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千葉市中央区

2013年3月22日 (金)

どう変わるの?JR千葉駅

JR千葉駅、ただ今、大工事中。

Photo_7完成が平成25年、26年という。

いったいどのように変わるのか?

工事中の看板に「未来の千葉駅」という予想図があったので、それをカメラで!

それにしても、構内は至る所で工事中。お店も数軒しかなく、実に殺風景。

早く来い来い、平成25年!26年!

2012年7月21日 (土)

村田町散策(5)神明神社

Photo_12村田町の東方、字野際に鎮座し、祭神は、天照皇太神・大日要貴命(おおひるめむちのみこと)・豊受皇太神・月夜見命である。

創建については、3つの説がある。

Photo_13その一つは、日本武尊が東征のとき、現在の市原市八幡の飯香岡八幡宮でご飯を頂き、「東日光神簱然たり」という場所に該当するというものである。

二つ目は、源頼朝が飯香岡八幡宮に立ち寄ったとき、葭篠が茂る藪の篠を刈り取り、弓矢を作らせ、その藪を「篠岬」と命名したもので、村田の篠崎姓はこれによるという。また、岸辺を歩きながら東の方を見ると、立ててあった青龍の旗が勢威を振起するかのようにはためいていたという。そこで治承4年(1180)9月9日、この地に神明神社を勧請したものであるという。

Photo_15三つ目は、永禄年間(1558~70)に大暴風雨があり、高潮が村田川へ押し上がり、村内の家屋はすべて流失したが、神社だけが忽然として残ったという。村人がそのわけを神主に問うと、「神明なり」と答えたので、村社として勧請したものであるという。この説については、永正3年(1506)に泉福寺を創建した日眼は神明宮の社僧であったといわれていることから、永禄年間前に創建されていたことになる。

鳥居の右手に2基の道祖神があり、境内には、稲荷社、子安社、疱瘡神、水天神社、弁財天神社などがある。

2012年7月20日 (金)

村田町散策(4)泉福寺

Photo_10村田町の通称、向町にある泉福寺(日蓮宗)は、永正3年(1506)に浜野本行寺日泰上人の弟子日眼が創建したといわれています。

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この日眼は、村田の鎮守神明宮の社僧であったといい、泉福寺は神明宮の別当寺で、山号を神明山といいます。

本行寺の末寺で、顕本法華宗であったが、昭和29年に日蓮宗となった。

2012年7月19日 (木)

村田町散策(3)房総往還

Photo_7下総国と上総国とを結ぶ主要な道は、「房総往還」で、一般的には「千葉道」と称されていた。

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この道は、海岸線を南北に走る国道16号の内陸部を走り、水戸光圀や小林一茶などもこの道を通りました。

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現在は、村田川が市原市と千葉市との境で、この付近はいつも交通渋滞区間になっているようです。

2012年7月18日 (水)

村田町散策(2)渡船場跡

Photo_4村田川は、上総国と下総国の国境を流れる川で、防御上の必要もあり、橋は架けられなかったという。

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このため、明治20年(1887)頃までは、船による渡しがあり、現在の村田川公園になっているところが「渡船場跡」であった。

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大正11年(1922)の村田の戸数は118戸で、舟運所得のある家は35戸、当時、五大力舟16、伝馬船5、茶船2、川舟8隻が稼動していた。

今はこの渡し場跡より海側に旧道、さらに海よりには国道16号が走っている。

車でこの旧道や国道の橋を渡って行き来するのが極当たり前で、明治20年代までは、ここには橋がなく、渡しの船で行き来したということを知る人が次第に少なくなっている。

2012年7月17日 (火)

村田町散策(1)村田川

Photo村田川は、下総国と上総国の国境であり、「境川」とも称されていた。

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この村田川(旧村田川)は、川幅も狭く、かなり蛇行していた。この流路は、現在、公園となっている。

Photo_3この先、約10m行くと、河川改修された新村田川が流れている。

2012年4月26日 (木)

千葉市散策(14)君待橋

Photo昭和44年3月までは港町90番地の三叉路のところに「新川」と呼ばれる小さな川(溝)があり、ここに架けられていた石橋を「君待橋」と称していた。

55年にその跡地に「君待橋苑」が設けられ、その北方約200mの都川に新しい「君待橋」が造られた。

Photo_2この君待橋には次のような伝承がある。

(1)長徳元年(992)、藤原実方(きねかた)が陸奥国へ下向の途中、ここを通り、里人に橋の名を問うと、「君待橋」と答えたので、実方は「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだという(『千葉実録』)。

Photo_3(2)治承4年(1180)、千葉常胤一族が源頼朝をこの橋のたもとに出迎えたとき、頼朝がこの橋の名を尋ねると、6男の東(とう)胤頼(たねより)が「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」と答えた(『千葉実録』)。

(3)むかし、橋の近くに美しい乙女がいて、対岸の若者と恋を語り合っていた。ある日、大雨で橋が流され、呆然として対岸を眺めていると、若者が濁流を泳いで渡ろうとしたが、力尽きて水中に没した。これを見ていた乙女は、悲しみのあまり激流に身を投げて若者の後を追った。このことがあってから、里人は君待橋と呼ぶようになった(『日本伝説叢書』)

2012年4月25日 (水)

千葉市散策(13)羽衣の松

Photo県庁内に「羽衣公園」があり、ここに「羽衣の松」が植えられています。案内板には、

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<むかし、千葉の猪鼻城下に、千葉の蓮の花の咲きほこる池田の池という美しい池があり、その周辺は蓮の花盛りのころには、多くの見物人でにぎわっていた。いつのころからか静まりかえった夜半になると、ここに天女が舞いおり、かたわらの松の枝に羽衣を掛け、蓮の花の美しさに見入っていたという。>

とあり、さらに案内板には、延々と由来が書かれています。

この続きは、実際にこの地を訪れ、お確かめください。

2012年4月23日 (月)

千葉市散策(12)お茶の水

Photo千葉市内の猪鼻城(千葉城)の城下に「お茶の水跡」があります。

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源頼朝がこの城に立ち寄ったとき、千葉介常胤が、城下で湧き出る水を沸かし、頼朝にお茶を献上したとか、徳川家康が妙見社(千葉神社)に参詣のため、この地を訪れ、この城下の水でお茶を召し上がったという伝承があります。

今は、湧水はなく、ときどき水道の水を流しているようです。

2012年4月12日 (木)

猪鼻公園の桜

Photo10日に千葉市役所への用事の帰りがけ、桜が満開の猪鼻山へ。

Photo_2ここは桜の名所としても知られています。

Photo_3時間があったので、久しぶりに立ち寄り、花見見物をしました。

Photo_4平日の日中というのに、結構人が出ていました。

お年寄りだけではなく、若い人たちも。

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