無料ブログはココログ

東金市・九十九里町

2007年7月27日 (金)

Magameつれづれ<第5号>北大宮台歴史を知る会の夏の東金・九十九里・成東方面巡検

今日は、北大宮台歴史を知る会の夏の巡検に実施日。朝8時30分に集合し、バスは北大宮台を出発し、大草交差点から八街県道を通り、御殿町から「東金御成街道」へ。途中の金親町の金光院や御茶屋御殿は、本会が出来る前、やはり北大宮台の福祉ネットの「史跡ワーク」で見学したため、その先の御成街道を見ることにしました。

富田町から八街市へ。蛇田谷(へびたさく)険から馬渡(まわたし)の険へ。古道の足跡をたどりながら東金の日吉神社へ。それぞれの史跡や伝承などを説明しながら先に進みました。狭い道、そして所々でバスを止めるため、運転手さんも大変。でも、恐縮しながらバスを止めたり、ゆっくり行ってもらったりしました。

日吉台でバスを降り、トイレタイムを取った後、日吉神社の表参道へ。この参道に並ぶ杉並木に参加者は感動したようで、「千葉県にもいいところがあるのですね」とは参加者の声。この杉並木は、距離的には日光東照宮への杉並木にはかないませんが、一本一本の杉は日光の杉並木以上のもの。

日吉神社から山王坂を下り、八鶴湖へ。参加者は、勉強熱心で、質問も多い。これが本会のよいところです。東金酒井氏の菩提寺の本漸寺へ。ここでは家康お手植えの蜜柑・酒井氏の供養塔・東京菊川国民学校児童の供養塔を見て、八鶴湖の周辺を歩きながらバスが待つ最福寺前へ。梅雨が明けていないというものの、日差しが強く、汗をたらしながらの散策です。

バスは片貝県道を通り、九十九町の伊能忠敬生家跡へ。途中、参加者が体験した九十九里鉄道の話と両総用水の工事に携わった話が入り、興味をそそりました。忠敬生家跡は、記念碑だけで、建物がないのが残念です。ここから、海岸沿いに向かい、途中で真忠組の本拠の大村屋跡、高村光太郎の歌碑を見た後、昼食場所のサンライズ九十九里へ。いわし三昧を美味しく頂き、その後は買い物タイム。女性の参加者は野菜類が安いと、次々に手に入れていました。

1時40分にサンライズ九十九里を出発し、途中で真忠組の記念碑・宵待草歌碑・楠音次郎と三浦帯刀の墓をバスの中から見た後、予定にはない本須賀海岸の伊藤左千夫の歌碑へ。参加者の中に左千夫に興味を持つ方がいたためです。本須賀海岸は有料になっていることに驚きましたが、運転手さんの交渉で、通過許可。

歌碑をじっくり見た後、一路、伊藤左千夫生家跡へ。ここでは学芸員の山口さんから詳しく、ユーモアを交えた説明を受けました。さすが左千夫生家跡の学芸員だけに、よく左千夫のことを研究されています。わかりやすい説明に参加者も満足したようでした。

そして、いよいよ今回の巡検の最後の見学地、波切不動尊へ。崖っぷちに建つ本堂に驚き、爽やかな風に疲れを癒したようです。入口で記念写真を撮った後、バスに乗り、東金街道を北大宮台に向かいました。

バスも順調に進み、バス内の参加者も満足気。予定通り4時30分に北大宮台に到着し、解散しました。今回の巡検も、好評の内に無事に終えました。それにしても、参加者はよく学び、集合時刻も早く、予定以上の見学も出来ました。

2007年7月20日 (金)

Magameつれづれ<第1号>「いずみ郷土史会の東金・九十九里探索」

<Magameつれづれ>は、歴史調査や史跡探訪などの記録を掲載します。第1回目は、本日、「いずみ郷土史会」の「夏の東金・九十九里探訪」が行われ、その記録です。

9時30分、更科公民館駐車場に参加する会員7名が集合。2台の乗用車に分乗し、まず向かったのは東金市荒生の「宮沢賢治の歌碑」です。国道126号(東金街道)を進み、東金市内から「片貝県道」へ。平日であるため、車は少ない。でも、明日から子供たちは夏休み。海水浴に向かう親子ずれの車が増えることだろう。

