4月9日に「北大宮台歴史を知る会」の「春の巡検」は小江戸の川越へ。
朝7時に貸切バス(千葉交通社)で北大宮台を出発し、高速道路を使い、川越方面へ。運転手さんの感が冴え、あえて都内を通り、川越に向かう。何と高速道路はスイスイと。こんなに空いているのは実に珍しい。喜多院到着を9時45分に予定していたが、ここまま進むと9時15分頃に着いてしまうということで、三芳パーキングで休憩兼時間調整。
それでも9時40分頃に喜多院の駐車場に到着。駐車場の係の人が慌てながら開けて頂いた。
喜多院をじっくりと時間をかけて見学。我々の巡検は、一応、予定を立てているが、当日の様子でどうにでもなる。こんなに時間をかけて見学するのは初めて。
境内といい、庭園といい、実に桜がきれいである。久しぶりに晴れ、風もなく、絶好の見学日和。それにしても、これまで我々の会の巡検は、曇りの日はあるが、ほとんど晴れである。気温も丁度いい。
小川町の老舗割烹旅館「福助」で、名物の「女郎うなぎ」を美味しく頂いた後、比企郡嵐山町の「菅谷館跡」に向かいました。この館は、鎌倉時代の有力な武士、畠山重忠が居住していたと伝えられています。
この館の概略を知るために館跡に建てられた「嵐山史跡の博物館」へ。入口で畠山重忠像が迎えてくれました。重忠は、深谷市畠山で生まれ、後にこの館跡に住み、源頼朝に仕え、多くの戦いで活躍しています。館内では、比企地区の平城・平山城・山城など、約60ヶ所の城郭が確認されており、その幾つかを紹介してあります。また、ほぼ中央には菅谷館跡の模型が展示してありました。
マルチシアターで嵐山町の概略を見た後、館内を1周。丁度、中学生が「職場体験」の実習に来ていました。全国、どこの中学校もこの体験を実施し、進路学習の一環であるといいますが、必要なものであろうか?こうした体験学習を始めてかなりの年月を経過していますが、実際的にはこれがどの程度、生かされているのだろうか、疑問である。余分な行事と思えてならない。
こうした教育議論はさておき、館内を出て、菅谷館跡へ。本郭を取り囲むように2の郭、3の郭、西の郭、南郭が配置されており、各郭は深い堀と高い土塁で囲まれています。この造りを見て、敵が容易に攻め込めないということを実感しました。国の指定史跡となり、政治的・戦略的な中世城郭の遺構で、危機管理がよく行き届いていたことがよく分かりました。
続いて、吉見町にある「吉見百穴(ひゃくあな)」へ。この百穴については、いろいろな見解があるようですが、古墳時代後期の死者を埋葬する墓穴として造られたというのが有力な説です。「百穴」といいますが、実際は200を越えるといい、太平洋戦争中に横穴群のある岩山に地下軍需工場の建設(中島飛行機の大宮工場エンジン製造部門の全施設の移転計画)が行われ、数十基の横穴が壊されました。軍需工場は、建設中に終戦となり、使用されることがなかったといいます。この工事には全国各地から集められた3000人と朝鮮人労働者3500人が当たり、昼夜を通しての突貫工事で進められたといいます。
この軍需工場跡(10分の1くらいの公開)を見た後、頂上へ。売店跡があるだけでしたので、すぐに下り道にある横穴を見ながら降りました。明治20年の大発掘では人骨・玉類・金属器・土器類が出土したといいます。それにしても、見応えのある横穴群でした。
今回の巡検の最後は、板東11番札所の安楽寺(吉見観音。真言宗)へ。この寺院は、9世紀初頭に坂上田村麻呂が創建したと伝えられ、平安時代には多くの参詣者で賑わったといいます。平治元年(1159)の平治の乱に敗れ、敗走中に殺された源義朝の遺児たちは、それぞれに源氏再興の機会を待ちましたが、6男範頼(のりより)は、この寺に稚児(ちご)僧姿に身をやつして潜み、その間に16丈(48m)に及ぶ三重塔や25間(45m)四方の大講堂を寄進したと伝えられています。境内は、ひっそりとし、参詣者の姿も見られませんでしたが、趣きがありました。
