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横芝光町

2012年12月16日 (日)

横芝光町小堤(おんずみ)の稲荷神社

Photo_12伊能忠敬が青春時代に過ごした地、武射郡小堤村(横芝光町小堤)の伊藤茂兵衛宅に氏神である稲荷神社がある。この神社の社殿の御柱の彫刻が素晴らしいということで立ち寄った。

Photo_13社殿に納められていた「木札」には、

<表面>大御殿新久造営奉家牟止主(おおみややかくつくりまつられむと)、伊藤茂兵衛、

先津年与里(さきつとしより)、諸工人仁(もろたくみびとに)、議里(はかり)、勤美務弖(いそしみつとめて)、此度落成奴留仁依里弖(こたびつくりをいぬるによりて)、正迂宮仕(せいせんぐうつかい)、斎良止白可(まつらくとももうす)

 字曲町鎮座 祠掌 芹沢兵吾

<裏面>維持(これときし)明治十八年三月二十五日

とあり、社殿の彫刻は神田明神・笠間稲荷と同人の作という。

Photo_14この神田明神と笠間稲荷の彫刻は、笠間住の宮大工であった後藤縫之助の作である。

文政8年(1825)3月に下総国猿島郡猫実村(岩井市猫実)の野口弥左衛門の次男として生まれた。天保11年(1840)、15歳のとき、笠間の宮大工の後藤正忠の弟子となり、嘉永2年(1849)、24歳で独立し、後藤の姓を受けた。

Photo_15鳥見神社(印西市)、笠間稲荷、八幡神社(栄町)などの本殿の彫刻を彫り、明治34年(1901)に76歳で亡くなった。

2012年8月27日 (月)

伊能忠敬青春の地~横芝光町小堤

Photo伊能忠敬は、延享2年(1745)正月11日に山辺郡小関村(九十九里町小関)で生まれた。代々「五郎左衛門」を名乗る地曳網の経営者で、土地の草分百姓の「小関」を姓とする家柄であった。

忠敬の父の利左衛門貞恒は、武射郡小堤(おんづみ)村(横芝光町小堤)の神保(じんぼ)家から婿に入った人で、母の峰は、小関家の長女であった。

Photo_2


宝暦元年(1751)の忠敬(幼名三治郎)が6歳のとき、母の峰が病死したため、父の貞恒は離縁となり、兄と姉を連れて実家に戻ったが忠敬だけは小関家に留まった。

同5年(1755)、忠敬10歳のときに、小堤村の父貞恒の元に引き取られ、17歳のとき、佐原の伊能家へ婿養子になるまで、小堤村で多感な少年時代を過ごした。

上総と下総の国境、栗山川の中流右岸、台地東麓に神保本家がある。父の貞恒は、本家の南方、和田の地に分家した。現在、両神保家には、「伊能忠敬・成長の処」、「伊能忠敬父・神保貞恒生活の処」の石碑が建てられている。

2008年7月31日 (木)

成田山本尊上陸地を再訪して

P1010111県道30号(九十九里ビーチライン)を通った折に、横芝光町の尾垂ヶ浜(おだれがはま)にある「成田山本尊上陸地」を再訪しました。

成田山新勝寺(真言宗)の本尊は、弘法大師(空海)作(開眼)といわれる不動明王像(像高1.32m)です。寺伝によると、平将門が叔父国香を殺害して下総国を始め、常陸国・上野国・上総国・武蔵国の近国を侵し、自ら「新皇」と称し、関東に威を振るった(平将門の乱)ため、天慶3年(940)1月に朱雀天皇が寛朝(かんちょう)僧正に宝剣を授け、「治乱の護摩を修法(しゅほう)せよ」と命じました。

この命を受けた寛朝僧正は、すぐに京都の高雄山に安置されていた不動明を奉持して難波津(大阪)から船出して、この尾垂ヶ浜に上陸したといわれます。

P1010112 上陸地跡の鳥居の脇に平成3年(1991)3月に光町教育委員会が建てた「案内板」に

<平安時代の中頃に桓武天皇の子孫の平氏が東国へきて勢力を張り、その一族の平将門が反乱を起こしたとき、それを鎮めるために寛朝僧正によって不動明王像が都から大阪を経て船で運ばれ、尾垂の浜に上陸、調伏(ちょうぶく)祈願をしたところ、天慶三年(940)乱は鎮まりました。この時の不動明王が、成田山新勝寺の本尊です。>

と記されています。

鳥居をくぐり、掃除を行き届いた参道を進みますと、突き当たりに平成10年(1998)12月に光町教育委員会が建てた「案内板」があり、

<光町指定史跡 成田山御本尊不動明王 御上陸之地 平成十年四月二十三日指定

天慶の乱(平将門の乱)の時、将門調伏の祈祷のため、寛朝大僧正が京都から海路、不動明王尊像を奉持して、ここ尾垂ヶ浜に上陸しました。その不動明王尊像は、現在の成田山新勝寺の御本尊です。>

