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市原市

2012年10月18日 (木)

市原市の史跡探索(17)日光寺と聖観音像

Photo風戸の集落を抜けると日光寺があり、山号は安養山である。寺伝とよると、奈良時代の草創であるという。

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観音堂には秘仏の聖観音菩薩立像が安置されている。像高は330cmで、一本木造りであり、県下では最大の木像である。

Photo_3制作年代は平安時代であるという。

2012年10月15日 (月)

市原市の史跡探索(16)府中日吉神社

Photo_19能満に鎮座する府中日吉神社は、江戸時代の棟札に白鳳2年(673)の創建と記され、滋賀県大津市の日吉大社より勧請された神社であるという。

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江戸時代には「山王権現」、あるいは「日吉山王権現」と称されていたが、明治12年に「日枝神社」、さらに同27年に「府中日吉神社」と改名され、現在に至っている。

Photo_21古代においては、この地を「府中」と称されていることから、上総の国府があり、上総の中心地であったともいわれ、中世には能満城の一角に本社を造営されたという。 

2012年10月14日 (日)

市原市の史跡探索(15)光徳寺

Photo_13中野にあり、山号を経王山といい、日蓮宗中本山である。

Photo_14寛正元年(1460)7月の創建で、開基が弥富原氏2代の原胤氏(信濃守。法名は朗意)、開山は本土寺(松戸)9世妙高院日意上人であるという。

Photo_15この光徳寺のある一帯は、市東城があったところで、本堂の北側に周囲が土塁で囲まれた地があり、鐘楼の西側にも土塁が見られる。

この地の領主であった原胤氏は、康正元年(1455)11月に兄の左衛門尉(朗珍)、右京亮胤致が千田庄(多古町)での戦いで戦死したため、家督を継いだという。

千田庄での戦いとは、このころ、千葉家内では重臣の原氏と円城寺氏の対立が激化し、享徳4年(1455)に原胤房と馬加康胤が円城寺氏を重用する千葉介胤直に謀反を起こした。このため、千葉介胤直や家老の円城寺氏らは千田庄(多古町)に逃れた。

8月12日に千田庄多古城において胤直の子胤宣(15歳)が自刃し、円城寺尚任を始め、円城寺一党が討死した。そして、15日には胤直らがいる志摩城が攻められ、妙光寺に追い詰められた胤直が自刃し、原氏と馬加氏が勝利をおさめた。

文正元年(1466)6月に胤氏(原信濃入道)は幕府から「松渡(松戸)城郭」の守りを命じられた。

文明2年(1470)に胤氏は「武州水ハツ」で亡くなった。

Photo_16本寺の山門をくぐると、右側に「五百羅漢」がある。羅漢とは仏教修行者の最高位の尊称で、自身の苦悩から抜け出した尊者であるという。

Photo_17「当山では法華経を広めることに生涯をかけた日蓮聖人が、はじめて南無妙法蓮華経と唱えて以来750年の正当に、有縁の方々と共に如来の世界を境内に実現しました」とあり、さまざまな顔、形をした羅漢尊者が所狭しと座っている。

Photo_18その数には圧倒されるとともに、表情が実によく出来ており、1つとして同じものがないのも見応えがある。

2012年10月13日 (土)

市原市の史跡探索(14)医光寺

Photo_5西国吉に近江小谷城主浅井一族ゆかりの寺という「医光寺」がある。山号を中尾山、院号を盛蓮院といい、創建が文明元年(1469)という。

Photo_10本尊は恵心僧都作と伝えられる薬師如来であり、寺域は約5千坪といい、広い境内を有している。元禄16年12月に大修理したという中門を入ると、本堂・薬師堂・阿弥陀堂がある。

Photo_11この寺院は、延宝6年(1678)に堂宇が焼失し、元禄2年(1689)に当地の領主の三好政盛(監物、能登守、石見守、丹波守)が諸堂を再建したという。

Photo_8Photo_12この三好氏について、『寛政重修諸家譜』には、

<寛永系図に、本は江州浅井氏なり。家伝には橘氏と称す。直政にいたりて浅井の称号をさけて三好を称すといへり。>

とあり、三好氏はもとは浅井氏であったという。

前書の直政(左馬)の項には、

<大坂落城のとき、母と共に千姫君(秀忠女)にしたがひたてまつり、城中を遁る。寛永三年、めされて大猷院殿(家光)につかへたてまつり、月俸百口をたまひ、御小性組の番士に列す。このとき、崇源院殿(秀忠室浅井氏)にはばかり、外戚の称号を冐(おか)して三好にあらたむ。>

と記され、直政は崇源院殿にはばかり、氏を浅井から三好にしたという。

この直政の子、政盛(監物、能登守、石見守、丹波守)の項に、

<慶安三年(1650)十二月二十八日、上総国市原郡のうちにおいて采地二千石をたまふ。>

とあり、政盛の代に慶安3年12月に西国吉一帯に領地を賜ったという。

Photo_9この医光寺の薬師堂に秀忠の室で、家光の母である「お江」(崇源院)の木像(像高34.5cm)が納められている。白地の頭巾を被り、肌色、薄青系の衣の上に黒の衣をもとう。両腕を胸前にて合掌し、胡座(あぐら)した尼僧である。小柄で、母「お市の方」に似て美形である。

