無料ブログはココログ

千葉県

2007年4月 4日 (水)

千葉(亥鼻)城の落城と千葉氏嫡流の断絶

正長元年(1428)1月に室町幕府第4代将軍義持が死去し、その跡継ぎをめぐって幕府と鎌倉府(公方)とが対立する中で、永享2年(1430)6月に千葉介兼胤が亡くなり、胤直が12歳の若さで家督を継ぎ、上総・下総両国守護職に任じられました(胤直は兼胤の弟で、兼胤の子賢胤が幼少であったため、宗家を継ぎました)。この胤直には円城寺下野守尚任(なおとう)と原筑後守胤房という2人の重臣がいましたが、両者は領地をめぐる争いなどから、ことごとく反目し合っていました。

こうした中で、享徳4年(1455。7月から康正元年に改元)3月20日、原胤房は、一族の馬加康胤と共に軍勢を率いて胤直・円城寺尚任らが居る千葉(亥鼻)城に攻め寄りました。胤直は、子の胤宣や弟の賢胤、円城寺氏らと防戦しましたが、原氏や馬加氏の軍勢が多く、やがて城内に火が放たれたため、胤直ら一族は城を棄てて円城寺氏の本拠地、香取郡千田庄(多古町周辺)に逃れました。これにより、大治元年(1126)から約330年続いた千葉(亥鼻)城は落城しました。

千田庄に逃れた胤直は、弟の賢胤・円城寺尚任らと志摩城(多古町多古字島)に、子の胤宣は、父と別れ、椎名与十郎胤家らと多古城(多古町多古字古城)に立て籠もり、関東管領上杉氏の援軍を待ちました。

しかし、上杉氏からの援軍も鎌倉公方足利成氏勢によって滅ぼされて至らず、原胤房と馬加康胤は志摩城と多古城に軍勢を進めました。馬加氏は、胤宣らが居る多古城を取り巻き、城兵の逃げ道を作った上で攻め立てました。8月12日に胤宣らは逃げ道から脱出し、「むさ(『千葉伝考記』では「武佐小櫃谷」)といふ所に阿弥陀堂の有けるへ出、仏前にむかひ」切腹しました。そして、胤宣の後を追うかのように家臣の椎名与十郎胤家、木内彦十郎、円城寺又三郎、米井藤五郎、粟飯原助九郎、深山弥十郎、岡本彦八、清野新九郎、多田孫八、高田孫八、三谷新十郎、寺本弥七、中野与十郎らも刺し違えて運命を共にしました。

一方、原氏は、胤直らが居る志摩城を攻め、弟の賢胤を始め、池内豊後守胤相、円城寺尚任、池田蔵人、多田伊予守、粟飯原右衛門尉、高田中務大輔胤行らの家臣や胤直の妻妾らが自刃し、胤直は大野小五郎と共に城の東端から脱出し、土橋というところの如来堂に立ち退き、8月15日に別当院東覚院で自刃しました。ここに千葉氏嫡流は断絶しました。胤直が自刃した東覚院は、現在の土橋山東禅寺(多古町寺作)であるといい、この寺院で胤直・胤宣らが葬られたといわれ、現在もこの寺院の墓所に胤直らの五輪塔が残されています。

また、『鎌倉大草紙』には、原胤房は胤直らの遺骨を「千葉の大日寺」に送って葬り、五輪塔を建てたとあります。

2007年3月31日 (土)

房総を襲った元禄大地震

3月25日午前9時42分頃の能登半島でマグニチュード6.9の地震が発生し、死者1名、重傷者28名、軽傷者290名、住家全壊121軒、半壊352軒という大被害を受けました(3月31日現在)。

関東地方の地震の被害といえば、大正12年(1923)9月1日の「関東大震災」が知られていますが、それ以前の元禄16年(1703)11月23日夜に千葉県野島崎の南海上を震源地とするマグニチュード8.2の巨大地震に見舞われています(元禄大地震)。また、この地震により福島から紀伊半島にわたる広い範囲に高さ4~8mの津波が発生し、多くの溺死者が出ています。

