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船橋市

2007年8月 7日 (火)

船橋・光明寺東照宮(飯山満町)

字宮下田にある光明寺(真言宗豊山派)は、文亀2年(1502)6月に興教大師を開祖とし、尊慶が開基したという。

立派な二重門を入ると、正面に本殿があり、本尊の阿弥陀如来像が安置され、相殿に大日如来像がある。

境内の左手には鐘楼があり、その脇に周辺にあった石碑が納められた小祠がある。その中に、東照大権現の石碑(高さ31cm、幅22cm、奥行10cm)があり、

  (正 面)東照大権現

  (右側面)嘉永七年(1854)二月吉日

  (左側面)山田氏 九左エ門

と刻まれている。

この石碑にある「山田氏」は、この寺院一帯の地主で、「公方様」といわれていたが、現在は家は絶えている。この寺院の土地も、山田氏が寄進したものであるという。(拙書『調査研究・房総の東照宮』より)

2007年8月 6日 (月)

船橋東照宮(意富比神社境内末社常磐神社)

JR船橋駅前から本町通りを進み、海老川を渡ると、正面が字宮ノ内であり、意富比神社(船橋大神宮)がある。この神社は、慶長13年(1608)7月に関東郡代・伊奈忠次(熊蔵・備前守)によって改築された。この伊奈氏について、『寛政重修諸家譜』の忠次の項に、

<天正十四年(1586)十二月、駿府城に渡城の時、仰せによりて御近習に列す。(中略)(慶長)十三年、下総国船橋大神宮御造営の奉行を勤め(後略)>

と記されている。

このとき、家康は、同社に木造の日本武尊を奉納した。のちの元和8年(1622)10月には秀忠が、同社の境内に常磐神社を造らせ、木造の家康像を納め、御神体とし、寛永16年(1639)には家光が木造の秀忠像を寄進している。

文化7年(1810)の『葛飾誌略』に、

<東照宮、日光様を勧進也。毎年四月十七日御祭礼。大神宮の隣。>

とあり、明治・大正期の『千葉県神社明細帳』には、

<一.境内神社 四十社

  常磐神社  祭神 日本武尊命

          相殿 東照宮 秀忠公   建物一間半四方

と記されている。また、大正5年(1916)の『船橋町誌』の常磐神社の項には、

<本殿は九尺(約2.7m)四方の木造瓦葺にして廻らすに瑞籠を以てせり。鳥居は石造にして高さ二間二尺(約4.2m)、冠石の長さ三間(約5.5m)、又第一(高さ一間三尺)、第二(高さ二間二尺)、第三(高さ一間五尺五寸)の石造灯籠あり。>

とある。

この神社の祭典には近郷の子供たちや女たちが社前に集まり、新穀の成就を願って踊りが行われた。天正19年(1591)に家康が本社を参詣したとき、この踊りを見て、賞賛したといわれている。

2007年8月 3日 (金)

船橋御殿跡東照宮

慶長17年(1612)に伊奈忠政(筑後守)は、意富比(おおひ)神社の神官・富基重(中務大輔)の屋敷地に船橋御殿を造営した(『船橋御殿由緒書写』千葉市花見川区幕張町・中須賀家文書)。

この御殿は、寛文11年(1671)に取り壊され、跡地は富氏に返され、のちの貞享年間(1684~88)に同氏は、東京浅草で「富の会」を作り、資金を集め、御殿のほぼ中央(御座所)に東照宮を造営したという。

富氏の始祖は、景行天皇第4子の五百城入彦尊(いほきいりひこのみこと)であり、この尊が天皇の命により、東国88ヶ村の県主及び意富比神社の神官になったといわれている。

寛延2年(1749)の『葛飾記』の東照宮の御社の項に、

<東照神君、御成り遊ばされし候跡地。依て御殿山と申し奉る。近年、此の所に東照宮の御社を建立し奉り、並びに山路等を切り開き、桜の並木を植え、華麗に成り奉る>

とあり、明治・大正期の『千葉県神社明細帳』(千葉県総務部)には

・無格社 東照宮

一.祭神 徳川家康公 徳川秀忠公

一.由緒 徳川家康公、江戸御入城以来、上総国東金へ御通行の際、御旅館を造営に相成り居る候処、寛永4年に引き払いに相成り候に付き、家康公の御功績の大なるを崇敬し、御座所の跡に社営を拝朔して斎奉所に候也。

