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山武市

2014年6月30日 (月)

山武市の史跡めぐり(8)蓮花寺

Photo_13蓮沼の地名の起源になったという蓮花寺は、室町前期の永享元年(1429)に了安上人が開山したという、浄土宗の寺院である。

源頼朝が訪れ、住職の要望により、山号を「天王山」、土地の名を「御備鶴面」と名付けたという。

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境内には「八十八石仏」が並び、本堂の裏側には、元禄大津波により亡くなった人々の冥福を祈るため、「千人塚」の石碑が建てられている。

2014年6月29日 (日)

山武市の史跡めぐり(7)五所神社

Photo_11通称五所宮といい、承安元年(1171)に創建された。

天照大神を主祭神とし、誉田別命・天児屋根命など5神を祀る。

源頼朝が訪れ、武運長久・国家安泰を祈願したという。

帰ろうとしたとき、神主さんが出てきて、親切にも本殿を開けて頂き、立派な内陣を見せて頂いた。

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本殿に架けてある絵馬は、九十九里浜の地引網の様子で、よく描かれていた。

2014年6月28日 (土)

山武市の史跡めぐり(6)千人塚

Photo_10前回の「百人塚」の内容と同じように、元禄16年(1703)11月22日から23日にかけて大地震が起こり、高さ4m~8mの大津波が押し寄せた。

この津波で、九十九里沿岸では5000人以上の死者が出て、この沿岸各地には犠牲者を供養するための碑が建てられた。その数は、一宮川から木戸川の間に18基が現存している。

山武市では、前回紹介した「百人塚」の他、2基の「千人塚」があり、その1つが松ヶ谷の共同墓地にある。

この津波の7回忌に当たる宝永6年(1709)建立の地蔵尊には、

<経白 地蔵菩薩以大慈恵芳□名号□□時元禄十六年未之霜月二十三日

大地震津波而溺死当村諸精霊等七回忌□□□増進仏果誌為乃至自他法界平等利益 松谷村惣念仏講中(以下欠)>

と刻まれている。

2014年6月27日 (金)

山武市の史跡めぐり(5)百人塚

Photo_8元禄16年(1703)11月22日の夜に起こった地震により、大津波が押し寄せ、山武市の本須賀地区で犠牲者が96人に上った。

この人々を合祀した地に「五輪塔」と「供養塔」が建てられている。

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ちなみに、この大津波により、九十九里沿岸では5千人以上の死者が出たという。

この百人塚の左側に建立されている五輪塔の台座には、

<上総国本須賀郷大水溺者精霊九拾六人 元禄十六年癸未十一月二十二日

導師蔵音寺>

と刻まれている。

2014年6月26日 (木)

山武市の史跡めぐり(4)長光寺

Photo境内に樹齢300年以上という枝垂桜がある、埴谷の長光寺。その高さが15m、幹の太さ5mで、市指定文化財になっている。

Photo_6この寺院は、もとは千葉市若葉区古泉町にあったが、江戸時代の寛文9年(1669)に埴谷村出身であった9代日禅が、埴谷城主井上筑後守政清の寄進により、現在地に移転したという。

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枝垂桜の咲き誇る3月下旬には、見事な薄紅色の花を見るため、訪れる人が多い。

樹木の中を行く参道は、実に心が落ち着き、本堂前の枝垂桜の大きさに驚かされる。

桜の咲く時期に訪れる人が多いというのにうなづくばかりである。

2014年6月25日 (水)

山武市の史跡めぐり(3)日親産湯の井戸

Photo_3妙宣寺の北西に「日親産湯の井戸」がある。

日親は、応永14年(1407)9月13日にこの地一帯に勢力は張っていた埴谷重継の子として生まれた。

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妙宣寺で、父の実弟に当たる日英に学び、後に市川の中山法華経寺に入門した。

その後、鎌倉・京都で布教活動を行い、永享9年(1437)に京都に本法寺を建立した。

2014年6月24日 (火)

