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松戸市

2008年11月23日 (日)

松戸市内散策(4)千駄堀民芸資料館「元禄まつど村」

Photo_7 千駄堀民芸資料館は、中館金一郎氏が自社の倉庫を改良し、平成11年に開設したといいます。お勤めの関係で、日曜日しか開館していません。

館内には江戸時代から昭和に至る農具や小民具などが所狭しと展示されています。中でも、有名人の似顔絵や漫画のキャラクターをユーモラスに描いた「かぼちや」は、一見に値します。

Photo_8 館長の中館氏は、「かぼちゃアーテイスト」として知られ、県内外の同好会の人々と交流を深めています。

見学した時には中館氏が「かぼちや」細工を制作中でした。

むかしのよき時代を思い出しながら、じっくりと参観させて頂きました。

2008年11月22日 (土)

松戸市内散策(3)安蒜家長屋門

Photo_6 松戸の「21世紀の森と広場」の南口近くに「安蒜家長屋門」があります。案内の柱には、

<(長屋門は)農村でも村役人など特定の農民に建築が許された。この門は棟札から天保11年(1840)に建築された。>

とあり、下総地方西部の長屋門では最も古いものの一つであるといいます。

この安蒜家は、江戸時代、小金牧の牧士を勤めてた家柄で、主家は天明3年(1783)の建築で、松戸市内の民家遺構の中では最も古い建物で、規模も大きいということです。

それにしても、実にがっちりした長屋門で、迫力すら感じられます。

2008年11月21日 (金)

松戸市内散策(2)市立博物館と千駄堀池

Photo_3 今日は、松戸市立博物館で「勉強会」。開始時刻よりもかなり早く着いたため、市立博物館周辺の散策しました。

Photo_4 博物館の裏手より、「千駄堀池」へ。『千葉県の地名』によると、

<江戸川の沖積低地が北西方の馬橋方面からの台地を囲むように左右に深く湾入、谷奥には豊富な湧水があり、坂川支流長津川の最上流をなしている。>

とあり、いわゆる広く、深い谷津地帯です。実によく整備され、千駄堀池の周りには花壇・パークセンター・自然観察舎の他、自然生態園・野草園・みどりの里・つどいの広場・光と風の広場などがあります。

隅々までよく管理され、ゆつくりと寛げる場所でした。

2008年11月20日 (木)

松戸市内散策(1)さくら通りと金ヶ作陣屋跡

Photo JR武蔵野線の新八柱駅から「さくら通り」へ。通りの名に相応しく、道の両側には桜並木が。開花の時期には見応えがありそう。

Photo_2 途中で、「金ヶ作陣屋跡」があり、柱には、

<かって東葛地方には、使役や軍役に用いる馬を確保するために小金牧という大規模な放牧場がありました。金ヶ作陣屋は、牧の管理を司る在地の役所でした。>

との説明が書かれていました。

この陣屋跡には現在、柏葉台ハイツが建っています。

2008年8月 9日 (土)

徳川家康側室下山殿の墓を訪ねて

Photo 徳川家康の側室の於都摩の方は、甲斐の武田一族である秋山越前守虎康の娘で、穴山信君(梅雪)の養女となり、家康の側に上がりました(養父信君が甲斐国下山郷を領していたことから「下山殿」、「秋山夫人」ともいう)。家康の側室の中で最も家門がよかったといわれます。

於都摩の出目の秋山氏は、甲州の名門で、この祖は新羅三郎義光より出ており、義光5世の孫光朝が秋山太郎と号したのが、秋山家の始祖で、子孫は武田信玄に仕えました。

松戸市・本土寺の奥まったところに「秋山夫人の墓」があり、その説明板には、

<秋山夫人は甲斐の武田一族である秋山虎康の娘で、十五歳で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または下山の局と称され、家康の第五子万千代君を生んだ。万千代君は後に武田信吉を名のり天正十八年(1590)に小金城三万石に封ぜられた。

秋山夫人はその翌十九年十月六日、小金で病死した。

現在の墓石は信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)に建立したものである。>

と記され、秋山夫人(於都摩)は子の信吉が小金3万石に封じられたとき、子と共に小金に移り、本土寺の近くで住み、ここで亡くなった(法名は妙真院又は長慶院)といいます。信吉を産んだときが17歳であり、亡くなったのは24歳という若さでした。なお、於都摩の父・秋山虎康も松戸に移り住みました。墓石には、

