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勝浦市

2012年7月 5日 (木)

勝浦方面史跡めぐり(5)寂光寺と大椎

Photo_13県道82号沿いに勝浦市名木276番地に寂光寺(日蓮宗)がある。

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寺伝によると、日蓮がこの寺院から下総中山~鎌倉に向かったという。境内には樹齢が800年という大きな椎の木がある。弘安4年(1281)以前からあったといい、幹囲7.3m、樹高24mで、県下でも有数な椎の巨木である。

Photo_15樹幹の別れている部分は、落ち葉などの堆積で腐食し、そこに落葉樹が成長し、シタ類も繁茂、枝先まで達している。

昭和11年(1936)11月に県の天然記念物に指定された。

2011年9月 7日 (水)

勝浦方面史跡めぐり(4)おせんころがし

Photo_4なめかわアイランド駅の先の手前、左側に車を置き、「おせんころがし」に向かう。

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むかし、この土地も豪族古仙家に「おせん」という一人の娘がいた。おせんは、村人たちを人とは思わず、強欲非道な父親を改心させようとした。しかし、父親の心を改心させることは無理なことを悟り、この断崖から身を投げ、死をもって諌めたという。

Photo_2他方、父に変装したおせんが村人に崖から落とされ、亡くなったともいわれている。

このおせんの供養塔への道は、明治時代までの道で、海側の崖沿いに道路が走っていた。

2011年9月 6日 (火)

勝浦方面史跡めぐり(3)八幡岬公園

Photo八幡岬公園入口の左手に八幡神社がある。ここが勝浦城の中核に位置するという。この神社の祭神は誉田別命、つまり応神天皇で、八幡神は武家の守護神である。

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勝浦城は、当初、上総武田氏、ないしはその一族が居城していたといわれ、天文7年(1538)の国府台合戦によって武田氏が弱体化し、安房におけて里見氏に次ぐ実力者であった正木氏が、小田喜(正木時茂)、勝浦(時茂の弟の時忠)とが分割し、入部した。

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天正3~4年(1575~76)に勝浦城の時忠が没し、頼忠(よりただ)が相続し、秀吉・家康による上総没収まで居城した。

この頼忠の娘が、のちに家康の側室となる「お万の方(養珠院)」で、徳川頼宣(紀州徳川)と徳川頼房(水戸徳川)を生んだ。

2011年9月 5日 (月)

勝浦方面史跡めぐり(2)勝浦灯台

Photo外房の最東端に突き出た「ひらめが丘」(海抜70m)に大正7年に明かりが灯った勝浦灯台がある。

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白亜八角形の、高さ21mの灯台から放つ光は、約41km先まで照らしている。

2011年9月 3日 (土)

勝浦方面史跡めぐり(1)官軍塚

Photo勝浦市の華立(はなたて)岬に「官軍塚」がある。

戊辰戦争のとき、箱館(函館)五稜郭の榎本軍鎮圧を命じられた津軽藩主承昭(つぐあきら)の援軍として、実兄の熊本藩主細川韶邦(よしくに)が350余人の軍勢を箱館に向かわせた。

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しかし、明治2年(1869)1月3日に川津(かわづ)沖(勝浦市川津)で大暴風雨に遭遇し、難破した。

このとき地元では200余人の死者を供養し、1878年に「華立巌(いわお)碑」が建てられ、のちに「官軍塚」と称されるようになった。

近くの津慶寺(日蓮宗)には犠牲者の過去帳などがある。

2008年7月 6日 (日)

勝浦城址の現況

Photo_2 勝浦市の八幡岬に勝浦城址があります。

この岬の先端に突き出るように築城された

中世の海城で、上総武田氏一族の真里谷氏の属城であったとされ、後に勝浦正木氏が移り住んだといいます。

その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めのとき、徳川家康の家臣本多忠勝や植村泰忠らの攻撃で落城しました。その功績で、植村泰忠が城主になりましたが、後に勝浦市串浜新田に串浜陣屋を構えたため、廃城になりました。

