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千葉市花見川区

2009年10月 2日 (金)

幕張の明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑

Photo_4 幕張3丁目公園に「明治天皇駐蹕之碑」があります。

この地は、代官の大須賀家(千葉常胤の子孫)の屋敷跡で、明治15年(1882)5月2日に明治天皇が中原野の陸軍対抗演習を観閲するため、ここで休憩され、後にこれを記念するために建立されたものです。

*駐蹕(ちゅうひつ)とは天皇が行幸中、足を止めて休息することです。

この辺りにはカラタチの並木があったといい、山田耕筰が幕張小学校に通い、後に作詞したのが『からたちの花』であったということです。

2009年9月29日 (火)

幕張・阿弥陀寺境内に移された宝憧寺

Photo_9 明治5年に馬加村にあった龍性院・正円寺・福寿院・延命寺を合併し、さらに阿弥陀寺の境内の宝憧寺を移したもので、本尊は聖観音菩薩です(真言宗)。

聖観音菩薩は、もとは阿弥陀寺の本尊でしたが、明治5年に廃寺になったため、宝憧寺に移しました。

Photo_10 治承3年(1179)に千葉常胤が海中より阿弥陀像2体を得て、大須賀原に仮屋を建立して安置したのが起こりであるといいます。その後、文治2年(1186)に阿弥陀寺と海隣寺の両寺を建立し、各寺の本尊にしました。

鉄道線路の脇の広い境内に建つ本堂は、真新しく、古さを感じませんでした。

2009年9月28日 (月)

馬加村(幕張町)の総鎮守・子守神社

Photo_7 幕張2丁目に鎮座する子守神社は、稲田姫命を主神とし、素盞鳴命・大己貴命との3柱を社殿に祀り、9月15日に例祭が行われます。

Photo_8 創建は不詳dえすが、かって須加天王、子守大明神、馬加大明神と称されていました。

本殿は、永禄11年(1568)に千葉介胤富が願主となり、造営し、宝永7年(1710)に修復されたといい、周りの彫刻は見応えがあります。

境内には大宮神社(少名彦名命)・厳島神社(市杵島姫命)・三神社(月読尊・大山咋命・倉稲魂命)が祀られています。

2009年9月27日 (日)

幕張の旧道(上総道)の景観

Photo_5 幕張町は、江戸時代、人馬継立場(宿場)でした。

天保13年10月の『馬加村絵図』には、宿の入口が鍵の手となり、大日堂(大須賀山)の鳥居があり、街道沿いに陸側44軒、海側35軒の人家が並んでいます。人家の陸側の中には子守神社の鳥居も見られます。

Photo_6 この旧道も、海側に新道が造成されたため、人や車の行き来も少なくなり、ひっそりとしています。

街道沿いには古い家屋も見られました。

2009年9月21日 (月)

幕張町堂ノ山(大須賀山)の謎の「観音像」と「多宝塔」

Photo_2堂ノ山(大須賀山)には「首塚」があることはよく知られていますが、その右側の藪の中に「観音像」と「多宝塔」があります。

観音像は瀬戸物製のようですが、遠くから見ましたので、正確のことは判りません。

Photo_3この観音像の前に多宝塔が建っています。

これらの由緒については、知ることが出来ません。

この件について、知っている方がいましたら、教えて頂きたいと思います。

2009年9月20日 (日)

幕張町の「大日堂跡」を訪ねて

Photo_3 幕張1丁目の「堂の山(大須賀山)」に「大日堂跡」があります。

かっては独立した伽藍があり、かなり大きな本堂があったといいますが、今は何にありません(以前は朽ちた仮屋がありましたが)。

古老によると、ある年に大暴風で本堂が倒れたため、材木を集めて、仮屋を建てたといいます。

本堂にあった如来像について、『千葉市史・現代編』には、

<等身大より少し大きく、漆塗の坐像(像高1.13m)、玉眼を入れ、金銅透彫りの宝冠を載き、胸に金剛界大日の定印である智挙印を結ぶ。眉目秀麗、体格堂々として、気品があり、正気を失わない。快運の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。>

とあり、この像は、現在、宝憧寺に移されています。

Photo_5 この一角に「かぜひき地蔵」があります。この地蔵様にお祈りすると、風邪が治るとの言い伝えがあります。地蔵の形から大日堂の住職の像であるという人もいます。

2009年9月19日 (土)

