千葉加曽利城の調査研究(Ⅲ)
千葉市若葉区加曽利町字作にある加曽利城址は、鎌倉時代前期の千葉介成胤の居城(館)であった。
この成胤の妻は、「千葉尼聖光」であったといい、『結城系図』に結城朝光の子、時光(寒河弥四郎、山川重光)の娘で、母親は「千葉介業胤(成胤)女」とある。
また、『山川系図』(結城市東持寺)には「長山尼」の次に「千葉尼聖光」の名があり、その娘に「了阿(播磨尼)」がおり、結城朝光(結城七郎)の妻となり、重光が生まれている。
千葉成胤は、鎌倉時代初期に、常胤から加曾利の地を賜り、加曽利に城(館)を築いて居城としたが、その後については、千葉氏内部において家臣の円城寺氏(佐倉市城)と原氏(千葉市中央区南生実町)の対立があり、享徳3年(1454)には原氏と馬加氏が千葉城を落とし、千葉宗家と円城氏は千田庄(多古町)に逃れるが、以後、原氏は小弓(生実)を中心に旧千城村・旧都村の地区まで領有したと考えられることから、加曽利地区も原氏の領地になったものと思われる。
天正18年(1590)に千葉氏一族は小田原の北条氏とともに豊臣秀吉・徳川家康の連合軍に敗れたことにより、加曽利は家康の所領になった。大正15年(1926)の『千葉郡誌』の加曾利の条には、
<往古千葉家の所領たりしが、千葉氏亡びて徳川氏に至るまで、常に諸侯の封邑に属し、寛永年間(1624~44)、板倉家の所領となり、正保年間より慶安年間(1644~52)の頃、板倉甚太郎の所領となり、後貞享二年(1685)まで板倉主税の所領たり。同三年(1686)三月、佐倉城主戸田山城守の所領に属し、元禄十四年(1701)八月、同城主稲葉丹後守の所領となる。享保八年(1723)八月、同城主松平左近将監の所領に属し、延享三年(1746)五月、同堀田相模守正亮の所領となり、爾来継続せり。>
と記されている。































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