先端部の主郭には養珠夫人(お万の方)像が建っています。勝浦城が家康の家臣本多忠勝らに攻められたとき、城主正木頼忠の娘で、14歳であったお万は、幼い弟を背負った母と、八幡岬の東側40mの断崖を白布を垂らして海に下り、小舟で逃げたという「お万の布さらし」の伝説があります。

ちなみに、このお万は、17歳のときに家康の側室となり、紀伊徳川家・水戸徳川家の祖となる頼宣・頼房の生母となりました。

<写真は、本郭から勝浦灯台を眺めたものです>

2007年10月21日 (日)

勝浦・佐野東照宮(八幡神社)

国道297号沿いの勝浦市佐野字宮ノ台にある八幡神社は、創建が詳らかではないが、社殿は享保11年(1726)に新築され、棟札には、

<福受山妙盛寺社僧、世話人野口吉右衛門、渡辺惣兵衛、鈴木勘兵衛、大工棟梁鈴木関右衛門、同鈴木治郎右衛門>

とあり、この村(字鍛冶屋畑)の日蓮宗妙盛寺(大永3年創建、永禄2年移建)の社僧が勧請したという。

昭和49年1月に造立された真新しい鳥居をくぐると、文政4年(1821)2月に再建され、昭和7年(1932)に改築された石段がある。この石段を登ると、応神天皇を祀る本殿がある。

明治・大正期の『千葉県神社明細帳』(千葉県総務部)には、

一.境内神社  三社

  権現神社  祭神 東照公(家康)を祭る

          由緒 不詳

          建物 間口八尺 奥行九尺

  大正九年(1920)七月十五日を以て境内神社権現神社、牛頭神社、山神社を本社へ合祀。

とあり、境内社の権現神社(東照宮)などは本社に合祀されたという。

現在、国道から登る参道や境内には寛政2年(1790)の道祖神、天保15年(1844)の馬頭観世音など、数多くの石碑が建てられている。

2007年3月 4日 (日)

勝浦城址を訪ねて

先日の晴れた日、勝浦市八幡岬を訪ねました。これまでに何回か訪ねていますが、他での史跡調査の折に久しぶりに行きました。

この岬は、勝浦城址で、天文11年(1541)頃に里見氏家臣の勝浦正木氏初代の正木時忠が入城し、以来、2代時通、3代頼忠の居城でした。しかし、天正18年(1590)に豊臣秀吉・徳川家康の連合軍が小田原北条氏を攻めたとき、秀吉と家康の家臣たちがこの勝浦城を攻撃したため、城主頼忠は城を明け渡しました。

この頼忠の娘を「お万」といい、当時14歳(13歳ともいう)で、この時、母は幼い弟を背負い、お万と共に40mもある断崖を白布を垂らして海に下り、小舟に乗って逃れたという伝承があります。白布を垂らした地を「お万布さらし」といい、八幡神社裏の断崖絶壁が舞台であったといいます。

その後、お万は母・弟と共に海路、実家の伊豆韮山に逃れました。お万は、絶世の美人であったといい、伊豆で評判となり、家康が鷹狩りで伊豆地方を訪れた時に見染められ、江戸城に入って家康の側室になりました。この時、お万は17歳であったといいます。慶長7年(1602)に長福丸(後の紀伊徳川家の祖頼宣)、翌8年には徳千代(後の水戸徳川家の祖頼房)を生みました。

元和2年(1616)に家康が亡くなった時、40歳のお万は仏門に入り、諸寺を建立しました。千葉の八日市場市の飯高壇林もその一つです。

平日の午後、車を八幡岬の駐車場に入れ、公園まで歩きました。2~3年前に来た時よりも整備され、見違える程になっていました。見物客は2~3人で、八幡神社への階段で腰を降ろしている人(78歳という)に声を掛けられました。この公園の下の方に住んでいるといい、「毎日の散歩コース。でも話の相手になってくれる人は少なく、日中は若い人の姿もなく、歳が同じくらいの人は見掛けず、実に淋しい限りだ」と。何か現代社会の実情を物語っているようです。

お万の方の像(実際はもっと美人であったというが・・・)が立つ公園からは、遠くに白亜の灯台が見え、断崖に白い波が押し寄せる風景は、絶景で、絵に描いたような景色に心が洗われました。

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