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千葉市若葉区

2013年1月26日 (土)

千葉加曽利城の調査研究(Ⅲ)

Photo千葉市若葉区加曽利町字作にある加曽利城址は、鎌倉時代前期の千葉介成胤の居城(館)であった。

この成胤の妻は、「千葉尼聖光」であったといい、『結城系図』に結城朝光の子、時光(寒河弥四郎、山川重光)の娘で、母親は「千葉介業胤(成胤)女」とある。

Photo_2また、『山川系図』(結城市東持寺)には「長山尼」の次に「千葉尼聖光」の名があり、その娘に「了阿(播磨尼)」がおり、結城朝光(結城七郎)の妻となり、重光が生まれている。

千葉成胤は、鎌倉時代初期に、常胤から加曾利の地を賜り、加曽利に城(館)を築いて居城としたが、その後については、千葉氏内部において家臣の円城寺氏(佐倉市城)と原氏(千葉市中央区南生実町)の対立があり、享徳3年(1454)には原氏と馬加氏が千葉城を落とし、千葉宗家と円城氏は千田庄(多古町)に逃れるが、以後、原氏は小弓(生実)を中心に旧千城村・旧都村の地区まで領有したと考えられることから、加曽利地区も原氏の領地になったものと思われる。

Photo_3天正18年(1590)に千葉氏一族は小田原の北条氏とともに豊臣秀吉・徳川家康の連合軍に敗れたことにより、加曽利は家康の所領になった。大正15年(1926)の『千葉郡誌』の加曾利の条には、

<往古千葉家の所領たりしが、千葉氏亡びて徳川氏に至るまで、常に諸侯の封邑に属し、寛永年間(1624~44)、板倉家の所領となり、正保年間より慶安年間(1644~52)の頃、板倉甚太郎の所領となり、後貞享二年(1685)まで板倉主税の所領たり。同三年(1686)三月、佐倉城主戸田山城守の所領に属し、元禄十四年(1701)八月、同城主稲葉丹後守の所領となる。享保八年(1723)八月、同城主松平左近将監の所領に属し、延享三年(1746)五月、同堀田相模守正亮の所領となり、爾来継続せり。>

と記されている。

2013年1月25日 (金)

千葉加曽利城の調査研究(Ⅱ)

Photo_5千葉加曽利城址は、高伝寺の表参道の左手一帯で、表参道を進むと左側に2基の「道祖神」が建っている。右側の道祖神には「宝暦八年(1758)」と刻まれている。

Photo_6この城の城主は、千葉介成胤であり、『千葉実録』の第8代千葉介常胤の条に、

<源頼朝朝臣、安房国に漂泊の時、治承四年(1180)九月二十日、千葉介常胤に加勢を乞われし事見えたり。此の時、一族親類、相具して上総国へ参着す。千葉城の留守居として常胤の孫、加曽利冠者(成人した男子)成胤、東六郎胤頼、此の外の人々には山辺郡司太郎成高(千葉寺村に住居す)、寺山武者五郎入道久能、長峰田所三郎胤行、神田次郎成利、以上三百余騎にて立て籠もる。>

とあり、治承4年9月に千葉介常胤など一族は頼朝を守るために上総に向かうが、加曽利冠者成胤らは留守居として平氏一族の反撃に備え、千葉城を守ったという。

Photo_7また、『千学集』では、

<一.治承四年八月二十三日、(中略)加曽利冠者成胤は、たまたま祖母の不幸に当り、祖父とも上総へ参り給ふと雖も、養子たる故、留りて千葉の館に在り、送葬の営みをなされけり。(以下略)>

と記され、成胤が常胤らと一緒に上総に行けなかったのは、成胤は養子であり、自らの祖母の不幸があったためであるという。

Photo_8さて、成胤の父、胤政について、『千葉実録』には、

<在鎌倉にて弁ヶ谷(べんのやつ)殿と申す。建仁三年(1203)七月二十日逝去。六十三歳。若名を千葉新介といふ。>

とあり、成胤について、『千葉大系図』には、

<久寿二年乙亥(1155)三月二日誕生。頼朝卿に属し、父祖に相立す。勇猛智謀、ここに美世を歎し所也。治承四年九月、頼朝卿に謁するため、士族悉く国境に出るとき、成胤は城を守る。判官代(ほうかんだい)親政の出軍に備ふる。建仁二年、家督を相続す。承元三年己己(1209)十二月、下総国守護職に補し、従五位下に叙す。建保六年(1218)4月17日卒。年六十四。>