幕張の金比羅神社跡を訪ねて

Photo 幕張町の旧道沿いにある「金比羅神社」について、大正5年の『幕張町誌』に、

<天明8年2月15日、青柳村市川氏与兵衛の家内より遷し、同年9月23日、遷宮奉り、以後、御利益を現わし、隣村他郷より参詣人、群集なし。>

とあります。

Photo_2 また、『幕張漁業史』には、

<古来よりの言い伝えによれば、幕張の海は、馬加(現在の幕張町1丁目より5丁目と習志野市屋敷町を含む)・武石・鷺沼の浜稼ぎ場としてきた。とりわけ漁民に信仰心が厚く、幕張町2丁目の金比羅神社と並んで武石の真蔵院の寺内に波切不動尊が鎮座し、海で働く漁師らに最も崇拝され、加護を求める参拝者が後を絶たなかったといわれ、今日まで近隣漁師の海上安全を祈り、参詣、参拝していたことが明らかになっている。>

と記されています。

細い参道を行き、鳥居をくぐると、台地上の本殿に行く、階段に参道があります。訪れる人が少ないようで、鳥居も参道もかなり傷んでいます。階段を登りきると御神塔2基がありますが、この付近は立ち入り禁止です。

この正面には社殿があったようで、敷石(礎石)が見られます。ここから海上が見渡せたということですが、今は人家、その先には「幕張メッセ」のビルが建ち並び、海は遠い彼方にあり、海を見ることが出来ません。

2009年4月14日 (火)

幕張の甘藷試作地を訪ねて

Photo 幕張公民館に所用があったので、電車で京成幕張駅で降り、近くの「甘藷試作地」を訪ねました。

江戸時代、江戸日本橋の魚問屋の子であった青木昆陽は、南町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)に認められ、8代将軍吉宗に仕えました。享保の大飢饉の翌年、江戸小石川の薬園で栽培した甘藷の中から17個をこの幕張の「大縄地(おおなわち。与力に与えられる土地。現在は「夜縄(よなわ)」)に試作し、2石7斗6升を収穫し、これ以後、幕府は関東各地の農民に作り方を教えて普及させたといいます。

Photo_2 現在、この試作地には、大正8年5月に有志が建立した「青木昆陽甘藷試作地」の記念碑があります。

ちなみに、この試作地の前には、新しくなった秋葉神社と昆陽神社が建てられています。

2008年4月 9日 (水)

新しくなった幕張・昆陽神社を訪ねて

「開かずの踏切」を解消するための地下道路の建設に伴い、新築なった昆陽神社を訪ねました。真新しい祠。隣にも真新しい秋葉神社が鎮座し、右手には庚申塔などの石仏がきちんと並べられています。以前の方が趣きがありましたが・・・・・。

この神社の祭神は、江戸中期の著名な蘭学者の青木昆陽です。江戸日本橋の魚問屋に生まれた昆陽は、南町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)に認められ、8代将軍吉宗に仕えました。

享保の大飢饉(1733~34)の翌年、江戸小石川の薬園で栽培した甘藷(かんしょ)の中から17個をこの神社の前の「字大縄地(おおなわち)」(与力に与えられる土地の名称で、現在は「夜縄(よなわ)」という)に試作し、2石7斗6升を収穫し、以後、幕府は関東各地の農民に作り方を教え、普及しました。

中でも、千葉の両総台地は、甘藷の栽培に適し、その生産はめざましく、天明・天保の大飢饉にも、このお陰で餓死する人がいなかったといわれます。また、天保年間に検見川ではこれを原料として飴が作られ、千葉寺村五田保の花澤紋十は、澱粉を作って江戸に行って売り、江戸向けの重要な特産品となりました。

弘化3年(1845)12月に同業の人たちが昆陽の徳を偲んで、甘藷試作の地を前面に眺める秋葉神社の境内に昆陽神社を建てました。

2007年6月25日 (月)

武石町三峯神社境内の東照宮=徳川家康が通過した地

東金御成街道の千葉市と習志野市との境を南下し、京葉道路の武石インターを過ぎますと、右手にJA幕張支店があります。この先を左折すると、左手一帯が「字権現越」となり、右手の共同墓地を通過すると、左手に民家があります。

この裏手に三峯神社があり、境内の右手に権現神社の石祠(高さ55cm、幅21cm、奥行16cm)があります。この石祠には、

<正 面>権現神社

<右側面>大正十四甲丑年(1925)十月吉日

<左側面>川村武右衛門

と刻まれており、地元では「権現様」といわれ、もとは共同墓地の北側の畑の中にあったが、付近が宅地化されたため、現在地に移されました。

この石祠があった字権現越は、もと字北根という小字でしたが、家康が東金に行く時、この付近を通過したことから、この小字になったといわれています。

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