荒生のバス停を右に入り、すぐに左手の小倉家の墓地へ。突き当たりに宮沢賢治研究の第1人者であった元広島大学教授の小倉豊文氏の墓があり、その左側に歌碑があり、<病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのり(の)に棄てば うれしからまし>という賢治絶筆の1首が刻まれています。

先に進み、九十九里町に入り、小関のある「伊能忠敬出生の地」へ。ここにはほとんどの参加者は何回か訪れており、記念写真を撮った後、海岸に向かい、小関新開のある真忠組の「楠音次郎・三浦帯刀の墓」へ。この先にある真忠組の記念碑には参加者のほとんどが来たことがあるようですが、ここは初めて。写真を撮ったり、石碑に刻まれている文字を読んだり。参加者は興味深げ。

この後、海岸線を走る県道を南下し、私の別宅「史想庵」へ。庭に植えられている槇の木4本は、この会の会長の初芝さんの家から運び、植えられたもの。木の周辺の石は、初芝さんの前のご自宅の敷石(礎石)です。木が生き生きとし、手入れも行き届いていたことに思いも一入のよう。8畳続きの一部屋で一休み。

12時近くの「サンライズ九十九里」へ。海の見えるレストランで昼食。5人がイワシ三昧、2人が魚三昧。九十九里の海を見ながら、味を楽しみました。食後、1階の売店でおみやげ買い。私を除いて参加した人は、いわし関係のものを中心に多くのおみやげを手に入れました。その後、再び別宅「史想庵」で休憩。

午後1時前にここを出て、真亀県道に入り、不動堂にある「武家屋敷」へ。この武家屋敷は、幕末の老中本多美濃守の屋敷の表門として江戸八重洲の大名小路にあったもの。山際学園の臨海校舎内にありますが、丁度、同校の中学生が宿泊に来ていたため、中には入れず。フエンス越しから見学。

この武家屋敷の中からの見学は、次回とし、菅原ガラスに立ち寄り、126号を走り、東金市小野にある「小町塚」へ。絶世の美人、小野小町の邸宅と伝えられており、小町が機織りに使用した「おさ」が埋まっているともいわれています。この地は、高台にあり、景色が実にいい。

最後の見学地、「小野塚」を見て、一路、更科公民館へ。予定の4時前に到着し、解散しました。珍しい史跡を見、ゆっくり出来たというのが参加者の感想でした。

2007年7月 2日 (月)

攘夷世直し・窮民救済を掲げた「真忠組」の騒動

幕末の文久3年(1863)12月に楠音次郎は、小関新開(九十九里町小関)の旅籠大村屋に宿泊し、佐原にいた三浦帯刀も到着し、ここに弓・鑓・鉄炮をかざし、「真忠組義士旅館」という大きな表札を掲げました。

そして、真忠組は、攘夷世直し・窮民救済を旗印に上総国山辺郡・武射郡・長柄郡・埴生郡・市原郡、下総国匝瑳郡・香取郡・海上郡辺りに「触書」を回し、仲間を集めました。

この真忠組は、行動を起こすためには資金が必要であり、組員たちは自分の居住地の富農・富商などに出向き、「借用」という形で、金銭・武器・米穀などを強要しました。

こうした手洗い真忠組の資金集めに対して、上総・下総の名主たちは、江戸勘定奉行や各地の領主に「被害届」を提出しました。このため、幕府は、該当の大名や関東取締出役に、その調査と鎮圧を命じました。

文久4年(1864)正月16日に関東取締出役と東金の板倉藩が東金御殿で軍議を開き、18日に佐倉藩勢と板倉藩勢が小関新開の大村屋を、一宮藩勢が茂原を、佐倉藩の一手が八日市場を攻め入ることが決まりました。