と記され、成胤は武勇に富んでいた武将で、父の胤政が亡くなった建仁3年7月に千葉宗家を継ぎ、北条政子や執権北条時政・泰時の有力御家人の排斥政策をくぐり抜け、千葉氏一族の結集に力を注いだという。

そして、建保6年(1218)4月に成胤は鎌倉において64歳で亡くなった。

2013年1月24日 (木)

千葉加曽利城の調査研究(Ⅰ)

Photo千葉市若葉区加曽利町字作に日蓮宗の高伝寺がある。

Photo_2この寺院は、長承2年(1133)9月に坂尾村(若葉区大宮町)の金剛授寺(のちに養福寺、現在栄福寺)の末寺28ヶ寺の1つとして導照僧正によって創建された真言宗の寺院であったといい、寺名が「光伝寺」であったが、寛永2年(1625)正月の金剛授寺の住職快運和尚が天海僧正に帰依し、天台宗に改宗して養福寺と改名したとき、光伝寺も天台宗に改宗したという。

その後、大永2年(1522)に光伝寺は日蓮宗の改宗し、寺名を高伝寺にしたといい、山号は増長山である。

Photo_3この寺院の表参道の左側一帯に、鎌倉時代前期の「加曽利城」があり、千葉介常胤の孫で、胤政の長子である加曽利冠者小太郎成胤(しげたね)の居城であったという。

Photo_4この加曽利城址は、かって方形の土塁が回っていたというが、昭和59年(1984)頃は台地の先端部の藪の中に円墳(塚)が7基以上あり、城跡は台地の基部で、三方が急崖になっていた。

また、明治9年(1876)の『小字図』には、この城址の中に、「天神社」・「八幡神社」・「天御中主(あめのみなかぬし)神社」(妙見社)が記載されている。

天御中主神社は、もとは千葉氏が信仰していた「妙見社」で、明治初年の廃仏毀釈で本尊が妙見大菩薩のものは天御中主神に変更され、妙見菩薩の信仰(妙見信仰)はなくなってしまった。

千葉氏関係の城館には妙見社が祀られていることから、加曽利城も例外ではなかった。

現状は、城址一帯が竹林や雑木に覆われ、大小の円墳(塚)や土塁の一部、大きな窪地などが見られ、何となく城館の遺構らしき様相を見ることが出来るが、天神社や天御中主神社など3社は見当たらない。

2012年3月15日 (木)

千葉市散策(9)坂月川ビオトープ(水辺環境事業区域)

Photo_5加曽利貝塚の裏側の坂月川(若葉区小倉)に「坂月川ビオトープ」があります。

Photo_6


この区域は、良好な景観や自然環境を守るため、土地所有者の協力を得て、千葉市「水辺環境事業区域」にしてしている。

Photo_7保全区域 若葉区小倉町974-1他

指定面積 4751㎡

指定年月日 平成16年6月1日

2011年2月15日 (火)

久しぶりに加曾利貝塚を訪ねて~世界的な史跡が泣いている!

Photo 久しぶりに加曾利貝塚を訪ねました。

自宅から坂月川沿いを歩くこと、約40分で到着しました。まず、舟着場といわれる所から、国指定史跡内に入りました。

Photo_2 そして、幕張村にあった代官屋敷の大須賀家を見物。「北の家」ともいい、元禄年間(1686~1703)の建物で、大須賀家は北町奉行に仕えていた。明治15年5月に明治天皇が八街の山田台・大塚などで行われる近衛師団の演習を視察する際には御休息所として使用された。

Photo_3 ここから博物館へ。ちょうど土器の展示会が開催されていました。どの土器も力作ぞろい。見応えがありました。

Photo_4 そして、貝塚内を巡ると、復原の竪穴住居群。そのほとんどが壊れかかっている。見物人が少ないとはいえ、よくも壊れたままにしてあるもの、呆れてしまう。

再現が出来ないならば、職員上げて片してしまうべきである。これが、世界的な史跡?嘆かわしい限り!

