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大多喜町

2009年10月18日 (日)

北大宮台歴史を知る会の鶴舞・大多喜方面巡検

Photo「北大宮台歴史を知る会」の「秋の巡検」は、鶴舞・大多喜方面巡り。

鶴舞ではツールハウスから房総の山々を見た後、本丸跡・藩庁跡・大井戸を見学。それにしても、ツールハウスからの房総の山々を見るのは絶景です。何度見ても飽きません。

鶴舞へは大型バスが入ることが出来ず、県立鶴舞公園付近にバスを止め、歩きになりました。「大型バス」が入ることが出来ないことを運転手さんにいわれ、仕方なく徒歩で。いつもは自家用車で行くため、このことには気づかず。

Photo_2 そして、小湊鉄道といすみ鉄道の終点、上総中野駅へ。ここから「いすみ鉄道」に乗って大多喜に行くというコース。普段は自家用車でいっきに大多喜に行くのがほとんどですが、せっかく貸切バスでの旅ですので、普段出来ないことをコースの中に。

上総中野駅でしばらく待ちますと、小湊鉄道の電車が駅に入ってきました。そして、5~6分後には隣のホームへいすみ鉄道の電車が入って来ます。鉄道マニアの方にとっては見逃せない光景です。

われわれの団体が乗車したため、座席はほぼ満杯となります。毎回、こういう状態でしたら、「廃線」は話題にならないのですが・・・・。会員の独りは、「反対の小湊鉄道は乗る人が少なく、可哀想!」と。

Photo_3 20分ぐらいの乗車で、大多喜駅へ。そして、ポピュラーな見学地、大多喜城へ。説明を受けた後、30分の個人見学。だいたいはこれで戻る訳ですが、われわれは大多喜高校内にある大井戸と二の丸御殿の薬医門を見学。そして、駐車場に戻りました。

昼食は旅籠であった「大屋旅館」で。その後、城下町を散策し、いすみ市の行元寺の「波の伊八」の欄間彫刻を説明を受けながら見学し、「秋の巡検」が終わりました。

2009年10月11日 (日)

大多喜城の薬医門

Photo_3 県立大多喜高校の正門付近に県指定史跡の「薬医門」があります。

この薬医門は、天保13年(1842)の火災後に建築された二の丸御殿の御門の一つであるといい、大多喜城内の建造物の数少ない遺構の一つです。

Photo_4 明治4年(1871)の廃藩置県の際に城山水道の開鑿に功績のあった小高半左衛門

に払い下げられ、大正15年(1926)に曾孫に当たる大多喜中学校第1回卒業生小高達也氏が当校に寄贈したといいます。

2009年6月21日 (日)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(4)良玄寺

Photo 大多喜城主本多忠勝は、文禄4年(1595)に菩提寺として城下の新町(新丁)に良信寺を建立した。開山には下総小金の東漸寺の了学上人を招きました。

Photo_2 その後、3代政朝が元和元年(1615)に2代忠朝の法号を以て、良玄寺と改めました。本堂の西側には「忠勝公園」が整備され、その奥に本多忠勝・同夫人・忠朝の墓がありました。

Photo_3 本多忠勝は、幼名を鍋之助といい、通称平八郎といいます。永禄3年(1560)の大高城に向かう家康に従ったのが初陣で、その後、生涯に戦場を往来すること、50数度。勇悍(ゆうかん)を謳われて四天王の一人でした。

一向一揆の鎮圧に槍の功名をはせ、永禄9年(1566)に騎馬の士50余を付けられ、12年(1569)6月に榊原(さかきばら)康政と遠江天方城を攻め取り、のちに1手の将に進みました。

Photo_5 小牧の戦いでは僅か300騎をもって長久手に向かわんとする秀吉軍数万と並走し、進軍を阻止するために戦うなど、秀吉をして「東の本多平八郎、西に立花宗茂あり」と、その眼力を賞され、また、「家康に過ぎたる武将」讃えられました。

天正18年(1590)8月、家康の関東移封のとき、大多喜10万石を領し、関ヶ原の戦いが起こると、井伊直政と共に東軍先鋒の監軍役を務め、慶長6年(1601)に伊勢桑名10万石に転じました。

