胤宣や弟の賢胤、円城寺氏らと防戦しましたが、原氏や馬加氏の軍勢が多く、やがて城内に火が放たれたため、胤直ら一族は城を棄てて円城寺氏の本拠地、香取郡千田庄(多古町周辺)に逃れました。これにより、大治元年(1126)から約330年続いた千葉(亥鼻)城は落城しました。
千田庄に逃れた胤直は、弟の賢胤・円城寺尚任らと志摩城(多古町多古字島)に、子の胤宣は、父と別れ、椎名与十郎胤家らと多古城(多古町多古字古城)に立て籠もり、関東管領上杉氏の援軍を待ちました。
しかし、上杉氏からの援軍も鎌倉公方足利成氏勢によって滅ぼされて至らず、原胤房と馬加康胤は志摩城と多古城に軍勢を進めました。馬加氏は、胤宣らが居る多古城を取り巻き、城兵の逃げ道を作った上で攻め立てました。8月12日に胤宣らは逃げ道から脱出し、「むさ(『千葉伝考記』では「武佐小櫃谷」)といふ所に阿弥陀堂の有けるへ出、仏前にむかひ」切腹しました。そして、胤宣の後を追うかのように家臣の椎名与十郎胤家、木内彦十郎、円城寺又三郎、米井藤五郎、粟飯原助九郎、深山弥十郎、岡本彦八、清野新九郎、多田孫八、高田孫八、三谷新十郎、寺本弥七、中野与十郎らも刺し違えて運命を共にしました。
一方、原氏は、胤直らが居る志摩城を攻め、弟の賢胤を始め、池内豊後守胤相、円城寺尚任、池田蔵人、多田伊予守、粟飯原右衛門尉、高田中務大輔胤行らの家臣や胤直の妻妾らが自刃し、胤直は大野小五郎と共に城の東端から脱出し、土橋というところの如来堂に立ち退き、8月15日に別当院東覚院で自刃しました。ここに千葉氏嫡流は断絶しました。胤直が自刃した東覚院は、現在の土橋山東禅寺(多古町寺作)であるといい、この寺院で胤直・胤宣らが葬られたといわれ、現在もこの寺院の墓所に胤直らの五輪塔が残されています。
また、『鎌倉大草紙』には、原胤房は胤直らの遺骨を「千葉の大日寺」に送って葬り、五輪塔を建てたとあります。


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