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市川市

2015年3月 1日 (日)

市川の史跡めぐり(15)正中山若宮奥之院

Photo奥之院は、もと千葉氏の家臣で、下総国八幡庄の領主の富木常忍(日常上人、胤継)の邸内の持仏堂であり、妙蓮山法華寺と称していた。

Photo_2文応元年(1260)7月に鎌倉で布教活動を展開していた日蓮は、前執権の北条時頼に『立正安国論』を上程したが、松葉ヶ谷の草庵で襲われ、逃れた先がこの若宮の富木氏の屋敷であったという。

Photo_3この富木氏の持仏堂は「法華寺」と称されるようになったのは、日蓮が入滅してから10年ほど後の永仁元年(1293)頃といい、常忍が自ら日常と改め、この法華寺の貫主となり、八幡庄真間の弘法寺(ぐぼうじ)も兼務したという。

2015年2月22日 (日)

市川の史跡めぐり(14)下総国分尼寺跡

Photo下総国分寺から北西500mのところに「下総国分尼寺跡公園」がある。

国分僧寺と同じように、天平13年(741)の聖武天皇の詔により「法華滅罪之寺」(国分尼寺の正式な名称)として創建された。

Photo_3この国分尼寺は、当時、全国で68ヶ寺を創建すべきところ、見送った国の相当あるようで、現在、この寺の「未詳」が19ヶ所に及んでいる。千葉県でも安房国が未詳になっている。

下総国分尼寺跡は、かって「昔堂(むかしどう)」と称され、国分僧寺跡と考えられていたが、昭和7年の発掘調査で、多くの瓦とともに底部に「尼寺」と墨書された土器が発見され、尼寺跡であることが確定された。

伽藍配置は、南北の直線上に講堂を北にして金堂が南にあった。昭和42年の発掘調査では、東西25.5m、南北22.4mの金堂の基壇と、東西27m、南北19mの講堂の基壇が発見され、寺域を区画する北、東、南側の溝を確認されたという。

2015年2月20日 (金)

市川の史跡めぐり(13)下総国分寺

Photo_3聖武天皇の詔によって建てられた下総国の国分寺。当時の国分寺の正式な名称は、「金光明四天王護国之寺」といい、全国に68ヶ寺(うち越前国分寺は不詳)で、仏教によって国を護ろうとした。

Photo_4昭和40~41年の発掘調査の結果、現在の本堂下から東西31.5m、南北19mの金堂や、七重塔、講堂の基壇が発見された。

Photo_5その後、平成元~5年の発掘調査で、寺院の範囲が東西約300m、南北約350mであったことが分かった。

2014年7月19日 (土)

市川の史跡めぐり(12)小笠原政信夫妻の五輪塔

Photo_5総寧寺の本堂の西側に2基の大きな五輪塔がある。

1基は、高さ4,2m、地輪の正面に「圭山瑞雲居士」、「寛永十七上章徐年孟秋(7月)二日」とあり、もう1基は、高さ3.2m、「本慶良然大姉」、「寛永十八辛巳暦卯月(4月)吉辰」と刻まれている。

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これは、江戸時代の大名で、下総関宿2万2700石の藩主、小笠原政信と、その妻(三河深溝1万5千石の板倉重昌の娘)の供養塔である。

政信は、34歳の若さで亡くなり、その妻も翌年に世を去った。政信の養子の貞信が跡を継ぎ、同年9月に美濃高須2万2700石に移封するが、父母の霊を弔うために、旧領、関宿の総寧寺に建立したが、寛文3年(1663)にこの寺が関宿から現在地に移転したとき、この五輪塔も移された。

2014年7月18日 (金)

市川の史跡めぐり(11)安国山総寧寺

Photo南北朝末期の永徳3年(1383)に近江国守護の佐々木氏頼(うじより)が通幻寂霊禅師を開山とし、同国新庄樫原郷(滋賀県近江町)に創建したのが始まりという。

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その後、天正3年(1575)に小田原の北条氏政がこの寺院を下総関宿に移したという。

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江戸時代に入り、寺のある関宿の地がたびたび水害にあったため、寛文3年(1663)に4代将軍家綱が国府台の現在地に移し、禅宗曹洞派の関東僧録司(そうろくし。宗派のすべての寺院を統括・人事をつかさどる寺院)3ヶ寺の1つに充てられ、寺領128石余を与えたという。

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その境内は、現在の里見公園や学校のある国府台一帯という、広大な敷地であった。

2014年7月17日 (木)

市川の史跡めぐり(10)夜泣き石

Photo_11里見群亡の碑の隣に「夜泣き石」がある。

永禄7年(1564)に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には、12~13歳になる美しい娘がいた。この娘は、父の戦死を聞き、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房国からこの国府台の地を訪ねてきた。

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娘は、身も心も疲れ果て、傍にあった石にもたれ、弱い、かすかな声で父の名を呼びながら泣き続け、遂に息絶えてしまった。

それから毎夜、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになった。後に一人の武士が通りかかり、哀れな娘の供養をした。これ以後、泣き声が聞こえなくなったという。

2014年7月16日 (水)

市川の史跡めぐり(9)里見群亡の碑

Photo_9永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は、8千の軍勢を率い、小田原北条氏を討つため、国府台に陣を構えた。一方、北条氏康軍は、約2万で、国府台に向かった。

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戦いは、7日に江戸川をはさんで展開され、里見氏が有利であったが、8日の払暁、北条軍が寝込みを襲い、一斉に里見軍を攻撃した。不意に襲われた里見軍は、狼狽し、士気を失い、退散せざるを得なかった。

この合戦で、敗北した里見側は、里見広次を始め、約5千の者が討死したという。

その後、文政12年(1829)に里見軍の戦死者の霊を弔うため、里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられた。

2014年7月15日 (火)

市川の史跡めぐり(8)明石古墳と石棺

Photo_6里見公園の裏山内にあり、二重土塁跡の土塁上に2基の石棺が露出している。

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文明11年(1479)に太田道灌がここに城を築いたとき、盛り土が取払われて石棺が出土したと伝えられている。

Photo_8この古墳は、6世紀後半から7世紀初頭のものと推定され、昭和57の測量で、全長36~37mの前方後円墳であることが判明した。

石棺は、箱式のもので、後円部の中央付近に位置し、ふたについては真間から国分寺へ向かう途中の平川に架かる石橋に使われたといわれている。

2014年7月14日 (月)

市川の史跡めぐり(7)羅漢の井

Photo_3里見公園の南下の台地斜面にある。

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弘法大師(空海)が東国へ布教のとき、この地を訪れ、当地の里人が飲み水に困っていたため、羅漢を祀って念仏を唱え、錫杖を突いたところ、清水が湧き出たという。

Photo_5また、戦国時代、里見氏が国府台に陣を構えたとき、飲み水として使用したともいわれている。

2014年7月13日 (日)

市原の史跡めぐり(6)紫姻草舎

Photo里見公園に入り、管理事務所の前を通り、先に進むと、左側に詩人・北原白秋の旧宅「紫姻草舎」がある。

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白秋は、大正5年5月から6月末まで、真間の亀井坊(亀井院)に住み、その後、江戸川の対岸の小岩村三谷に移り、その住居を「紫姻草舎」と名付けて文学活動に打ち込んだという。そして、大正7年2月に白秋は、小田原へ移転した。

この草舎は、昭和14年の江戸川拡張工事の際、所有者が市川市に寄贈し、現在地に移築したものである。

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