本佐倉城趾を訪ねて
12日に「幕張地元学」の人たちと貸切バスで本佐倉城趾・成田山・宗吾霊堂を訪ねました。
9時前に幕張駅近くの集合場所を出発し、東関道を通り、酒々井町へ。上本佐倉交差点から旧成田街道に入り、山道バス停の所から古道に入ったものの、ここからはバスが通れず。運転者さんが酒々井小学校の脇から行こうとしたが、ここもバスでは行けず。結局、初めの山道バス停付近に戻り、歩いて行くことにしました。多少、風がありますが、天気がいいため、散歩がてらにテクテクと入口に向かいました。
本佐倉城は、文明年間(1469~86)に千葉氏の居城として千葉輔胤(すけたね)が築城したといいます。この輔胤は、享徳3年(1454)に始まる関東の動乱による千葉氏の内紛の中で「下総守護」千葉氏の家督を継ぎ、千葉氏代々の居城であった「千葉城」が戦場となり、荒廃したため、この「本佐倉城」を築いて新たな千葉氏の居城にしました。
天正18年(1590)に豊臣秀吉により千葉氏が滅ぼされるまで、9代、100年余りが居城し、下総の拠点として栄えました。
「東山馬場」の入口から入り、「倉址」・「(主殿)」脇を通って「奥の院(妙見宮)」へ。そして、現在、発掘調査中の「城山」へ。
本佐倉城は、内郭群・外郭群・城下町を含む総構えの三重の同心円で構成されています。このうち、内郭群は、城主のための空間で、御殿・馬場が存在した郭を中心とした複数の郭から構成されています。
外郭群は、土塁と空堀により区画されて広大な面積を持ち、家臣の屋敷などに利用されていました。
城外から外郭・内郭に向かうと、大規模で堅固な空堀・土塁・櫓台などが複数に配置され、戦いのために備えた城郭であったことが分かります。
参加者の32名は、この「奥の山」や「城山」などをじっくり散策し、中世城趾のつくりを身を持って知ることが出来ました。
私にとって「本佐倉城」は、小見川から慶長15年(1610)1月に入った土井利勝(下総佐倉3万2千石)の方に興味があり、すでに何回か訪れています。利勝は、元和元年(1610)に佐倉城(鹿島城)に移り(本佐倉城は廃城)、寛永10年(1633)4月7日、古河に移っています。
約1時間30分にわたりこの本佐倉城めぐりをした後、徳川家康の父広忠の遺骨が埋められ、家康も参拝したという「清水寺」へ。そして、午後には成田に行き、新勝寺・宗吾霊堂を見学し、5時頃に幕張に戻り、解散しました。


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