山武市の史跡めぐり(2)妙宣寺

Photo埴谷に日蓮宗の妙宣寺がある。

室町時代の康安元年(1361)に埴谷(はにや)城主豊前守重善(しげよし)により建立され、日英上人が開山である。

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『立正治安論』を著し、将軍足利義教を批判したため、さまざまな拷問を受け、中でも焼けた鍋をかぶせられても信念を通したという日親(「鍋かむり日親」ともいう)が生まれた寺院でもある。

2014年6月23日 (月)

山武市の史跡めぐり(1)成東城址

応永年間(1394~1428)にこの地に勢力を張った千Photo葉氏家臣の印東四郎が築城したといい、その後、一時、廃城になったが、享禄3年(1530)に千葉勝胤により再興され、第5子の胤定が入り、成東八郎と称したといわれている。

<参考>

・21代勝胤・・・・22代昌胤

         ・次男勝清(椎崎五郎)

         ・3男胤重(鹿島大与次)

         ・4男久胤(公津左近大夫)

         ・5男胤定(成東八郎)・・・勝定(成東兵庫)

Photo_2天正18年(1590)に豊臣秀吉・徳川家康の小田原北条氏攻めに成東氏は千葉氏に属して小田原城を守るが、北条氏が破れ、成東城も落城したという。

家康の関東入国で、石川康通が2万石をもってこの城に入り、その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功労により、3万石が加増され、美濃大垣城へ転封となり、青山忠成が入城した。

元和6年(1620)に青山氏は、武蔵Photo_3
岩槻城に移封され、成東城は廃城となった。

現在、成東城跡は、一部が富士見台団地となり、住宅地が押し寄せていりが、大部分が「城址公園」として整備されている。

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愛宕曲輪(推定本丸跡)には土塁や空堀・土橋が比較的良好な形で残り、見応えがある。

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城之内曲輪(推定二の丸)は広場として整備され、ちょうど10名ぐらいでグランドゴルフを楽しんでいた。

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この城址の城下には成東の市街地が広がっていた。

2011年7月22日 (金)

家康鷹狩り道「御成新道」(その6)小松・木戸川

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御成新道を下武射田から先に進むと山武市小松の集落に入り、集落を過ぎると左側には木戸川が流れている。先には南北に県道122号(飯岡片貝線)が走り、木戸川には「道面橋」が架かっている。

江戸時代は、この先の一面は湿地や沼が広がり、鷹・白鳥・鴨などが飛来していた。これに目を付けた家康は、この一帯を「鷹場」に指定したのである。

そして、この一帯での鷹狩りのため、慶長19年正月に家康が東金で1週間、過ごすわけである。

この九十九里浜一帯の鷹場は、北は匝瑳市八日市場、南は一宮に及んでいた。

現在は、木戸川沿いに道路が走り、この道路を行くと県道30号(飯岡一宮線)が南北に走り、この道路の先が九十九里浜となる。

2008年8月 2日 (土)

九十九里浜の名のルーツ(その1)蓮沼・箭挿神社

Photo_2 治承4年(1180)8月に源頼朝は、伊豆の石橋山の戦いに敗れ、安房国猟島(鋸南町竜島)に逃れました。

房総の地には至るところに頼朝伝説が残っていますが、九十九里浜の地名も頼朝伝説に由来します。

山武市役所蓮沼支所前の県道58号(成田松尾線)を右手に進みますと、県道122号(飯岡片貝線)と交差します。この県道122号を左手に500mほど行きますと左側に箭挿(やさし)神社があります。

この箭挿神社について、『蓮沼村由来分地祿』に、

<(源頼朝は)九十九本矢を指し遊ばれ候に付き、九十九里箭挿(やさし)の浦、黒土の浜とそれより唱え申し候。当村西郷箭挿明神は四十九本目に相当り故、矢を十本相祭り、小宮を建て、箭挿八幡宮と称し奉り候。>

Photo_7 とあり、頼朝は長く雄大な砂浜に6町を1里として次々に矢を立て、丁度49本目がこの箭挿神社のところであったといい、ここに小宮を建て、10本の矢を奉納したといいます。

他方、頼朝は、この長い砂浜のほぼ中央にあった小祠の由来について、里人に聞いたところ、日本武尊を祀った社であることを聞き、大いに喜び、先祖の源義家に習って矢を束ね、幣帛(供物)として奉納したともいい、これが箭挿神社であるといわれています。

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