しかし、深夜になって、関東取締出役が小関新開に入れておいた隠密から「真忠組の組員は多数の草鞋を買い求め、明日にも出立の様子である」との急報を受けました。そこで、関東取締出役と板倉藩は、佐倉藩勢が到着していないものの、直ちに準備を開始し、17日払暁を期して攻撃することにしました。

板倉藩兵と関東取締役兵の150人は、東金御殿から松明や手提灯などを灯し、早足で小関新開に向かいました。そして、17日の朝六ッ(6時頃)に大村屋周辺を囲み、鉄炮や大砲を撃ち込みました。ふいをつかれた真忠組の30人は、応戦したのが10人足らずで、他のものは命からがら逃げ去りました。

やがて、板倉藩兵と関東取締役兵は、室内に踏み込み、中にいた真忠組の組員を余すところなく討ち取りました。討死したのは、大将の楠音次郎の他、6名で、板倉藩も一人で多数を向こうにまわして奮闘した高橋直太が落命しました。

なお、三浦帯刀は、茂原の東光院におり、一宮の加納藩兵150余兵がここに進軍し、剃金村で一戦を交え、真忠組の組員たちと共に捕らえられました。そして、3月15日に田間村(東金市田間)の御仕置場で、斬首されました。この時の斬首になったものは、三浦の他、11名で、処刑された後、首と死骸は小関新開と作田川の大橋の近くに3日間、晒されました。

2007年6月28日 (木)

「真忠組」討伐で落命した板倉藩士高橋直太

幕末の文久3年(1863)12月に楠音次郎(首領)・三浦帯刀(副首領)らの「真忠組」が九十九里浜の小関新開(九十九里町小関)の旅籠大村屋を拠点とし、攘夷世直し・窮民救済を大義名分として騒動を起こした。

この騒動のために、東金を領地としていた板倉藩は、

<此の年十二月、房総辺浮浪の徒跋扈(ばつこ)穏やかならず。依って、上総国御領分守備として、江戸邸より御物頭保高安太夫、御目付二井為之丞、吟味役内藤七三郎・河原貫吾、御徒士高橋直太、その他足軽十人余、東金出役仰せ付けられ、罷り越す。>

とあり、江戸屋敷から御物頭保高安太夫らを派遣しました。

翌4年(1864)1月に幕府軍と板倉藩軍の100余人は、この真忠組を討つために小関新開に向かい、大村屋を取り囲み、鉄砲を撃ち込みました。この事態に、真忠組の25人の内、18人が逃げ去り、残りの7人も裏手から逃げ出そうとしました。

板倉藩きっての剣術の達人である高橋直太は、先手1番として出陣し、裏手から逃げ去ろうとする真忠組の者を見付け、右手に手槍を携え、左手に差添を掲げ、一人でそれを追い掛けました。初めは5人と切り合いとなり、直太は2人を討ち取りましたが、さらに2人が加わり、果たし合いが続きました。この最中に直太の槍が折れ、脇差で戦いましたが、直太は、体の所々に創(きず)を負い、路に倒れました。この時、藩士たちが見付けて駆け寄ったため、恐れた真忠組の者たちは抜刀を投げ捨て、逃げ去りました。

創を負った直太は、藩士たちによって担ぎ出され、漁師小屋で医師などの介抱を受けましたが、その甲斐もなく、落命しました。時に31歳で、板倉藩唯一の戦死者でした。

出陣の折に詠んだ歌(句)は、

<火の神のみたまはしる鉄炮の 音すさましく敵を討つなり>

でした。

この高橋直太は、板倉藩生え抜きの武士ではなく、「板倉様にて他家より御召し抱え候人にて、剣術御師範の者」でした。

直太の遺体は、片貝村の光明寺に安置され、引き揚げて来た軍勢に護られながら、東金御殿に運ばれました。

翌18日に本漸寺で葬儀が盛大に挙行され、同寺境内に埋葬されました。戒名は「真勇院剣修祐義居士」と付けられ、幕府から白銀若干を賜り、直太の子は親の勲功として仲小姓へ召し出され、御広間勤めを仰せ付けられました。

