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館山市

2007年9月 7日 (金)

那古寺東照宮(那古寺観音堂内)

館山市の那古山の中腹をあり那古寺(真言宗智山派)は、鎌倉時代の作といわれる木造千手観音立像(国指定重要文化財)を本尊とし、養老元年(717)に創建したといわれます。明治39年(1906)の『安房志』(斎藤夏之助)の那古寺の項に、

<人皇四十四代元正天皇養老元年丁巳(717)、天皇病あり。僧行基に命じて之を祈らしむ。時に行基、夢兆あり。事由を奉しければ、勅許ありしを以て当地に来る。偶異品の木材を海中に得て、千手観世音の像一躯を彫刻して奉祷しければ、忽ち感応ありて天皇病即ち癒ゆ。よって本尊を山腹の石窟中に安置し、資財を賜ひて、伽藍を建て、永く勅願所たるべきの命あり。>

と記され、当初は那古山中腹の古屋敷に寺院が建てられていました。

治承4年(1180)に石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、安房に逃れ、この寺に参詣し、源氏の再興を祈願したといいます。

元禄16年(1703)11月22日に起こった房総沖の大地震によって、当寺の塔堂が全壊しました。このため、宝暦9年(1759)に幕府が岡本兵衛に命じ、現在地に再建させました。

上り坂の参道から仁王門をくぐると、左手に鐘楼があり、眼下に鏡ヶ浦(館山湾)を一望することができます。右手には阿弥陀堂と、宝暦11年(1761)に建てられた多宝塔があり、正面には老中松平定信の書の「円通閣」の偏額が掲げられた観音堂があります。

本堂に入ると、左側に日光東照宮陽明門を模した内陣(高さ66cm、幅46cm、奥行33cm)があり、中に家康の坐像が納められています。いつ頃のものかは不明ですが、もとは那古山の中腹、古屋敷にありましたが、元禄の大地震の後に発見され、再建された本堂内に安置さてたといいます。

2007年7月21日 (土)

Magameつれづれ<第2号>家康が関東に入国した当時の安房里見氏の石高について

先日、千葉市美術館で千葉市史編纂の「市史研究講座」があり、「東金御成街道と御茶屋御殿」と題して講演を行いました。

後日、参加者から、講演資料の中に「天正18年8月、安房・館山・里見義康、4万石」とあるが、各種の研究・解説資料では「石高は9万石」ではないのかとのご質問を受けました。

よく研究されている方のようで、資料の一例として、『市民読本さとみ物語』(館山市)から、「慶長2年(1597)の安房国で行われた太閤検地の結果、安房国は約9.1万石の生産力を持つ国」を上げています。

この里見義康の天正18年8月頃の石高について、北島正元氏の『江戸幕府の権力構造』(岩波書店)では「安房館山の里見義康(四万石)」(191ページ)とあり、中村孝也氏の『徳川家康公伝』(日光東照宮社務所)には「(天正18年8月15日) 安房 館山 里見義康 石高4万石」(259ページ)とあります。また、最近の研究の川名登氏の『房総里見一族』(新人物往来社)では「(朝鮮の役)この頃、安房国は四万石余といわれていた」(192ページ)とあります。

これらの文献から、慶長2年に検地が行われる前の安房里見氏の石高は「4万石」が正しいようで、これを「講演資料」として掲載した訳です。

それにしても、鋭いご指摘で、なかなか詳しい人もいるものであると感心した次第です。

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