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徳川家康

2007年11月 2日 (金)

Magameつれづれ<第15号>全徳川家の想いが結集する一大展覧会「大徳川展」を観覧

11月2日(金)に上野の東京国立博物館平成館で開催している「大徳川展」を観覧して来た。平日にもかかわらず、JR上野駅を降りると人出が多く、さすが東京である。上野公園ではさらに多くの人が行ったり来たりしている。

この「大徳川展」の観覧は、当初、3日(土)を予定していたが、友達に土・日曜日や祭日は人を見に行くようなものといわれ、2日の午後6時から友達と一緒に行くことにしたが、たまたま私の都合で、今日の午前中に一人で行くことになったのである。

この展覧会は、徳川将軍家、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を始め、久能山・日光・尾張・紀州・水戸などの東照宮に伝えられてきた門外不出の品々や美術、歴史資料として貴重な宝物300余点が展示され、「この『大』にめぐりあうことは二度とないでしょう」というものである。

展覧会の会場である平成館2階には、まず、家康が征夷大将軍に任じられた慶長8年(1603)から260年間続いた江戸時代の「将軍の威光」の品々が展示されている。中でも家康が愛用した品々、家康を神格化した東照宮御影は圧巻であった。家康所用の歯朶(しだ)具足・金扇馬印・南蛮胴具足・金陀美具足、吉宗所用の紺糸威鎧、慶喜所用の卯花威胴丸と続き、太刀のいろいろ。やはり将軍、絶対権力者の権威、権力の凄さがよく分かった。

家康の遺品の中で、私が興味を持ったのが「金唐陣羽織」で、『図録』の解説によると、牛皮の表面を金泥塗にしたもので、裾(すそ)には植物性繊維らしき白い総(ふさ)飾りを付ける洒落た意匠をこらし、身頃や襟には曲線断ちが認められるなど、南蛮服飾が顕著であるという。

また、家康所用の日の丸入りの「軍扇」は、家康が関ヶ原の戦いで軍勢の指揮に用いた道具であるというが、表が「金地」で、どう見ても戦いには不向きであると思うが、それは権力がなく、経済力のない者からの発想か?

展示の途中で、芝東照宮御神体の「家康坐像」を見る。『図録』の解説には、慶長6年(1601)正月、60歳を迎えた家康が自ら命じて彫刻させた等身大の寿像で、家康が生前、駿府城で自らこの像の祭儀を行っていた。そして、元和2年(1616)、死に臨んだ家康は、「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と増上寺の僧侶にいい、同寺に本像を祀るように遺言したという。この「家康坐像」は、初公開ということであり、一見に値いする。

この他、「格式の美」では、天下一とも称される大名物の肩衡茶入れ「初花」・「新田」や王朝絵巻の至宝「源氏物語絵巻」などの名品が並び、「姫君のみやび」では千代姫(尾張家2代光友夫人)所用の「婚礼調度品」など、華麗で、絢爛たる品々が並び、何か別天地に来たみたいな感じになった。

約2時間にわたり、じっくりと観覧したが、我々庶民からはかけ離れた品々が並ぶ展覧会であるが、逆にこの時代にこのような品々を使用して日々を送っていた人がいたのだということに驚きさえあった。

帰り掛けに300ページ余りの、ずっしりと重い『図録』(3000円)を購入し、会場を後にした。

2007年4月12日 (木)

徳川家康の休憩のために造営された「土気の茶亭」

千葉市緑区にある「昭和の森」から大網白里町に向かうと「池田入口」のバス停があります。その反対側にこんもりとした丘陵があり、その丘上に日吉神社が鎮座しています。

この辺り一帯が「土気の茶亭」跡で、『当代記』の慶長19年(1614)1月7日の項に、

<大御所(家康)、下総国とけとうかねへ鷹野のため御出。>

とあり、家康は東金辺で「鷹狩り」をするため、「とけ」(千葉市緑区土気町)を通ったといいます。

また、『寛政重修諸家譜』の小栗信友(又兵衛)の項には、

<此月(寛永元年正月)、小栗又兵衛信友、上総に赴き、東金の御離館、ならびに土気の茶亭構造奉行命ぜられ、この月より手斧始せしとぞ。(中略)のち台徳院殿(秀忠)、東金に御放鷹ありて、采地池田村(大網白里町池田)を過らせたまふの時、御茶屋経営の事をつとめしにより、采地ちかき金谷村(大網白里町金谷)にして山林の地をたまふ。>

とあり、小栗信友は東金御殿と土気の茶亭の「構造奉行」(改築又は増築か?)を行い、秀忠が池田に来た時、その褒美として金谷村の山林の地を賜ったといいます。

さて、日吉神社の山門から急な階段を登ると社殿があり、この左手の一段高い所に家康を祭神とする「権現大明神」(土地の人たちは「権現様」といいます)という小祠があります。この地からは広大な九十九里平野を遠望することができます。

『徳川実紀』や『当代記』には、家康がこの地を訪れたことが記載されており、この地には随所に家康伝承があります。日吉神社の階段の途中には井戸跡があり、家康が休憩された時、池田の人たちがこの井戸水で御茶を差し上げたといいます。また、社殿の脇に大きな松の老木があり、家康は鎧をこの木に掛けて休憩されたといい、後にこの木を「御茶屋松」と称されたといわれています。さらに、この茶亭の裏側が切り通しになっており、これは家康のお成りのために造成した道で、「お成り道」(御成街道)といわれ、神社の反対側から池田の集落に行くと、山林の中に「賄屋(まかんや)の井戸跡」があり、家康や家臣たちの馬に水を飲ませた井戸であるといいます。

