徳川家康の側室の於都摩の方は、甲斐の武田一族である秋山越前守虎康の娘で、穴山信君(梅雪)の養女となり、家康の側に上がりました(養父信君が甲斐国下山郷を領していたことから「下山殿」、「秋山夫人」ともいう)。家康の側室の中で最も家門がよかったといわれます。
於都摩の出目の秋山氏は、甲州の名門で、この祖は新羅三郎義光より出ており、義光5世の孫光朝が秋山太郎と号したのが、秋山家の始祖で、子孫は武田信玄に仕えました。
松戸市・本土寺の奥まったところに「秋山夫人の墓」があり、その説明板には、
<秋山夫人は甲斐の武田一族である秋山虎康の娘で、十五歳で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または下山の局と称され、家康の第五子万千代君を生んだ。万千代君は後に武田信吉を名のり天正十八年(1590)に小金城三万石に封ぜられた。
秋山夫人はその翌十九年十月六日、小金で病死した。
現在の墓石は信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)に建立したものである。>
と記され、秋山夫人(於都摩)は子の信吉が小金3万石に封じられたとき、子と共に小金に移り、本土寺の近くで住み、ここで亡くなった(法名は妙真院又は長慶院)といいます。信吉を産んだときが17歳であり、亡くなったのは24歳という若さでした。なお、於都摩の父・秋山虎康も松戸に移り住みました。墓石には、
<妙真院日上秋山夫人之墓>
と刻まれています。
秋山夫人の遺骸は、本土寺の門前に葬られ、その墓の上に松が植えられたことから、「日上松」と称されていました。
武田の名跡を絶えるのを惜しんだ家康は、万千代に武田氏を継がせ、信吉と名乗らせ、天正18年(1590)にわずか8歳で小金に3万石を与えました。その後、信吉は、文禄元年(1592)3月に佐倉10万石に、慶長7年(1602)11月28日の20歳のときに常陸水戸25万石に封じられています。
慶長8年(1603)9月11日に信吉は21歳で亡くなり、子がいなかったため、武田家は廃絶になりました。信吉の墓は、水戸の心光寺でしたが、延宝5年(1677)11月に水戸光圀は久慈郡瑞龍山に改葬しました。
貞享元年に水戸光圀は、本土寺の於都摩の墓を参拝に訪れましたが、信吉の死後、嗣子がいないため荒れていたため、本土寺境内に改修して位牌を納め、石碑を建て、寺に20石を寄進し、命日にはお経を上げるよう頼んだといわれています。
4月4日、北大宮台歴史を知る会の松戸方面巡検。朝8時に貸切バスで北大宮台を出発し、大宮インターから京葉道路を通り、原木インターで降り、松戸市内へ。いつも混む千葉東金道路から京葉道路への合流地点。どうしたことか、スイスイと抜ける。こんなことはめったにないこと。幕張のサービスエリアで休憩。建物の立派さに驚く。これも今話題の道路財源からか?お金を掛けすぎである。役人は、もっともっと庶民の心を知るべし!まさに「こんなものいらない」である。
さて、10分程度の休憩の後、バスが出発。今日の参加者は24名。この北大宮台歴史を知る会の会員が35名。巡検の参加者はいつもこの程度。
原木インターで降り、松戸市内へ。市内に入ると、至る所で満開の桜を見る。そして、本土寺へ。参道の桜並木の素晴らしさに感激。この寺は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治3年(1277)に日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、領内の地蔵堂を移して法華堂として開堂し、日蓮上人により「長谷山本土寺」と寺号を授かったのが始まりとされている。境内の桜も今が満開で、その美しさに見取れる。
ここから歩いて大谷口歴史公園へ。中世城郭として東葛飾地域では最大規模(約49ヘクタール)を誇った千葉氏の家臣、高城氏の居城跡。天文6年(1537)に完成し、人々から「開花城」ともいわれていたが、天正18年(1537)に落城したという。「障子堀」と「畝堀」の珍しい構造があった。この城の全てが残っていたら・・・・・との思いを持ちながら、戸定邸へ。徳川昭武の別邸で、明治17年(1884)に建設されたという。会員は、大名下屋敷の建築様式を説明を受けながら、見て回る。私は、何回か来ているので、歴史館へ。今、NHK大河ドラマの「篤姫」の天障院の写真などが展示されている。一人で数々の展示物をじっくりと。