本漸寺本堂の裏手に高橋直太の墓碑があり、

俗名 高橋直太祐之

真勇院剣修祐義居士

文久四子正月十七日死 行年三十一歳

と刻まれています。

2007年6月23日 (土)

徳川家康の警護に当たった「高橋七十騎」(その3)

高橋七十騎(上総の七十騎)を指揮していた本多正信は、元和2年(1616)6月7日に家康の後を追うように死去しました(79才)。

その子の正純(上野介)は、駿府の家康に従っていましたが、家康・正信が没した後、江戸に転じて将軍秀忠の側近となり、年寄(後の老中)に列しました。同時に高橋七十騎も配下に置きました。

秀忠の元で仕えるようになった正純は、神君家康の側近であったことを奢り、権勢を張りましたが、次第に疎まれました。元和5年(1619)10月に正純は、「家康の遺命である」として下野国(栃木県)小山藩(小山市)5万3千石から宇都宮藩15万5千石に転封しました。これにより、正純に属していた高橋七十騎も、そのほとんどが東金辺から引き上げ、正純の宇都宮領へ転居しました。七十騎の東金辺在住は、約30年でした。

この正純の宇都宮藩への破格な栄進は、大名たちから怨まれるようになり、幕閣の中で孤立していったといいます。

その後、元和8年(1622)に秀忠が日光東照宮への参拝の帰途、正純の宇都宮城に入る予定でしたが、ここを通り過ぎ、岩槻城に入りました。これは、古河藩主奥平忠昌(父は宇都宮藩主)の祖母加納殿(家康の長女)から「宇都宮城の殿舎に怪しい構造がある」などの書状が急使によって秀忠の元の届けられたことによるといいます。

この年の8月、正純は、かって小田原の大久保忠隣が味わったように、子の正勝と共に出羽由利への転封が命じられましたが、正純はこれを拒否したため、同国大沢に移され、翌寛永元年(1624)4月に佐竹義宣に召し預けられ、出羽横手に移されました。ここで15年間過ごした正純は、同14年(1637)3月10日、波乱に富んだ生涯を終えました(73才)。

この正純に属していた高橋七十騎も、正純が宇都宮領を没収されたことにより、その手を離れ、解散し、四散しました。

2007年6月22日 (金)

徳川家康の警護に当たった「高橋七十騎」(その2)

天保12年(1841)正月の『北町奉行与力給知村々明細上帳』(東金市・小倉家文書)に、

<右元和五未年(1619)より上総国古知行村々には、町奉行与力の給知に成り、此の以前、三河七十騎衆と申す知行の由、右七十騎衆は、元和五未年(1619)に下野国宇都宮領へ所替へいたし候由、右七十騎衆の訳、或人に承り候、東照宮様(家康)が三州(三河国)に御住居の節、この腹心の衆に候由、当時七十騎の子孫は、種々に相成り、百姓・町人に成る御方もあり。又、小身の武士・御直参に成る御方もこれあり(以下略)>

とあり、天保12年時点の町奉行与力の上総国の給知は、以前、高橋七十騎(上総の七十騎)に知行地であり、元和5年に七十騎は宇都宮に移ったといいます。

この七十騎に所属した人々を、前回に引き続き、見ていきます。

◆余語伊成(源三郎)=父勝久は織田信長に仕えた。伊成は家康に仕え、加茂郡高橋に300石の采地を賜り、本多重次の組に属した。天正18年に家康が関東に移ると、これに従い、東金領に采地を賜り、本多正信の組に属し、その頭になった。家康が東金に来た時、鷹狩りの途中に伊成の家に立ち寄り、子の正重、孫の重成と共に家康に拝謁した。慶長20年(1615)3月10日に没した。