(崇源院像は京都市東山区の養源院蔵のものである)

2012年10月11日 (木)

市原市の史跡探索(13)鶴峯八幡宮

Photo中高根に鎮座する鶴峯八幡宮は、鎌倉時代の建治3年(1277)に九州の宇佐八幡宮の分霊を勧請したものであるという。

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祭神は、誉田別命・息長姫命・玉依姫命で、鎮護国家・殖産興業・厄除・交通安全・悪鬼退散・安産子育てなどの御神徳があるといわれている。

Photo_3神楽殿で演じられる「十二座神楽」は、県の無形文化財に指定されている。

また、この八幡宮の境内一帯は、「下ノ根館跡」といわれているが、その実態は不明である。

2012年10月 4日 (木)

市原市の史跡探索(12)西願寺阿弥陀堂

Photo_8平蔵に建つ西願寺の阿弥陀堂は、創建当時、上部が全て金箔塗り、下部が朱塗りで、まばゆいばかりであったことから、「平蔵の光堂」と呼ばれていた。

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平蔵城主の平将経(まさつね)が鬼門守護のために建立したといわれている。

昭和2年の解体修理の際に発見された墨書から、明応4年(1495)、鎌倉の名人大工・二郎三郎により建立されたことが判明した。

Photo_10この堂は正面3間、側面3面、茅葺きの寄棟造りである。軒回りは二重の扇垂木で、軒の出が深く、三手先詰組とともに美しい構成になっている。

この阿弥陀堂も国指定の重要文化財である。

2012年10月 3日 (水)

市原市の史跡探訪(11)鳳来寺観音堂

Photo_5吉沢の県道沿いに建つ観音堂は、もとは善福寺のものであったが、明治16年に鳳来寺に合併されて廃寺となり、鳳来寺観音堂になったという。

Photo_6口伝によると、禅福寺は、土地の豪族である土橋平蔵の居城を鎮護するための寺であったという。

堂は、正面3間、側面3間、周囲に切り目縁を廻す茅葺きの寄棟造りである。建築年代は、室町時代後期と推定されている。

昭和41年の解体修理の際に現在地に移され、廃寺となった善福寺には今も礎石が残されている。

Photo_7国指定の重要文化財であるが、訪問した日は、境内が荒れていた。この観音堂の前の道の反対側には鳳来寺があるが、寺というよりも集会場のようであった。

2012年10月 2日 (火)

市原市の史跡探索(10)真高寺

Photo飯給の山すそにある真高山は、山号を最勝山という曹洞宗の寺院である。

Photo_2室町時代の享徳2年(1453)に太厳存高(だいげんそんこう)禅師によって創建されたと伝えられている。

Photo_3開山の太厳存高は真里谷真如寺3世の昭応禅師の弟子に当たり、昭応禅師は上総国望陀郡真地(木更津市真里谷)の城主であった武田三河守信興(のぶおき)の孫に当たる。

Photo_4山門は、寛政5年(1793)に建築されたもので、1~2階の蛙股(かえるまた)には初代武志伊八郎信由(波の伊八)の彫刻が施されている。

2012年9月20日 (木)

市原市の史跡探訪(9)姉埼神社

Photo_3宮山台という海抜50mの高台に鎮座する姉埼(崎)神社は、景行天皇40年(110年)、日本武尊の東征の際、舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗弁命をこの宮山台に祀ったのが始まりであるという。

Photo_4天慶3年(940)、平将門追討の祈願の勅使から刀剣1振が奉納された。さらに源頼朝が安房から鎌倉に行く途次、この神社に参拝し、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。

Photo_5境内には松の木が1本もなく、氏子の家では正月に門松を立てない。これは、祭神の志那斗弁命が「待つ身はつらい」といわれたことから、「待つ」に通ずる「松」を忌むようになったという。

Photo_6山門の右手には「姉崎東照宮」があり。「祭神、日光同神」と記されている。

2012年9月19日 (水)

市原市の史跡探索(8)島穴神社

Photo島野の島穴神社は、景行天皇40年、日本武尊の東征の際に、走水の海で暴風雨に遭い、妃の弟橘姫の犠牲により上総に上陸できたという。

Photo_2社伝によると、そのとき、弟橘姫が大和国の龍田大社の神に、無事に上総まで航行させてくれるのなら、風鎮めの神を祀ると祈ったので、日本武尊は弟橘姫の遺志に従い、この地に志那比古尊を祀ったという。

Photo_3この神社に到達するまでが大変で、国道16号と並行して走る旧道を進み、島野の交差点を左折して県道139号を行き、線路を渡り、野毛付近まで行ったが、この辺りで道に迷った。迷ったというよりも、広い道がなく、やっと車が1台が進める道を行かなければ鳥居の所まで到達しなかった。

Photo_4散歩をしている人に聞くと、こうした細い道しかないという。これでは近くまで観光バスでは行けないことが分かった。落ち着いた境内、趣きのある神社だけに残念である。

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