<妙真院日上秋山夫人之墓>

と刻まれています。

秋山夫人の遺骸は、本土寺の門前に葬られ、その墓の上に松が植えられたことから、「日上松」と称されていました。

武田の名跡を絶えるのを惜しんだ家康は、万千代に武田氏を継がせ、信吉と名乗らせ、天正18年(1590)にわずか8歳で小金に3万石を与えました。その後、信吉は、文禄元年(1592)3月に佐倉10万石に、慶長7年(1602)11月28日の20歳のときに常陸水戸25万石に封じられています。

Photo_2 慶長8年(1603)9月11日に信吉は21歳で亡くなり、子がいなかったため、武田家は廃絶になりました。信吉の墓は、水戸の心光寺でしたが、延宝5年(1677)11月に水戸光圀は久慈郡瑞龍山に改葬しました。

貞享元年に水戸光圀は、本土寺の於都摩の墓を参拝に訪れましたが、信吉の死後、嗣子がいないため荒れていたため、本土寺境内に改修して位牌を納め、石碑を建て、寺に20石を寄進し、命日にはお経を上げるよう頼んだといわれています。

2008年4月 8日 (火)

Magameつれづれ<第28号>北大宮台歴史を知る会の松戸巡検記録

4月4日、北大宮台歴史を知る会の松戸方面巡検。朝8時に貸切バスで北大宮台を出発し、大宮インターから京葉道路を通り、原木インターで降り、松戸市内へ。いつも混む千葉東金道路から京葉道路への合流地点。どうしたことか、スイスイと抜ける。こんなことはめったにないこと。幕張のサービスエリアで休憩。建物の立派さに驚く。これも今話題の道路財源からか?お金を掛けすぎである。役人は、もっともっと庶民の心を知るべし!まさに「こんなものいらない」である。

さて、10分程度の休憩の後、バスが出発。今日の参加者は24名。この北大宮台歴史を知る会の会員が35名。巡検の参加者はいつもこの程度。

原木インターで降り、松戸市内へ。市内に入ると、至る所で満開の桜を見る。そして、本土寺へ。参道の桜並木の素晴らしさに感激。この寺は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治3年(1277)に日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、領内の地蔵堂を移して法華堂として開堂し、日蓮上人により「長谷山本土寺」と寺号を授かったのが始まりとされている。境内の桜も今が満開で、その美しさに見取れる。

ここから歩いて大谷口歴史公園へ。中世城郭として東葛飾地域では最大規模(約49ヘクタール)を誇った千葉氏の家臣、高城氏の居城跡。天文6年(1537)に完成し、人々から「開花城」ともいわれていたが、天正18年(1537)に落城したという。「障子堀」と「畝堀」の珍しい構造があった。この城の全てが残っていたら・・・・・との思いを持ちながら、戸定邸へ。徳川昭武の別邸で、明治17年(1884)に建設されたという。会員は、大名下屋敷の建築様式を説明を受けながら、見て回る。私は、何回か来ているので、歴史館へ。今、NHK大河ドラマの「篤姫」の天障院の写真などが展示されている。一人で数々の展示物をじっくりと。

近くの老舗の割烹「富吉」で昼食を美味しく頂いた後、「野菊の墓文学碑」のある西蓮寺へ。入口にある「野菊苑」では花吹雪の歓迎を受け、江戸川と葛飾区柴又を一望し、歩道橋を渡って西蓮寺境内の一角へ。政夫が民子を待ち続けた場所。そして、政夫は「民子さんはどう見ても野菊の花だ」、民子は「政夫さんはりんどうのようだ」と。伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台である。

ここから会員たちの要望で、歩いて矢切の渡しに向かうことにする。まさに田園地帯を思い思いに江戸川沿いへ。川で釣りをしている人に、会員の一人が大声で、「何が釣れますか?」と尋ねると、小指が出されたのには大笑い。

さて、江戸時代初期からの農民の足であったという矢切の渡しに。定員が30名というが、満席である。10分足らずで、柴又へ。目的は帝釈天(題経寺)。寛永6年(1629)の日忠上人が創建したというが、映画「寅さん」の方が有名である。「彫刻の寺」ともいわれ、300円を払って「十二支」や「法華経説話」の彫刻を鑑賞。大正・昭和初期のものであるとのことであるが、実に見応えがある。その後、大庭園を回り、途中でお茶を頂く。会員の多くは、参道のお店へ。買い物である。多くの人が草団子と煎餅、漬け物を抱えている。中には片手で持ちきれず、両手に。千葉のお母さんたちは「買い物が好き」というのが評判で、この会の目的は、歴史探訪であるが、お土産屋さんを入れておかないと、不満をいう人も。