この時の様子について、九十九里町の『飯高家文書』に、

<元禄十六未年十一月二十二日夜子の刻(0~2時)より、俄に大震にて、ゆりかえし、ゆりかえし、表にて大たいこ打ち候如くになりひびく。同丑の刻(2~4時)に大山の如くなる津波、二、三の浪、続いて入来る。別て二の浪、つよくして、家・大木共に押し流され、大木は土手共に二、三丁程も流れ、逃げる人々のうちにても浪に追いつかれ、水に溺れ死すもの脇村は格別。当所(粟生村)にて百人余也。牛馬鶏犬まで水に溺れ死す。又、水をわけ出ても、寒気に綴れて死すもの多し。暁天に潮汐(ちょうせき)引き退き、哀れなるかな、骸(むくろ)は道路に累々とす。住人、ここを去りかねたり。□来如斯なる事、能々(よくよく)心得て、家財を捨て逃げ去るべし。(以下略)>

とあり、この地震による津波で粟生村では大木・家屋・人・家畜などが押し流され、100名余りの死者が出たといい、九十九里町では半分以上が被害を遭い、県道一宮片貝線付近の各所に死体が山のように積み重なっていたといいます。

この元禄大地震の他に、房総では慶長9年(1904)2月3日、延宝5年(1677)11月4日、安政2年(1855)11月11日にも大きな地震があったことが記録されています。

2007年3月22日 (木)

学童集団疎開の記録

3月18日に東金本漸寺の学童疎開のことを記しましたが、『東京都教育局学童疎開関係文書』によると、菊川国民学校の児童の受け入れ先は、

・3年男子(52名)・・・・・大網白里町蓮勝寺

・3年女子(39名)・・・・・大網白里町新増旅館

・4年女子(40名)・・・・・同上

・4年男子(61名)・・・・・土気町本寿寺

・5年男子(52名)・・・・・土気町善勝寺

・5年女子(34名)・・・・・東金高等女学校

・6年女子(71名)・・・・・同上

・6年男子(81名)・・・・・東金本漸寺

とあり、昭和20年(1945)3月1日に中等学校の入学試験のために帰京した6年生は152名になります。

千葉市内に学童疎開した児童は、

・錦糸国民学校3年男子(37名)・・・・・椎名村上行寺

・同3年女子(34名)・・・・・・・・・・・・・・・椎名村長福寺

・同4年男子(51名)・・・・・・・・・・・・・・・生浜町本行寺

・同4年女子(27名)・・・・・・・・・・・・・・・生実本満寺

・日進国民学校4年男子(34名)・4年女子(25名)・5年男子(15名)・5年女子(19名)・

6年男子(41名)・6年女子(30名)・・・・・・千葉登戸本所健康学園

でした。20年(1945)4月以降、千葉県内でも空襲が激しくなったため、5月21日に県内の疎開していた児童は岩手県の方に再疎開して行きました。

この中で、椎名村上行寺・長徳寺に疎開していた児童について、

・錦糸国民学校の児童は、9月2日夕方に到着し、この日は椎名国民学校の児童は一旦下校し、再度登校して歓迎会を行った。

・疎開して来た児童は、椎名国民学校の児童が下校した後、きちんと隊列を組んで登校していた。

・椎名国民学校に軍隊が駐留するようになってからは、疎開して来た児童は宿舎の寺院で学習していた。

・疎開して来た児童は、掃除や簡単な洗濯は自分たちで行い、骨の折れる洗濯や縫い物は近所の未婚の女性が奉仕していた。

・炊事に関しては、近所の婦人2名が専属で当たっていた。

・便所の汲み取りは、近所の農家が交代で行っていた。その折に自宅で取れた野菜を持参するなど、協力を惜しまなかった。

という話があり、この時に炊事を担当していた人は、今でも疎開して来た児童5名くらいから年賀状が届くといいます。

2007年3月13日 (火)

房総の「東照宮」

徳川家康を祭神とする東照宮は、日光東照宮・久能山東照宮が有名ですが、日光東照宮の高藤晴俊氏によりますと全国に500社以上あるといいます。

この中で、千葉県内には20社あるとされていますが、郡史や町・市史などの文献や現地調査から41社が確認されました。単独社が13社、合祀社7社、境内社9社、寺院内3社、個人7社、不明2社になります。

その内、規模が最大のものが八日市場の東照宮で、千葉県で唯一、全国東照宮連合会に加盟しています。単独の船橋東照宮は、地元では「最も小さな」東照宮との話もありますが、佐原市の明気神社の境内に東照宮の石碑(高さ66cm)だけのものもあります。

創建年代を見ますと、慶長1社、慶長~元和6社、元和5社、寛永2社、貞享1社、享保1社、明和1社、文化3社、文政1社、天保2社、嘉永3社、明治1社、大正2社、昭和1社(再建及び不明のものは除く)です。

*拙書「調査研究/房総の東照宮」(平成10年11月、暁印書館)より

最近のトラックバック

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31