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千葉市若葉区北大宮台

2009年4月 3日 (金)

北大宮台歴史を知る会の「皇居参観」(その1)

Photo 昨日の4月2日(木)は、北大宮台歴史を知る会の「皇居参観」。3月2日に電話予約をし、6日に「参観名簿」を提出し、「許可書」を頂いた。そして、この日が「参観」の日である(参加者29名)。

Photo_2 7時30分に大和交通の観光バスにより、北大宮台を出発し、湾岸道路から皇居桔梗門へ。受付が9時50分までということで早めに到着した。広く、行き届いた皇居外苑(坂下門)から東京駅を見ると、広い道路の先に赤レンガの東京駅を見ることが出来る。

Photo そして、9時30分過ぎに桔梗門付近で受付が始まった。今日は参観者が多く、200名を越えていた。受付が終わると、桔梗門をくぐり「窓明館」へ。まず、買い物が始まる。売店は参観者でいっぱい。一団に我々の外に千葉市からの団体もおり、手にお土産を持つ人が多い。その後、案内のビデオを見て、案内の職員の引率により富士見櫓前へ。4列に並んだ一団が進むが、実に長く、度々職員から「間を開けないで!」と注意を受ける。

この富士見櫓は、万治2年の再建で、天守閣が明暦3年の大火で焼失した後、再建されることなく、天守閣に代用されたものであるという。この先が坂下門で、宮内庁の通用門でもある。文久2年(1862)の老中安藤対馬守が、この門外で浪士に襲撃を受けたのが有名。

Photo_4 坂を登ると、正月や天皇誕生日の国民参賀が行われる宮殿がある。その中庭は横長であり、、縦は思ったより狭い。この宮殿は、7棟で構成されているといい、実に圧巻である。

2008年8月19日 (火)

我が町、北大宮台の史跡=馬頭観音と字安居作

Photo_4 我が町、北大宮台は、千葉市の北東部に位置する600世帯余りの団地で、北・西・南を大宮町、東は大宮台7丁目に接しています。

昭和42年(1967)から三井不動産系の千葉共同開発(株)が土地の買収を始め、46年(1971)に「大宮台ニュータウン」として17.5ヘクタール(5万3千坪)、567区画の造成が開始しました。後に三井不動産(建売・133区画)・日本信販(374区画)に転売し、直売土地(25区画)・地主換地(42区画)・先住者(13区画)でした。同47年(1972)10月から入居を開始し、自治会が正式に発足したのは同48年(1973)2月25日でした(48年2月現在118世帯)。

我が町の史跡といえば、51ー9地先(字三ノ作)にある道標を兼ねた「馬頭観世音」(高さ65cm、幅30cm、奥行25cm)で、

<正面>慶応三卯丁(1867)十一月吉日

      馬頭観世音

      向ハをい浜の(生浜浜野)村道

<右側面>右ハ東金道

<左側面>左ハまわたし(馬渡) さくら(佐倉) なりた(成田)道

と刻まれています。

この馬頭観世音がある前を走る道は、佐倉ー大宮ー寒川を結ぶ年貢道であり、また、右手先の台地上は古くは「牧場」で、馬が放し飼いをしていたところでした。さらに、前面は、字清水田といい、田んぼが広がり、この地に馬が繋がれていたといいます。

Photo_2 また、北大宮台のメンストリートを走る道の左側に高橋工務店があり、右側には鉄塔が建っています。この一帯を字「安居作」といい、昭和9年(1934)に大宮町の栄福寺住職が書いた『郷土研究資料』には、

<この地は、若年にして、艱難(かんなん)辛苦せしものにして、多くの金穀を貯蓄したるものの住居せる地なるを以て、山間の静かなる浄地に於て、仏道の尊き知り、安居なさしむの地を安居作と字名を付けたるものなりと。>

とあり、ある者が若い時に苦労をしてお金や穀物を貯め、後に土地と家屋を得て安住な生活をした場所であるといいます。これは江戸時代の話のようですが、現代に於いてはまさに北大宮台の人々のことを言っているようです。