この茶亭でくつろいだ家康は、池田の人たちの厚いもてなしに感謝し、これを仕切った池田の代官野村彦太夫に、茶亭から北方に、眼中に入る一帯の土地(金谷村)を与えたともいわれています。

この茶亭は、船橋御殿・御茶屋御殿・東金御殿と同じ寛文11年(1671)に取り壊されたといい、かっては輝かしい史跡であったと思われますが、時とともに忘れ去られようとしています。

2007年4月 9日 (月)

徳川家康の側室阿茶局が参詣した関内「水神社」

東金市関内の豊成小学校の近くに「水神社」があります。祭神は罔象女尊(みつはのめのみこと。農耕に関する水を司る女神)で、社伝によると、延長5年(927)6月にこの地方一帯が大旱魃に見舞われた時、上総介平高望が本社に参拝し、雨乞いの祈願を行い、その甲斐もあり、すぐに大雨が降ったことから、「水神社」と称し、この地方の鎮護として神殿を建立したといいます。また、文亀3年(1503)の夏にも領主酒井定隆が本社に参拝して祈雨をしたといわれています。他方、産婦の信仰も厚く、女性の参拝者も多いといいます。

慶長19年(1614)正月に家康の側室、阿茶局(あちゃのつぼね)は、家康に同行し、保養のために東金を訪れました。この阿茶局は、天正7年(1579)5月、25歳の時に家康(38歳)の側室になりました。家康が最も信頼した側室で、大坂冬の陣の時には豊臣方から来た使者たちに応接し、慶長19年10月には家康に同行して京都二条城に行き、家康の代理として大坂城に出向き、淀君に講和を勧めるなど、大役を果たしています。

家康には記録上、15名の側室がいましたが、その中で抜群の政治力の持ち主で、天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」の時には戦場に赴き、流産しています。

阿茶局は、東金に滞在中、御台所(または彼女自身)の難産育児祈願のため、この神社に参詣し、御幣を奉納しました。江戸に戻った後、無事に子供を産み、それが安産であったため、この神社の御神徳であると思い、両面の御鏡を奉納したといわれています。

2007年4月 7日 (土)

徳川家康の休憩・宿泊のために造られた「船橋御殿」考

徳川家康が初めて船橋宿(船橋市)を訪れたのは、天正19年(1591)であり、『船橋御殿御由緒写』(千葉市花見川区幕張町・中須賀武文家文書)に、

<(前略)時に天正十九辛卯年、関東入国なさしめ玉ひ、初て船橋へ成され候節、当宮(意富比神社)は関東の惣社にして、然も江府御居城御守の神社なりにより、御参宮遊ばされ、則時(そのとき)の神官富中務太輔宅を勿体なきも御旅館の御殿に遊ばされ(以下略)>

とあり、家康は意富比神社(船橋大神宮)の神官富中務大輔基重の邸宅を仮の御殿にしたという。

神官富氏の始祖は、景行天皇(12代天皇)第4皇子五百城入彦で、天皇の詔により船橋に下向し、東国88ヶ村の県主と意富比神社の神主として赴任したという。

船橋御殿について、宝永4年(1707)4月の『船橋御殿跡地裁許絵図』の裏書に、

<伊奈半左衛門(忠克。半十郎忠政の間違いか)家来遠山群大夫・根岸助太夫差遣令詮議(以下略)>

とあり、慶長17年(1612)に家康の命を受けた関東郡代伊奈忠政は、神官富氏の邸宅を「田中の地」(船橋市藤原に田中屋敷あり)に移し、家来の遠山群太夫・根岸助太夫に御殿を造営させたという。その敷地は、前書に、

<御殿地にて、一町六反五畝二十四歩除地に候>

とあり、約4800坪で、『絵図』には「御殿跡」・「囲土手、惣反歩五反四畝十歩」、「大膳分畠」、「郷御蔵」、「御立野」、「表御門」「裏御門」、「野道」という明記があるが、敷地内にどのような建物があったのかは不明である。

その後、この御殿は修理が行われたようで、『寛政重修諸家譜』の小笠原貞信(源四郎)の項に、

<(寛永)十六年(1639)六月二十日、仰を受けたまはりて船橋御殿修理の奉行をつとむ。>

とある。

この御殿に家康は、慶長19年(1614)1月に東金辺での「鷹狩り」の途中に立ち寄り、帰りにもここで休憩している。また、翌元和元年(1615)11月16日にも東金に行く途中にこの御殿で休憩し、帰路の同月25日には宿泊している。この日の『徳川実紀』には、

<大御所(家康)、東金より船橋へ至らせ給ふ。今夜、船橋市中、失火し、民居悉(ことごと)く焼失すといへども、御旅館は恙(つつが)なし。>

とあり、船橋市中で火災が発生し、民家のほとんどが焼失したが、御殿には影響がなかったという。地元には、この時、家康は何者かに鉄砲で撃たれたが、富氏が救ったという伝承がある。

この御殿には家康2回、秀忠10回、家光が大納言時代に1回の計13回、訪れていることが記録されている。

しかし、寛永7年(1630)12月以降、将軍(大御所)のお成りはなく、寛文11年(1671)4月にこの御殿の他、千葉の御茶屋御殿、東金御殿、土気の茶亭(大網白里町池田)は取り壊された。

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