不愉快な気持ちで帰路に着きました。

2010年7月24日 (土)

千葉白井地区散策(その4)山本元七郎の供養塔

Photo 白井地区の教育は、明治初年(1868)に山本元七郎が中野村本郷の郷蔵を改修して私塾は始めたのが起こりである。

山本元七郎は、正毅といい、中野村の知行地を持った旗本で、幕府が滅亡するとともに村の子供たちの教育に当たったようである。

Photo_2 ここに学んだ子供たちは、元七郎が亡くなった後、その供養塔を共同墓地に建立した。供養塔には、

(正面)明治九丙子(1876)一月十三日

    山本元七郎正毅

    明治十三年(1880)8月十四日

    山本練三郎正輝

    明治二十七年(1894)三月二十三日 

       松本十右衛門、石出伊右衛門、鈴木安右衛門

       林紋十郎、西郡市太郎

と刻まれている。

2010年3月27日 (土)

いよいよ『千葉・しらい風土記(仮)』の執筆開始

Photo 平成11年12月に『さらしな風土記』を執筆・編集して以来、白井地区に住む人から、「今度はお隣の白井地区についてもまとめてほしい」との依頼を受けていた。

しかし、私にとっては、この地区とはあまり深い結び付きはなく、手を付けることを控えていた。

Photo_2そんな中で先日、更科の仲間と泉市民センターに行き、更科村と白井村との歴代村長の写真を拝見し、その後、白井公民館の図書館に行き、郷土の文献を眺める機会があり、やっと「白井地区の歴史」にも手掛けようという気になった。

資料については、これまで地元の歴史研究に造詣の深い前庭さんがほとんど持っており、これをもとにしながら、前庭さんと1冊の本にまとめることにした。

ただ、私にとっては初めからの執筆であり、それなりの時間を要する。1年以上、2年以内の完成を目指すことにしている。

写真の上は「多部田城址」、下は中野の「本城寺」

2010年3月22日 (月)

今が盛り、栄福寺の枝垂れ桜

Photo 今年も桜の開花時期となり、桜で有名であった「坂尾(さかお。さんご)の寺」栄福寺を訪ねた。

Photo_2 本殿が新しくなり、その前にある枝垂れ桜が今が見頃。見物に訪れる人がひっきりなし。27日に境内で「花見の会」が開かれるが、その時期には散っているのでは?

それにしても、見事な桜である。

2010年3月12日 (金)

御殿町の姫池を訪ねて

Photo 久しぶりに御殿町の「姫池」を訪ね、地元の方に案内して頂き、上池の湧水を見に行きました。

案内された方によると、この池は、上池と下池があり、子供の頃には夏にはよく上池で泳いだといい、下池は深く、危険であったといいます。

Photo_2上池には水が湧き出ているところがあるということで、案内によりその地へと足を入れました。今の時期だから奥までいけますが、夏の時期にはマムシが多く、危険であるといいます。

Photo_3 しばらく進むと、右側に土塁で囲ったところがありました。「鹿落とし」の跡であるといいます。

Photo_4 さらに奥に進むと、湧水の地点に達しました。今も水が湧き出ています。「むかしよりも少なくなりました」とのお話。

2010年2月15日 (月)

いつになったら開通するのか?「青柳橋」

Photo 加曽利町と大宮町を結ぶ「和田新道」に架かる「青柳橋」。

Photo_2 平成17年に旧橋を除き、その後、新しい橋を造り、開通することになっているが、もう5年経ても開通する気配がない。公示によると、平成20年度とあるが、一方の公示は消されている。

Photo_4  いったいどうなっているのか?

橋が出来ていても、かって両側を土盛りをして橋と結んでいたが、現在は橋の手前の土盛りが壊され、道路とは結ばれていない。

Photo_5 大宮町の人達にとっては千葉市街に出る重要な道路。右手に大きく曲がる仮橋を通るしかない。橋の両側では都側の堤防の工事をしている。

もう5年も経ているのに、どうなっているのか?

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