集合時刻の5分前に全員がバスに乗車。いつもそうであるが、この会での巡検で、集合時刻に遅れた人はいない。生徒を連れての修学旅行とは雲泥の差。主宰者としては実に楽である。

そして、帰りは市川インターから京葉道路に乗り、千葉東金道路の大宮インターで降り、北大宮台へ。到着予定が5時20分。この時刻ピッタリに到着。何と計算したようである。

天気に恵まれ、どこへ行っても満開の桜が見られ、由緒ある史跡を探訪し、お昼は松戸宿の割烹で美味しい食事を取り、お土産も手に入れ、満足しきった様子で「春の巡検」を終えました。

2008年2月28日 (木)

「北大宮台歴史を知る会」松戸方面巡検の下見

4月4日に行う「北大宮台歴史を知る会」の春の松戸方面巡検の下見に運営委員5人で行って来ました。8時に自宅前を出発し、大宮インターから京葉道路へ。インターを入った途端、大渋滞に巻き込まれ、30分経っても右に大宮町の安楽寺が見え、50分後にやっと穴川インターを抜けました。当日は、貝塚インターか、その先の穴川インターから入るようにすることにしました。

京葉道路の原木インターで降り、松戸の「本土寺」へ。予定を1時間オーバーして本土寺に到着。特に紫陽花が有名で、「あじさい寺」ともいわれ、もとは源氏の名門、平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治3年(1277)の日蓮上人の弟子、日朗を導師として招き、領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮上人から「長谷山本土寺」の寺号を授かったのが始まりといわれています。

ここから「大谷口歴史公園」へ。天文6年(1537)に完成した高城氏の居城で、「開花城」とも称されていました。天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原・北条氏を攻めたとき、家臣浅野長政らに攻められて開城し、その後、徳川家康の5男、武田信吉が居城としましたが、文禄2年(1593)に廃城になったといいます。

公園の駐車場を探しに周辺を廻るが、結局、見当たらず。このため、当日は、本土寺でバスを降り、約1時間、境内を散策した後、歩いて歴史公園に行くことにしました。

巡検の昼食場所を探すのが下見の一つの目的。松戸観光協会へ。「松戸市観光地図」を頂くことと、昼食場所を紹介して貰うこと。紹介して頂いた老舗の料亭、富吉へ。交渉の結果、ここを昼食場所にしました。ここでの昼食がどんなものかと、食事を取りました。味が良く、おいしく頂き、ここにしたのが正解でした。

次ぎに「戸定邸」へ。徳川15代将軍慶喜の弟、昭武の別邸で、大名の下屋敷の建築様式を踏まえて作られたものです。当日は、ボランティアの方から説明を受けることにしました。

ここから下矢切へ。まず西蓮寺のある「野菊の墓文学碑」を訪れました。30年くらい前に来たことがありますが、当時とは随分、様子が変わっていました。「野菊苑」から見た東京方面は絶景です。そして、江戸川沿いへ。当日はここから「矢切の渡し」で柴又に渡り、帝釈天に行く予定です。

今日の下見は、江戸川沿いまでで終わりにしました。暖かく、さわやかな中での下見。道筋を知ったり、予約をしたりし、4時30分に北大宮台に帰りました。出だしは1時間弱、渋滞に巻き込まれましたが、その後はスムーズに進み、予定したことも消化し、晴れ晴れとした気分で下見を終えました。

2007年10月23日 (火)

松戸・東漸寺東照宮(小金)

江戸時代、小金は、水戸街道の重要な宿場で、水戸藩の本陣も置かれていた。この本陣は、高城氏の家臣・日暮玄蕃の子孫が代々経営に当たり、別名「小金御殿」とも称されていた。

小金宿の中心に浄土宗東漸寺があり、文明13年(1481)に芝増上寺の経誉愚底を開山とし、根木内村(松戸市根木内)に創建された。のちの天文6年(1537)に小金城主高城胤吉は、根木内城が手狭になったため、本城を小金に移し、本寺も高城氏の援助により現在地に移転した。

高城氏は、千葉氏の氏族、原氏の一族で、寛正から文明(1460~87)にかけて東葛飾地域一帯を手中におさめ、栗ヶ沢から根木内へ、さらに小金へと城を移した。この小金城は、享禄3年(1530)に築城工事を開始し、7年の歳月をかけ、天文6年(1537)に完成した。その面積は40haにも及び、周辺部に深い堀と土塁が築かれた。