P1010110 と記されています。ここから左手に大きな石碑が見え、

(正面)成田山本尊不動明 御上陸之地

      大本山成田山貫首大僧正照定 謹書

と刻まれています。

この大僧正の照定は、中興第18世で、明治25年(1892)4月に成東町小松(山武市小松)に荒木辰五郎の次男として生まれ、同35年(1902)6月に石川貫首に随って得度した。

その後、成田中学校(成田高校)を経て東洋大学に入り、大正2年(1913)に同大を卒業後、同大学研究科に進み、同3年3月に卒業した。同13年(1924)1月に石川僧正の遷化により貫首になった。照定僧正は、石川大僧正の素志を継承し、成田山公園を完成させ、同7年(1918)11月に深川不動堂の境内地を購入し、同9年(1920)11月に大阪市外香里に大阪別院を建立した。また、同10年(1921)1月に内仏殿・奥殿の新築起工式を行い、同年8月に北海道函館別院、10月に横浜別院の大師堂及び客殿の再建などを手がけた。昭和40年(1965)9月20日に遷化された(73歳)が、「当山過去一千余年、高僧大徳相つぎ、寺門の興隆に衆庶の救済に貢献した貫首は多いが、僧正の如く壮歯能く此の大山の経営に任じ、霊林の繁栄利物の勝計を確立したのはその例稀有というべきである」(『新修成田山史』)と高く評価されています。

この「御上陸之地」の石碑の左側には、平成10年(1998)4月に建立した「成田山浪切り不動尊」が建てられています。

この浜に上陸した不動明王は、その後、下総国公津ヶ原(不動ヶ岡)に安置し、護摩を修めました。翌3年(940)2月に平貞盛・藤原秀郷らが将門の居館・下総猿島を襲い、将門を討ち取りました。

乱後、寛朝僧正は、伽藍を建て、不動明王を祀り、鎮護の道場としました。この伽藍を、新たに敵に勝ったということで、「新勝寺」と名付けたといいます。

現在地に境内を遷座したのは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)とか、宝永2年(1705)とかの説がありますが、成田山新勝寺大本堂建立記念として出版した昭和43年(1968)3月の『新修成田山史』には、

<現境内に遷地したのは少なくとも天文年間(1532~55)か、それ以前でなければならない。さすれば永禄年間(1558~70)の遷座入仏は諸堂を整備した落慶紀念の式典を行ったことを意味するものであろう。>

とあり、「天文年間か、それ以前」としています。

2008年6月23日 (月)

坂田城址を訪ねて(その2)

坂田城について調べるため、書斎の本棚から参考文献を探すと、『山武郡の古城址』(清水浦次郎)があった。その中に昭和6年(1931)当時の坂田城の様子が記載されていたので、それを書き留めることにした。

<坂田城址>

横芝町(旧大総村)坂田の坂田池の北の方向にある。町原方面の台地から南南東に長く突出した半島形の地形を利用して築いたもので、殊に町原方面に続く顎部の地は、この地形の広大な面積に対して、上部は僅か50mの幅、しかも三面は20-30mの絶壁か、急傾斜で、周囲の水田か、池水に臨む要害の地である。

特に城の西南の坂田池は、昭和初年に耕地整理が行われるまでは現在の約二倍の面積で、当時はもっと広大であったらしく、この方面は一層要害であった。

この城は、面積が広大な山武郡市内の諸城址中でも第一と思われ、周囲約1km以上もあった。西南方の町原方面から続く頸部に屈曲した深さ9mほどの濠がある。これが本城の大手方面であったらしく、通路が残っている。ここから入ると三の丸で、面積約2ha、更にこれから二の丸となる間にも深さ9mぐらいの濠がある。

二の丸の地積も三の丸と殆ど同じで、これを越えて本丸に入る所にも約9mの濠がある。この濠を過ぎて本丸に入る通路は屈折していて防禦に便利である。本丸は、南北に通じる濠で、更に東西の2部に分かれる。西の方が東より広大で、西方の周囲は約270m、東方の周囲は約180mである。

東西とも四方に土塁を繞らしてあり、特に西北の二の丸に接する方向は内側からも4m近く高く、濠の底からは10mもある。往時は12m以上もあったと思われる。西南は坂田池に臨んでいて、東方にはこの池の水を引いて深い濠を繞らしたであろう。現在(昭和6年)も坂田池の水を引いている用水溝があることからしても考えられる。

<所在地>横芝光町坂田字登城610番地外(通称・城山)

<別称>市場城

<初見の年代>弘治元年(1555)

<史料の時代>戦国時代末期(1500-1590年代)

<廃城の年代>天正18年(1590)5月下旬

<築城者>千葉氏(庶流三谷氏)、井田氏

<形状>丘城(半島状台地占地)

<遺構>空堀、土塁、櫓台、腰曲輪、井戸跡、円墳

<城域>600m×200m

<標高>約35m(比高25m)

2008年6月22日 (日)

