県道30号(九十九里ビーチライン)を通った折に、横芝光町の尾垂ヶ浜(おだれがはま)にある「成田山本尊上陸地」を再訪しました。
成田山新勝寺(真言宗)の本尊は、弘法大師(空海)作(開眼)といわれる不動明王像(像高1.32m)です。寺伝によると、平将門が叔父国香を殺害して下総国を始め、常陸国・上野国・上総国・武蔵国の近国を侵し、自ら「新皇」と称し、関東に威を振るった(平将門の乱)ため、天慶3年(940)1月に朱雀天皇が寛朝(かんちょう)僧正に宝剣を授け、「治乱の護摩を修法(しゅほう)せよ」と命じました。
この命を受けた寛朝僧正は、すぐに京都の高雄山に安置されていた不動明を奉持して難波津(大阪)から船出して、この尾垂ヶ浜に上陸したといわれます。
上陸地跡の鳥居の脇に平成3年(1991)3月に光町教育委員会が建てた「案内板」に
<平安時代の中頃に桓武天皇の子孫の平氏が東国へきて勢力を張り、その一族の平将門が反乱を起こしたとき、それを鎮めるために寛朝僧正によって不動明王像が都から大阪を経て船で運ばれ、尾垂の浜に上陸、調伏(ちょうぶく)祈願をしたところ、天慶三年(940)乱は鎮まりました。この時の不動明王が、成田山新勝寺の本尊です。>
と記されています。
鳥居をくぐり、掃除を行き届いた参道を進みますと、突き当たりに平成10年(1998)12月に光町教育委員会が建てた「案内板」があり、
<光町指定史跡 成田山御本尊不動明王 御上陸之地 平成十年四月二十三日指定
天慶の乱(平将門の乱)の時、将門調伏の祈祷のため、寛朝大僧正が京都から海路、不動明王尊像を奉持して、ここ尾垂ヶ浜に上陸しました。その不動明王尊像は、現在の成田山新勝寺の御本尊です。>
と記されています。ここから左手に大きな石碑が見え、
(正面)成田山本尊不動明 御上陸之地
大本山成田山貫首大僧正照定 謹書
と刻まれています。
この大僧正の照定は、中興第18世で、明治25年(1892)4月に成東町小松(山武市小松)に荒木辰五郎の次男として生まれ、同35年(1902)6月に石川貫首に随って得度した。
その後、成田中学校(成田高校)を経て東洋大学に入り、大正2年(1913)に同大を卒業後、同大学研究科に進み、同3年3月に卒業した。同13年(1924)1月に石川僧正の遷化により貫首になった。照定僧正は、石川大僧正の素志を継承し、成田山公園を完成させ、同7年(1918)11月に深川不動堂の境内地を購入し、同9年(1920)11月に大阪市外香里に大阪別院を建立した。また、同10年(1921)1月に内仏殿・奥殿の新築起工式を行い、同年8月に北海道函館別院、10月に横浜別院の大師堂及び客殿の再建などを手がけた。昭和40年(1965)9月20日に遷化された(73歳)が、「当山過去一千余年、高僧大徳相つぎ、寺門の興隆に衆庶の救済に貢献した貫首は多いが、僧正の如く壮歯能く此の大山の経営に任じ、霊林の繁栄利物の勝計を確立したのはその例稀有というべきである」(『新修成田山史』)と高く評価されています。
この「御上陸之地」の石碑の左側には、平成10年(1998)4月に建立した「成田山浪切り不動尊」が建てられています。
この浜に上陸した不動明王は、その後、下総国公津ヶ原(不動ヶ岡)に安置し、護摩を修めました。翌3年(940)2月に平貞盛・藤原秀郷らが将門の居館・下総猿島を襲い、将門を討ち取りました。
乱後、寛朝僧正は、伽藍を建て、不動明王を祀り、鎮護の道場としました。この伽藍を、新たに敵に勝ったということで、「新勝寺」と名付けたといいます。
現在地に境内を遷座したのは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)とか、宝永2年(1705)とかの説がありますが、成田山新勝寺大本堂建立記念として出版した昭和43年(1968)3月の『新修成田山史』には、
<現境内に遷地したのは少なくとも天文年間(1532~55)か、それ以前でなければならない。さすれば永禄年間(1558~70)の遷座入仏は諸堂を整備した落慶紀念の式典を行ったことを意味するものであろう。>
とあり、「天文年間か、それ以前」としています。
最近のコメント