小金城は、見事な城であったことから、人々は「開花城」とも呼び、天正18年(1590)5月5日に浅野長政らによって落城するまで、高城氏3代、57年間にわたって栄えた。

その後、家康の5男・武田信吉(母は家康の側室下山殿、本名お都摩といい、甲斐武田氏の旧臣・秋山虎康の娘で、信玄の姉の孫であったことから、武田姓を継いだ)が入城(3万石)したが、文禄元年(1592)に佐倉に転封となり、廃城となった。

東漸寺は、城郭を模して造営され、城主高城胤吉の3男・胤知が入山し、天正18年に7世山王照誉了学となった。のちに了学は、母が増上寺大僧正貞誉了也の出身の大八木氏であったことから、駿府城の家康に招かれ、授戒師になった。また、寛永8年(1631)に2代将軍秀忠が病気になったとき、了学は病気平癒を再三にわたって依頼され、翌9年(1632)には秀忠に命によって増上寺第17世山王となり、秀忠の葬儀大導師も勤めた。

山門を入り、幅20m余の参道を進むと、文化元年(1804)に再建された楼門(中門)があり、2階に釈迦如来座像、薬師如来立像、不動明王座像が安置されている。

この先の四足門をくぐると、享保7年(1722)7月に再建された本堂があり、この前に市指定天然記念物の枝垂れ桜の大木や、亀の松、鶴の松がある。

享保7年(1722)の『東漸寺境内図』には、本堂・神殿(東照宮)・厨舎・経蔵・内仏間・開山堂・鐘楼・正定院・浄嘉院・総門・山門・中雀門・結頭寮・学頭寮・真教療・大伽藍などが配されいる。

また、文政3年(1820)8月の『東漸寺史』には、

  東照宮神殿 一基

  神影一躰  往古以来自分安置す。第四〇主勵誉代、新に修補す。神供献具皆悉く弁備す。

と記されている。

明治元年(1868)3月の『神仏分離令』により、東照宮の神殿は取り壊され、本堂に安置された。現在、本堂の左側一角に「東照宮」と記された額の下に家康を祀った、葵紋入りの神殿がある。

2007年7月 9日 (月)

徳川家康、綿貫夏右衛門を「野馬奉行」に任ずる

慶長19年(1614)1月に徳川家康は、鷹狩りで小間子野(八街市)から海上郡(銚子市・旭市・海上町・飯岡町)に行った時、小金村(松戸市)の牧士・夏右衛門政長を呼び出しました。

この夏右衛門政長の父は、千葉介昌胤(千葉介勝胤の子)で、山梨城主(四街道市)であり、のちに「月見星(やまなし)」と名乗ったといいます。この昌胤について、『千葉大系図』には、

<千葉介。明応四年乙卯(1495)五月十日誕生。天文二年(1533)、家督を相続。天文六年(1537)、源(足利)義明、小弓城に在り、逆威を振う。北条氏綱・氏康は謀うに、之を討つを欲す。十月、義明子弟及び里見右馬頭義弘ら、国府台(市川市)に出張し、大戦す(第1次国府台合戦)。義明、敗れ、軍、悉く討死し、義弘、逃げ退く。昌胤、原上総介胤定を小弓城に居さしめる。同十五年丙午(1546)正月二十四日卒。五十二歳。>

とあり、この昌胤の子には、利胤(千葉介)、胤家(原四郎。後、豊前守。原豊前守胤吉の養子となる)、胤盛(海上九郎。後、山城守。海上山城守の養子となる)がいます。

また、『千葉実録』には、永正2年(1505)に千葉介昌胤が元服する時、「山梨主税介」という者が太刀を捧げて佐倉から妙見宮(千葉神社)まで随行したといいます。

ところで、家康に呼び出された夏右衛門は、初めて家康に謁見しますが、この時、夏右衛門は、袷(あわせ)を着る時期でしたが、貧しかったため、綿入れの綿を抜いた服装で出向きました。この服装に気付いた家康は、夏右衛門政長にこれから「綿貫」と名乗るように命じたといいます。

また、家康は、狩場に出向いた夏右衛門政長に牧場の経営について尋ねました。この時、政長は、以前、家康が言った「商いの事」を思い出し、「ただ飼育すべきではなく、よく国用にあて駆使すべきである」と答えました。この政長の回答に感心した家康は、政長を「野馬奉行」に任じたといわれます。

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