この寺院の見学で、今回の巡検は終わりとなりました。我々3人の巡検は、観光地巡りではなく、隠れた史跡を廻ることを主眼にしています。中にはこの見学を最後に2度と行かない所も多い訳ですが、歴史的視野を広げるためには絶好の機会です。「百聞は一見にしかず」。社会科の教師たる者は、常にこうした姿勢を持ち続けたいものです。
来年の巡検は、神奈川県の中世城郭(北条氏の支城)を見学する予定です。
7月24日(火)に附属中の先生方と3人で、恒例の「夏の巡検」を行いました。この3人の巡検も4年目に入ります。行程はすべて附属中の先生方にお任せ。私の車を使いますが、運転もお任せ。
さて、今年は、埼玉県の中世城趾巡り。関越道の寄居で降り、まずこの町にある鉢形城歴史館へ。この鉢形城は、昭和7年に城郭遺跡として、埼玉県内で最も早く国の指定を受けた、関東屈指の中世の平山城です。昭和59年から公有地化を進め、平成16年10月に第1期整備事業の完了と歴史館が開館しました。
こじんまりとした歴史館ですが、内容が充実しており、ビデオなどを観て、概略を把握しました。途中から、30名余りの集団は入って来ましたが、その集団を観て、「先生」のにおいがしたのは商売柄からでしようか?(町内の小中学校の先生方の研修のようでした)。
この城の歴史は、文明8年(1476)に関東管領山内上杉家の長尾景春(かげはる)が築いたといわれ、その後、小田原の北条氏の勢力拡大とともに、山内上杉氏の家臣で、当時、鉢形に勢力があった藤田康邦(やすくに)が娘を北条氏康の3男氏邦と縁組みさせ、氏邦をこの地へ迎えました。この氏邦が大規模な拡張工事を行い、本郭・2の郭・3の郭と周囲を取り巻く曲輪が成立したといいます。各曲輪は、土塁と堀で仕切られ、重臣を各曲輪の防衛上の責任者として配置しました。
しかし、天正18年(1590)に豊臣秀吉は、徳川家康とともに小田原北条氏の討伐に向かい、6月上旬に鉢形城は、前田利家、上杉景勝の北国勢と真田昌幸の部隊、浅野長吉・木村一・本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吾らの諸将が加わった5万騎余の大軍勢に囲まれ、開城しました。城主の氏邦は、前田利家に預けられ、利家の所領の能登国鹿島郡佐味村内(七尾市)に「千俵」の知行地が与えられたが、慶長2年(1597)8月8日にこの地で一生を終えました。
歴史館で概略を知った後、各郭を巡りました。2の郭と3の郭は整備も終わり、実に見応えがあります。土塁と堀も復元され、堅固な城であったことがよく分かりました。(本郭はこらから本格的に整備される予定のようです)。
続いて、この鉢形城の城主北条氏邦の墓のある正龍寺へ。高台の一角に氏邦と夫人(大福御前)の墓があり、その造りは宝筐印塔でした。氏邦の塔は、家臣を遺骨を持ち帰って埋葬したといい、夫人は文禄二年(1591)に自害したといわれています。
午前中、最後の見学地は、埼玉県立川の博物館。荒川の自然と歴史を紹介する博物館。子ども連れで遊べるように大水車を中心にわくわくランド、砂の広場、ファミリー広場などがあり、荒川大模型を見た後、博物館内へ。鉄炮堰・船車・荷船などの大模型、大画面に映る荒川渓谷の様子と人々のくらしが模型・写真・TVなどで分かりやすく解説されています。
久しぶりの好天に恵まれ、汗をかきかき、城趾と墓を見て回り、すでに12時はとうに過ぎ、昼食を取るために和紙の町・小川町へ。割烹旅館「福助」で「女郎うなぎ」を食べることにしました。今から約160年前、江戸吉原の花魅がわけあって当家先代善兵衛に引き取られ、安住の喜びに家業の手助けをし、善兵衛への恩返しのため、生家に伝わるうなぎの蒲焼きの秘伝極意を教えました。花魅が伝えた、うなぎ料理とのことで「女郎うなぎ」と称されるようになったといいます。<続く>
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