写真上は51スパンにある「馬頭観世音」。

写真下はメインストリート沿いの「字安居作」付近の地。

2008年5月12日 (月)

Magameつれづれ<第33号>北大宮台歴史を知る会の例会~「千城村」の成立

今日は、北大宮台歴史を知る会の「5月例会」。内容は、勉強会で、「明治時代の大宮地区(Ⅱ)」。勉強会の講師はほとんど私が務めています。今日勉強した具体的な内容の一部は次の通りです。

明治22年(1889)4月1日に『市制町村制』が施行され、市町村は自治体であるとし、従来の戸長役場は廃止され、同時に戸長・筆生を廃し、町村役場を設定し、町村長・助役・収入役を置き、町村議員を選挙して町村会を設け、自治団体としての育成が図られました。

これにより、大宮村・小倉村・大草村・金親村・坂月村・川戸村・仁戸名村・星久喜村の8ヶ村が合併して「千城村」となり、大宮1085番地に役場が置かれました。この役場の地は、現在の大宮神社前の大久保商店の地に大宮村役場があり、それを使用しました。

この8ヶ村が合併して「千城村」の名にした理由について、「新村名選定の事由」には、

<此の村々は、多少優劣なきにあらずと雖も、民情、旧村名の内、其の一を存するを欲せず。又、之を参互折衷せんとするも八ヶ村の多き選択に便ならず。然るに依て此の村々中、城の字を付けしたる字・地名許多あるに依り、其の意味を以て地名を取り、字名を取り本名を付す。>

とあり、8ヶ村内に「城」の字や地名が多かったことにより、「千(ち。多いという意味)城(しろ)村」にしたといいます。

よく考えたものですが、現在、この「千城」の名を使っているのは、小学校と郵便局だけで、地名は「大宮町」です。この「大宮」という地名は、明治20年(1887)8月27日に坂尾村と長峯村が合併したときに付けられた村名で、この地区の鎮守、大宮神社に由来しています。

2008年4月26日 (土)

Magameつれづれ<第30号>高橋工務店の「『TKS通信』第100号発行記念フェア」を訪ねて

私の家の近くの高橋工務店が発行している『TKS通信』が第100号を刊行し、その「記念フェア」を訪ねました。

この高橋工務店は、実に仕上がりがいい仕事をしており、私もかって2階部分の増築や風呂場などの改修をお願いしました。近くの工務店ということもありますが、それよりも任せておけば満足できる仕事をしてくれるという、信頼をもとに依頼しました。また、社員の皆さんも礼儀正しく、親切で、面倒見のよい方々です。案の定、出来上がりに満足しています。

2年前の北大宮台の「ふるさと祭り(盆踊り)」の時、社長さんとお会し、ここで広報誌『TKS通信』に地域の歴史を書き、これに掲載して頂くことにしました。

この『TKS通信』は、平成2年(1990)9月に第1号が発行されました。その表紙には社長さんの「時刻」という詩が掲載されており、

<この頃 踏み降ろす足に躊躇することがある 足と地面の落差に 過ぎようとする時刻があり 踏みしめたら 確実に 喪失する自らの時刻・・・振り向けば 涙色の瞳をした 少年が思い出を抱いて佇んでいる。

とあり、これが本通信の最初です。

以来、16年余りの歳月をかけ、第100号という偉業を達成しました。こういう冊子や小雑誌は、3号まで、4号が出せたら10号まで・・・・・精々20号か、30号までが多い訳ですが、100号というのは並大抵のことではなく、「大偉業」と言わざるを得ません。

モデルハウスの2階には「100号達成記念コーナー」が設けられ、編集方法・作成方法・発送方法などの写真入りの説明があり、まわりには1号から100号までが展示してありました。号を重ねるごとに見やすく、読みやすくなっています。社員の皆さんが仕事を終えた後の作業であるといい、この作業が「気分転換にもなる」ともいわれ、何かさわやかさを感じました。