一.社殿間数 間口一間 奥行四尺

一.境内坪数 三十九坪

一.信徒人数 八十人

と記されている。また、大正5年(1916)の『船橋町誌』の東照宮の項に、

<境内三十九坪、官有地なり。本殿は間口五尺二寸(約1.6m)、奥行五尺一寸(約1.5m)、木造にして茅葺き、鳥居の高さ七尺七寸(約2.3m)、冠木の長さ一丈五寸(約5.5m)ありて木造なり。>

とある。

現在の社殿は、安政4年(1857)に再建され、昭和2年(1927)に修理されたものであり、「御殿通り」と呼ばれる商店街の奥まったところにある。

2007年4月 7日 (土)

徳川家康の休憩・宿泊のために造られた「船橋御殿」考

徳川家康が初めて船橋宿(船橋市)を訪れたのは、天正19年(1591)であり、『船橋御殿御由緒写』(千葉市花見川区幕張町・中須賀武文家文書)に、

<(前略)時に天正十九辛卯年、関東入国なさしめ玉ひ、初て船橋へ成され候節、当宮(意富比神社)は関東の惣社にして、然も江府御居城御守の神社なりにより、御参宮遊ばされ、則時(そのとき)の神官富中務太輔宅を勿体なきも御旅館の御殿に遊ばされ(以下略)>

とあり、家康は意富比神社(船橋大神宮)の神官富中務大輔基重の邸宅を仮の御殿にしたという。

神官富氏の始祖は、景行天皇(12代天皇)第4皇子五百城入彦で、天皇の詔により船橋に下向し、東国88ヶ村の県主と意富比神社の神主として赴任したという。

船橋御殿について、宝永4年(1707)4月の『船橋御殿跡地裁許絵図』の裏書に、

<伊奈半左衛門(忠克。半十郎忠政の間違いか)家来遠山群大夫・根岸助太夫差遣令詮議(以下略)>

とあり、慶長17年(1612)に家康の命を受けた関東郡代伊奈忠政は、神官富氏の邸宅を「田中の地」(船橋市藤原に田中屋敷あり)に移し、家来の遠山群太夫・根岸助太夫に御殿を造営させたという。その敷地は、前書に、

<御殿地にて、一町六反五畝二十四歩除地に候>

とあり、約4800坪で、『絵図』には「御殿跡」・「囲土手、惣反歩五反四畝十歩」、「大膳分畠」、「郷御蔵」、「御立野」、「表御門」「裏御門」、「野道」という明記があるが、敷地内にどのような建物があったのかは不明である。

その後、この御殿は修理が行われたようで、『寛政重修諸家譜』の小笠原貞信(源四郎)の項に、

<(寛永)十六年(1639)六月二十日、仰を受けたまはりて船橋御殿修理の奉行をつとむ。>

とある。

この御殿に家康は、慶長19年(1614)1月に東金辺での「鷹狩り」の途中に立ち寄り、帰りにもここで休憩している。また、翌元和元年(1615)11月16日にも東金に行く途中にこの御殿で休憩し、帰路の同月25日には宿泊している。この日の『徳川実紀』には、

<大御所(家康)、東金より船橋へ至らせ給ふ。今夜、船橋市中、失火し、民居悉(ことごと)く焼失すといへども、御旅館は恙(つつが)なし。>

とあり、船橋市中で火災が発生し、民家のほとんどが焼失したが、御殿には影響がなかったという。地元には、この時、家康は何者かに鉄砲で撃たれたが、富氏が救ったという伝承がある。

この御殿には家康2回、秀忠10回、家光が大納言時代に1回の計13回、訪れていることが記録されている。

しかし、寛永7年(1630)12月以降、将軍(大御所)のお成りはなく、寛文11年(1671)4月にこの御殿の他、千葉の御茶屋御殿、東金御殿、土気の茶亭(大網白里町池田)は取り壊された。

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