慶長15年(1610)10月18日に63歳で生涯を閉じました。

2007年5月24日 (木)

芝山町の観音教寺を訪ねて

先日、芝山の観音教寺に不受不施派関係の史料があるということで、久しぶりに訪ねました。

この寺院は、比叡山延暦寺を本山とする天台宗で、正式には天応山観音教寺福聚院といいます。創建は、奈良時代末期の天応元年(781)に光仁天皇の勅命により、征東大使の藤原継縄が守り本尊である十一面観世音大菩薩を安置したことが始まりであるといいます。

天長2年(825)に慈覚大師円仁によって中興され、千葉氏の祈願所として繁栄し、近隣に80余の子院を置く大寺になりました。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの余波を受け、「全山灰土と化した」と伝えられています。

江戸時代には幕府の庇護を受け、10万石の格式を持つ伴頭拝領寺院として、関東天台宗の中核をなし、また、広く庶民の拠り所となりました。

参道の階段を登ると、仁王門があり、黒塗りの仁王尊が畳の敷かれた内陣須弥壇の上に祀られています。火事・盗難除けのご利益があり、江戸時代には庶民の間で、「芝山の仁王さま」といわれ、度々大火に見舞われた江戸町では火消衆や町屋などの篤い信仰を集め、「江戸の商家では仁王様のお札を貼らない家はない」とまでいわれました。

仁王門からの階段を登ると、右手に天保7年(1836)に完成した三重の塔が聳えています。総高24.98m、軒回りが初重・2重ともに並行乗木で、3重が扇垂木、屋根を大きく見せる工夫が施されています。

千葉県には、五重の塔が中山法華経寺、三重の塔が本寺と成田山新勝寺、多宝塔が安房石堂寺・那古寺の5基があります。

正面の一段高い所に、十一面観世音大菩薩を本尊とする本堂(観音堂)の優美な建物があります。享保6年(1721)の建築で、もとは参道の中央、三重の塔に並んで建てられていましたが、昭和54年(1979)に現在地につり上げました。

本堂の彫刻は、彫刻大工の左甚五郎を始祖とする島村家2代円哲作で、堂内には狩野実光筆の天井画、夏枯れの松の伝説を表す欄間、三葉葵の御紋を打った人天蓋など、多くの文化財があります。

1万坪の境内には仁王門、三重の塔、本堂などの七堂伽藍が、それぞれ歴史の重みを持ちながら、その偉容を誇っています。

<追記>実に貴重な不受不施派関係史料を頂き、感謝しています。

2007年2月27日 (火)

今日は養老渓谷へ

私が主宰している「北大宮台歴史を知る会」では、年4回県内巡検を実施しています。4月に養老渓谷の巡検を予定しているため、本日、役員と下見に行って来ました。

養老渓谷は、清澄山を源に東京湾に注ぐ養老川の上流、蕪来(かぶらい)川と合流する一帯をいい、砂質凝灰岩から成る第3紀三浦層を浸食して出来た渓谷です。樹木の生い茂った両岸は、春には岩ツツジ・フジなどが咲き、秋には見事な紅葉に彩られます。

4月の巡検は、ハイキングが中心で、午前中が観音橋から共栄橋までの中瀬遊歩道、午後は水月寺から粟又の滝(養老の滝)の滝めぐり遊歩道を歩きます。

丁度、岩ツツジとフジが咲きほこる時期、清々しい川のせせらぎとマイナスイオンに癒されながら、1日を楽しみたいと考えています。

下見では、コースの確認と昼食場所・昼食の予約を主なねらいです。役員は、5名で、男2名は日程とコースを決めること、女3名は昼食関係が担当です。

当日の参加は25~6名の予定ですので、勿論、貸切バスを使います。会員は名所・旧跡めぐりの他、昼食も楽しみのようで、地元の名物を食べることにしています。この辺りではタケノコ。沿道のお店では小さなタケノコ3本で、1000円でした。初物ですので高いのは当然かもしれません。

久しぶりにこの地を訪ねましたが、途中の道は変わり、よくなっていましたが、どうしても観光地化されると、自然が失われます。まだ時期ではないこともあり、訪れる人の姿は本当に少ない。決めることは決めて、後は当日の好天気を祈るのみ。

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