近くの老舗の割烹「富吉」で昼食を美味しく頂いた後、「野菊の墓文学碑」のある西蓮寺へ。入口にある「野菊苑」では花吹雪の歓迎を受け、江戸川と葛飾区柴又を一望し、歩道橋を渡って西蓮寺境内の一角へ。政夫が民子を待ち続けた場所。そして、政夫は「民子さんはどう見ても野菊の花だ」、民子は「政夫さんはりんどうのようだ」と。伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台である。
ここから会員たちの要望で、歩いて矢切の渡しに向かうことにする。まさに田園地帯を思い思いに江戸川沿いへ。川で釣りをしている人に、会員の一人が大声で、「何が釣れますか?」と尋ねると、小指が出されたのには大笑い。
さて、江戸時代初期からの農民の足であったという矢切の渡しに。定員が30名というが、満席である。10分足らずで、柴又へ。目的は帝釈天(題経寺)。寛永6年(1629)の日忠上人が創建したというが、映画「寅さん」の方が有名である。「彫刻の寺」ともいわれ、300円を払って「十二支」や「法華経説話」の彫刻を鑑賞。大正・昭和初期のものであるとのことであるが、実に見応えがある。その後、大庭園を回り、途中でお茶を頂く。会員の多くは、参道のお店へ。買い物である。多くの人が草団子と煎餅、漬け物を抱えている。中には片手で持ちきれず、両手に。千葉のお母さんたちは「買い物が好き」というのが評判で、この会の目的は、歴史探訪であるが、お土産屋さんを入れておかないと、不満をいう人も。
集合時刻の5分前に全員がバスに乗車。いつもそうであるが、この会での巡検で、集合時刻に遅れた人はいない。生徒を連れての修学旅行とは雲泥の差。主宰者としては実に楽である。
そして、帰りは市川インターから京葉道路に乗り、千葉東金道路の大宮インターで降り、北大宮台へ。到着予定が5時20分。この時刻ピッタリに到着。何と計算したようである。
天気に恵まれ、どこへ行っても満開の桜が見られ、由緒ある史跡を探訪し、お昼は松戸宿の割烹で美味しい食事を取り、お土産も手に入れ、満足しきった様子で「春の巡検」を終えました。
4月4日に行う「北大宮台歴史を知る会」の春の松戸方面巡検の下見に運営委員5人で行って来ました。8時に自宅前を出発し、大宮インターから京葉道路へ。インターを入った途端、大渋滞に巻き込まれ、30分経っても右に大宮町の安楽寺が見え、50分後にやっと穴川インターを抜けました。当日は、貝塚インターか、その先の穴川インターから入るようにすることにしました。
京葉道路の原木インターで降り、松戸の「本土寺」へ。予定を1時間オーバーして本土寺に到着。特に紫陽花が有名で、「あじさい寺」ともいわれ、もとは源氏の名門、平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治3年(1277)の日蓮上人の弟子、日朗を導師として招き、領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮上人から「長谷山本土寺」の寺号を授かったのが始まりといわれています。
ここから「大谷口歴史公園」へ。天文6年(1537)に完成した高城氏の居城で、「開花城」とも称されていました。天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原・北条氏を攻めたとき、家臣浅野長政らに攻められて開城し、その後、徳川家康の5男、武田信吉が居城としましたが、文禄2年(1593)に廃城になったといいます。
公園の駐車場を探しに周辺を廻るが、結局、見当たらず。このため、当日は、本土寺でバスを降り、約1時間、境内を散策した後、歩いて歴史公園に行くことにしました。
巡検の昼食場所を探すのが下見の一つの目的。松戸観光協会へ。「松戸市観光地図」を頂くことと、昼食場所を紹介して貰うこと。紹介して頂いた老舗の料亭、富吉へ。交渉の結果、ここを昼食場所にしました。ここでの昼食がどんなものかと、食事を取りました。味が良く、おいしく頂き、ここにしたのが正解でした。
次ぎに「戸定邸」へ。徳川15代将軍慶喜の弟、昭武の別邸で、大名の下屋敷の建築様式を踏まえて作られたものです。当日は、ボランティアの方から説明を受けることにしました。
ここから下矢切へ。まず西蓮寺のある「野菊の墓文学碑」を訪れました。30年くらい前に来たことがありますが、当時とは随分、様子が変わっていました。「野菊苑」から見た東京方面は絶景です。そして、江戸川沿いへ。当日はここから「矢切の渡し」で柴又に渡り、帝釈天に行く予定です。
今日の下見は、江戸川沿いまでで終わりにしました。暖かく、さわやかな中での下見。道筋を知ったり、予約をしたりし、4時30分に北大宮台に帰りました。出だしは1時間弱、渋滞に巻き込まれましたが、その後はスムーズに進み、予定したことも消化し、晴れ晴れとした気分で下見を終えました。