坂田城址を訪ねて

国道126号から旧道に入り、横芝中学校脇を直進すると、左手に坂田池公園があります。ここに車を駐車し、北側に小高くそびえる坂田城址を訪ねました。

道沿いに「坂田城址遊歩道」入口があり、その指示を従い、城址への坂道を登ります。ほどなく高く囲まれた土塁があり、その内部が主郭(本丸)です。空堀がめぐる土塁が方形となり、まさに要害です。直進すると、空堀に架かる土橋があり、その先に2郭(二の丸)があります。古い図面には「見台」とあり、馬出し状の曲輪になっています。

2郭からさらに進むと、やはり土塁があり、その先に広い3郭(三の丸)があり、今は梅林になっています。やはり周辺部には空堀と土塁が巡り、右手には「姫塚」という円墳が見られ、城普請の安全を祈願するための地鎮跡であるといわれています。

この3郭からさらに土塁を渡って先に進むと、3郭の約3倍の4郭(四の丸)が広がり、梅林となっています。

ここに掲げられている「案内板」には、

<沿革>伝承によると、14世紀中頃、千葉氏によって築城されたと伝えられる。その後、千葉氏の重臣である三谷大膳亮胤興(信慈入道)の居城となり、長倉砦や小堤要害などの支城が整備された。弘治元年(1555)以降、大台城(芝山町)の井田因幡守友胤は、三谷氏の内紛に乗じて大膳亮胤興を討って、坂田城に移ったとされる(『山室譜伝記』)。

坂田城主のなった井田氏は、千葉氏に仕えるとともに、また小田原北条氏の被官として手勢300騎を擁して、東上総における典型的な戦国土豪であった。やがて、栗山川・高谷川の流域一帯に勢力を張り、関東各地に出陣した(『井田文書』)。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉の小田原攻めの際、坂田城も追討軍のために落城した。

<構造>この坂田城跡は、JR横芝駅の北西約1.5kmに位置して、俗に「城山」と呼ばれる。その遺構は、栗山川の支谷によって形成された東西250m、南北1500mの半島状台地の先端部に展開している。周囲は沖積低地に接した急崖で寺方北側から延びる谷の鞍部によって親台地から区画され、その南方には坂田沼の低湿地を控え「要害の地」である。

その構造は、直線連郭式と呼ばれるもので、本丸から見台・登城・外城まで曲輪が直線的に配置され、その先端には城門枡形が設けられている。各曲輪は、土塁や空堀によって守られており、土塁の一部を切って柵門(虎口)とし、その要所には櫓台を置き、帯郭などを備えている。

と記されています。

この坂田城址は、県内の中世城址の中でも旧状を残した広大な城址の一つであった。

2007年3月 9日 (金)

成田不動尊上陸記念碑を訪ねて

九十九里方面の史跡調査の折、横芝光町の「成田不動尊上陸記念碑」を訪ねました。

尾垂ヶ浜に向かう左手に「成田山」の鳥居があり、その奥に「成田山本尊不動明王御上陸之地」碑と「成田山波切不動尊」が建っています。平成3年3月に光町教育委員会が建てた説明文には、

平安時代の中頃、桓武天皇の子孫の平氏が東国にきて、勢力を張り、その一族の平将門が反乱を起こしたとき、それを鎮めるために寛朝(かんちょう)僧正によって不動明王像が都から大阪を経て船で運ばれ、尾垂ヶ浜に上陸、調伏祈願をしたところ、天慶3年(940)2月にあえなく将門が戦死し、乱は鎮まりました。この時の不動明王が、成田山新勝寺の本尊です。

と記されています。

寛朝僧正は、宇多天皇の皇孫で、敦実親王の2男として生まれ、11歳のときに出家し、32歳のとき、京都仁和寺の寛空僧正より伝法観頂(かんちょう)を授法し、仁和寺・東大寺・東寺・西寺などの別当、高野山の座主を歴任しました。また、行基菩薩・良源大僧正に次ぎ3人目、真言宗では初の「大僧正」になりました。

この寛朝僧正が奉持して来た不動明王像は、弘法大師は敬刻開眼したもので、尾垂ヶ浜に上陸した後、陸路で成田の公津ヶ原に至り、ここで乱平定のため、平和祈願の護摩を祈祷しました。

この乱は、将門が戦死したことにより終わりを告げました。大任を果たした寛朝僧正は、不動明王を護持して都に帰ろうとしましたが、不動明王は磐石の如く微動だしませんでした。

このことを聞いた朱雀天皇は、深く感動し、国司に命じて堂宇を建立させ、本尊を不動明王とし、「新勝寺」の寺号を与え、ここを東国鎮護の霊場とし、「成田山」を開山しました、

昭和31年5月にこの尾垂ヶ浜に記念碑が建てられ、この横に平成10年4月に寛朝僧正遠忌千年を記念し、波切不動尊像を建立しました。この地では毎年5月27日を本尊上陸記念日と定め、法要が営まれています。

全国的にも著名な寺院の成田山新勝寺らしく、上陸地一帯は手入れが行き届いています。記念碑の脇にいる人に聞くと、「近くの老人ホームのもので、毎日、掃除をしています」といいます。「御利益がありますね」というと、「おつしゃやる通りです」と。

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