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八街市

2015年2月19日 (木)

八街市の史跡散策(28)小間子の馬神社

Photo正式には「小間子馬神社太郎坊分霊」といい、明治26年(1893)4月に馬の保護と地域住民の安泰の願いを込め、滋賀県大津市の馬神社を分霊して創建された。

祭神は素盞鳴命・少彦名神など。

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境内には野馬土手が残り、各所から追い立てられて集まった馬が、ここにとどめ、夜番をしていたことから、「夜番土手」とも称されている。

2015年2月15日 (日)

八街市の史跡散策(27)山田台稲荷神社

Photo明治10年(1877)の西南戦争のとき、元鍋島藩士の前山精一郎の長男の元次郎が海軍陸戦隊として参戦し、谷川で水を飲もうとしたところを銃撃られたが、危うく難をのがれた。

Photo_2このとき、前山家の池に白狐が落ち、溺れ死んでいたのを見た精一郎は、この狐がわが子の身代わりになってくれたと思い、その霊に報いるため、白狐の墓の傍らに祠を建て、鍋島藩の産土神である東京の烏森稲荷神社を分霊、勧請して創建した。

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境内には戦没者の慰霊碑が建てられている。

2015年2月 5日 (木)

八街市の史跡散策(26)北向き道祖神

Photo_17榎戸には古くから願をかけるとき、祠の小石を1つ借りて帰り、願いが叶ったらその石を倍にして返すという風習があった。

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この道祖神は北を向いていることから、少しつむじが曲がった神様で、願をかけたら満願の日まで参詣する姿を他人に見られてはいけないといわれた。

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かって、「かわらめきの河原」で身を清め、他へは寄らずに真っ直ぐにこの祠に来て、祈願をしたという。

2015年2月 4日 (水)

八街市の史跡散策(25)軽便鉄道跡

Photo_15大正2年(1913)9月、八街地区周辺で陸軍鉄道連隊による鉄道敷設の大演習が行なわれた。

この大演習は、八街市地域だけだはなく、四街道・千葉東北部に及ぶものであり、そのときに敷かれた線路は、四街道市ー川野辺新田(若松町)-中田ー下泉ー小間子(以上千葉市)ー根古谷ー沖ー山田台ー滝台ー四木ー六区ー大東ー二区ー朝日(以上八街市)-三里塚。

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演習後、朝日区以南は撤去され、朝日区から八街駅に至る線路を新設して大正3年(1914)5月から県営軽便鉄道八街三里塚線として生まれ変わった。

この線路は、昭和14年(1939)に廃止されるまで、客車2~3両(1両の定員は7~8名)を連結した小型の軽便鉄道で、1日4往復していた。

2015年2月 3日 (火)

八街市の史跡散策(24)伝大和守の墓

Photo_12「長しず道」を南にたどり、だらだら坂を行くと、左手に山王権現や七面大明神の祠に曲がる手前、左手にきれいに清掃された塚がある。

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この塚は、(粟飯原)大和守の墓であるといい、『佐倉風土記』に、

<大和守は根古谷城主三河守の子で、天正十八年、千葉氏滅亡の時、敗れて城を出て、村民の家に寓して終わる。>

とあり、この大和守が三河守の子、あるいは山本光智の大和守という。

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現在、この塚は、同区の富谷文夫氏が先祖代々、その墓守りを続けている。

冨谷氏の先祖が大和守を助け、死後、密かにここに葬ったともいわれている。

2015年2月 2日 (月)

八街市の史跡散策(23)山王権現と七面大明神

Photo_7西御門の手前を左折し、八街市と佐倉市の境を南北に走る「長しず道」を約100mほど進むと、左手に入る道があり、その道をしばらく進むと左手に山王権現への参道がある。

Photo_8この辺りは「掘ノ内」といい、参道の先に祠がある。祭神は大己貴(おおなむち)命で、国内平定、農耕、医療の神である。

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この先に進むと、数軒の人家があり、右手に七面大明神の祠がある。この辺りを馬場前といい、根古谷城の一角となる。


七面大明神は、法宣寺の守り神であるという。

2015年2月 1日 (日)

八街市の史跡散策(22)長しず道

Photo_3用草から西御門(佐倉市)に向かう農免道路の西御門の手前を左折する南北の道。

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この道は、八街市と佐倉市との境で、幅約5m、両側に幅約3.5mの土塁がある直線道で、やがて千葉市若葉区小間子町に至る。

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この道の両側には大小の木々が立ち並び、道に沿って山王宮・塩古殿の墓、その奥に七面大明神がある。

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車がやっと1台、通ることができるほどの道で、この一帯は根古谷城の三の丸に当たるという。

人家は見当たらず、古道の面影を残す道である。

2015年1月31日 (土)

八街市の史跡散策(21)綿貫右馬之助の墓

Photo陣場の綿貫家の墓地には「綿貫右馬之助の墓」(高さ157cm)がある。

天正11年(1583)に小田原の北条氏康の子、氏政は、千葉介邦胤に命じて初めて馬牧の管理と野馬の育成のために「牧士の制」を設けた。このときに任命された「牧士」は、邦胤の重臣である、青柳四郎右衛門、明谷四郎左衛門、宮沢兵部の3名であった。

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この牧士の中で、明谷四郎左衛門が慶長19年(1614)に亡くなり、跡継ぎがこの役を辞退したため、文違村の綿貫右馬之助が、八街地区では初めてその役に付き、その最後の牧士でもあったという。

右馬之助の墓碑は、明治23年(1890)12月に綿貫右馬之進が建立したものである。

2015年1月30日 (金)

八街市の史跡散策(20)柳沢牧野馬土手

Photo_10交進小学校の西側に連なる土手は、江戸時代の柳沢牧の一部で、勢田方面にあった野馬捕込(ほっこめ)に野馬を追い込むために造られた「勢子土手」である。

Photo_11土手の規模は、現状で、長さ219m、幅約8m、高さ約2.5m。築造時期は不明であるが、柳沢牧の運営が始まったのが寛文2年(1662)であることから、この頃に造られたものと思われる。

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各地で野馬土手が消滅していく中で、この土手は比較的原形を留め、貴重な野馬土手の一つである。

2015年1月29日 (木)

八街市の史跡散策(19)飛行場跡と陸軍司令部偵察隊の碑

Photo_7朝日地区に昭和16年(1941)4月から同20年(1945)8月までの4年5ヶ月、下志津飛行学校八街分教場、通称八街飛行場があり、その広さは335ヘクタールという広大な平原であった。

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その一角に「陸軍司令部偵察隊の碑」が建っている。

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昭和60年(1985)5月に元八街飛行場の偵察隊に関係のある人々によって建立されたものである。

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