江戸時代、小金は、水戸街道の重要な宿場で、水戸藩の本陣も置かれていた。この本陣は、高城氏の家臣・日暮玄蕃の子孫が代々経営に当たり、別名「小金御殿」とも称されていた。
小金宿の中心に浄土宗東漸寺があり、文明13年(1481)に芝増上寺の経誉愚底を開山とし、根木内村(松戸市根木内)に創建された。のちの天文6年(1537)に小金城主高城胤吉は、根木内城が手狭になったため、本城を小金に移し、本寺も高城氏の援助により現在地に移転した。
高城氏は、千葉氏の氏族、原氏の一族で、寛正から文明(1460~87)にかけて東葛飾地域一帯を手中におさめ、栗ヶ沢から根木内へ、さらに小金へと城を移した。この小金城は、享禄3年(1530)に築城工事を開始し、7年の歳月をかけ、天文6年(1537)に完成した。その面積は40haにも及び、周辺部に深い堀と土塁が築かれた。
小金城は、見事な城であったことから、人々は「開花城」とも呼び、天正18年(1590)5月5日に浅野長政らによって落城するまで、高城氏3代、57年間にわたって栄えた。
その後、家康の5男・武田信吉(母は家康の側室下山殿、本名お都摩といい、甲斐武田氏の旧臣・秋山虎康の娘で、信玄の姉の孫であったことから、武田姓を継いだ)が入城(3万石)したが、文禄元年(1592)に佐倉に転封となり、廃城となった。
東漸寺は、城郭を模して造営され、城主高城胤吉の3男・胤知が入山し、天正18年に7世山王照誉了学となった。のちに了学は、母が増上寺大僧正貞誉了也の出身の大八木氏であったことから、駿府城の家康に招かれ、授戒師になった。また、寛永8年(1631)に2代将軍秀忠が病気になったとき、了学は病気平癒を再三にわたって依頼され、翌9年(1632)には秀忠に命によって増上寺第17世山王となり、秀忠の葬儀大導師も勤めた。
山門を入り、幅20m余の参道を進むと、文化元年(1804)に再建された楼門(中門)があり、2階に釈迦如来座像、薬師如来立像、不動明王座像が安置されている。
この先の四足門をくぐると、享保7年(1722)7月に再建された本堂があり、この前に市指定天然記念物の枝垂れ桜の大木や、亀の松、鶴の松がある。
享保7年(1722)の『東漸寺境内図』には、本堂・神殿(東照宮)・厨舎・経蔵・内仏間・開山堂・鐘楼・正定院・浄嘉院・総門・山門・中雀門・結頭寮・学頭寮・真教療・大伽藍などが配されいる。
また、文政3年(1820)8月の『東漸寺史』には、
東照宮神殿 一基
神影一躰 往古以来自分安置す。第四〇主勵誉代、新に修補す。神供献具皆悉く弁備す。
と記されている。
明治元年(1868)3月の『神仏分離令』により、東照宮の神殿は取り壊され、本堂に安置された。現在、本堂の左側一角に「東照宮」と記された額の下に家康を祀った、葵紋入りの神殿がある。
慶長19年(1614)1月に徳川家康は、鷹狩りで小間子野(八街市)から海上郡(銚子市・旭市・海上町・飯岡町)に行った時、小金村(松戸市)の牧士・夏右衛門政長を呼び出しました。
この夏右衛門政長の父は、千葉介昌胤(千葉介勝胤の子)で、山梨城主(四街道市)であり、のちに「月見星(やまなし)」と名乗ったといいます。この昌胤について、『千葉大系図』には、
<千葉介。明応四年乙卯(1495)五月十日誕生。天文二年(1533)、家督を相続。天文六年(1537)、源(足利)義明、小弓城に在り、逆威を振う。北条氏綱・氏康は謀うに、之を討つを欲す。十月、義明子弟及び里見右馬頭義弘ら、国府台(市川市)に出張し、大戦す(第1次国府台合戦)。義明、敗れ、軍、悉く討死し、義弘、逃げ退く。昌胤、原上総介胤定を小弓城に居さしめる。同十五年丙午(1546)正月二十四日卒。五十二歳。>
とあり、この昌胤の子には、利胤(千葉介)、胤家(原四郎。後、豊前守。原豊前守胤吉の養子となる)、胤盛(海上九郎。後、山城守。海上山城守の養子となる)がいます。
また、『千葉実録』には、永正2年(1505)に千葉介昌胤が元服する時、「山梨主税介」という者が太刀を捧げて佐倉から妙見宮(千葉神社)まで随行したといいます。
ところで、家康に呼び出された夏右衛門は、初めて家康に謁見しますが、この時、夏右衛門は、袷(あわせ)を着る時期でしたが、貧しかったため、綿入れの綿を抜いた服装で出向きました。この服装に気付いた家康は、夏右衛門政長にこれから「綿貫」と名乗るように命じたといいます。
また、家康は、狩場に出向いた夏右衛門政長に牧場の経営について尋ねました。この時、政長は、以前、家康が言った「商いの事」を思い出し、「ただ飼育すべきではなく、よく国用にあて駆使すべきである」と答えました。この政長の回答に感心した家康は、政長を「野馬奉行」に任じたといわれます。
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