◆余語正重(久兵衛、伊成の子)=母は鈴木重次(彦三郎)の娘。父の遺跡を継ぎ、父に代わって七十騎の頭になった。慶安元年(1648)7月26日に没した。

◆三宅伊綱(十大夫)=三河国において家康に仕え、本多重次に組に属し、加茂郡高橋に采地を賜った。

◆三宅伊正(次郎兵衛、伊綱の子)=家康が関東に移るとき、これに従い、東金領に采地を賜り、本多正信の組に属した。

◆三宅伊秋(勘次郎)=三河国において家康に仕え、加茂郡高橋庄に住み、本多重次の組に属した。

◆三宅広重(四郎左衛門、伊秋の子)=家康が関東に移るとき、これに従い、本多正信に属し、上総・下総両国に同列の士の1万3千石の采地を賜った。

◆本多正房(権右衛門)=三河国において家康に仕え、加茂郡高橋の内に采地を賜った。家康が関東に移るとき、これに従い、東金領に采地を賜った。その後、秀忠の娘千姫に付属し、慶長8年(1604)に千姫が豊臣秀頼に嫁ぐときに従い、元和元年(1615)5月の大阪落城のときには千姫を護り、城を出て、茶臼山の家康の元に届けた。

◆菅沼政次(一平、三五郎、正次)=三河国において家康に仕え、加茂郡高橋に采地を賜り、本多重次の組に属した。家康が関東に移るとき、これに従い、東金領に采地を賜り、本多正信の組に属し、七十騎の与頭となった。<続く>

2007年6月18日 (月)

徳川家康の警護に当たった「高橋七十騎」(その1)

大正10年(1921)の『三河挙母七州城沿革小史』に、

<寺部辺に居住の士を高橋衆といふ。又、或は高橋組と唱ふれば、高橋郷の本土は蓋し寺部辺なる事疑ふべからず。>

とあり、高橋衆(高橋組)は矢作川左岸の加茂郡寺部村(豊田市寺部町)辺に居住していたといいます。

この高橋衆は、徳川家康が三河国を統一した時代から、「高橋七十騎」ともいわれて本多重次の組を属し、家康の身辺警備に当たり、天正18年(1590)8月に家康が関東に移ると、これに従い、本多正信・正純の組に属し、東金周辺に采地を賜り、「上総の七十騎」といわれ、この地方の治安に当たりました。

そこで、この旗本集団である「高橋七十騎」(上総の七十騎)の人々について見ていきます。

◆鈴木重政(杢之助)=三河国時代に本多重次に属していた時代の「頭」で、天正12年(1584)6月の蟹江城攻めの時に火を放ち、櫓を焼いたことが家康の「御感」に触れた。天正18年(1590)に家康が関東に移った時、これに従い、東金辺に采地を賜ったが、七十騎の頭ではなかった。元和2年(1616)10月に75才で没した。

◆鈴木重利(杢之助、重政の子)=天正18年8月に家康が関東に移ると、これに従い、東金辺に采地700石余を賜った。

◆鈴木重定(九郎右衛門、重利の子)=元和元年(1615)に家康が鷹狩りのために東金に来た時、初めて家康に謁見し、父重利の願い出により家康に仕え、駿府に至り、采地150石を賜った。

◆鈴木重友(清右衛門)=天正18年に初めて家康に拝謁し、小田原の北条攻めに従い、家康が関東に移った時にも従い、七十騎の組に列し、東金領に200石の采地を賜った。慶長5年(1600)に秀忠の上田城攻めにも従ったが、その後、ゆえあって松下石見守重綱に預けられた。

◆鈴木重次(六左衛門、彦三郎)=父重政(下野守)は今川義元に仕え、寺部城主鈴木氏の旗本であったが、永禄9年(1566)に寺部城が落城すると家康に仕えた。重次も家康に仕え、本多重次の組に属し、家康が関東に移ると、これに従い、本多正信の組に属し、東金に移り住んだ。元和9年(1623)8月24日に76才で没した。<続く>

最近のトラックバック

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31