「よくここまで発刊されたなあ!」と感心しながら見させて頂きました。私が書いている「大宮地区のむかし」は、まだ9回目ですが、この『TKS通信』が150号、200号、30号・・・・と続く限り、掲載させて頂くつもりです。おめでとうございます。

2007年12月10日 (月)

Magameつれづれ<第23号>北大宮台歴史を知る会12月例会=高札場・旧東金街道・栄福寺と歴代住職

今日は、北大宮台歴史を知る会の12月例会が行われました。内容は、(1)明治時代の大宮地区(その1)の2回目、(2)千葉市内の旧軍隊施設でした。

明治時代の大宮地区は、高札場と五榜の掲示、明治天皇が行幸した旧東金街道、坂尾山栄福寺についてでした。

江戸時代、大宮地区の高札場は、坊谷津にありましたが、今では地元の人でもその存在を知る人がほとんどいないのが現状です。千葉市内では、その跡の遺構を残しているのは若葉区金親町だけで、かって名主を長く務めた石井さん宅には「五榜の掲示」の全て(6枚)が残され、保存されています。残念ながら、年々文字が薄くなり、読めないところが多くなっています。

旧東金街道は、現在の国道126号(東金街道)が出来る前の道で、康正元年(1455)に東金城主浜春利によって造られたという軍用道路・物資輸送道路でした。明治15年(1882)5月に明治天皇が「中野原」での近衛師団の演習を視察するために、この街道を通りました。その史跡は、平山町四谷(よさく)の「明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)所跡」と刻まれた記念碑と川井町の「倶楽部和泉」の建物です。

坂尾山栄福寺については、金剛授寺、養福寺、栄福寺と、寺号の変遷を辿ります。また、初めは真言宗でしたが、寛永2年(1625)に住職の快運和尚が天海僧正に帰依して天台宗に改宗したといわれています。また、元は「御垂ヶ台」(現在の字西屋保)にありましたが、元禄2年(1689)に現在地に移転したともいわれています。天台宗からの住職は次の通りです(これは、栄福寺の史料・墓碑などからの私見です)。

・中興 快運                  

・2世  得道

・3世 舜盛(元禄3年3月晦日没)     

・4世 舜応(宝永6年10月24日没)

・5世 舜秀(享保13年2月15日没)   

・6世 寛隆(享保13年2月22日没)

・7世 貞隆(延享3年2月18日没)    

・8世 音順(明和9年6月23日没)

・9世 太円(安永2年3月13日没)    

・10世 乗淵(天保7年4月11日没)

・11世 智舟公(享和4年正月21日没)

・12世 貫純(文化11年8月27日没)

・13世 英純(嘉永2年正月朔日没)

・14世 円純(天保11年9月17日没)

・15世 観田(文政8年正月13日没)

・16世 乗寛(文久元年12月23日没)

・17世 乗広(明治7年引退)

・18世 乗歓(明治30年正月6日没)

・19世 乗繁(昭和23年12月28日没)

・20世 乗天(昭和61年7月没)

・21世 真映(平成6年12月11日没)

・22世 乗慈(現在)

2007年4月16日 (月)

昨日は北大宮台の通常総会の議長を務めました

昨日は北大宮台の「通常総会」に出席しました。久しぶりの出席ですが、というのも「議長」に頼まれていたからです。これまでの本自治会の総会は、もめることが多く、3時間も、4時間もかかっていたとか。「会議は2時間が限度。それ以上は精神衛生上、よくない」ということがいわれ、また、「総会とは1年間奉仕された役員の方への感謝と次年度の役員の方へのお願いを込めたものである」という考えの基で議長を務めました。

これまでいろいろな会の司会や議長の体験がありますが、自治会の総会の議長は初体験で、どうなることかとの多少の不安もありました。ただ、北大宮台の会員の方は、学歴や職歴が高く、常識を持った方が多いため、うまくコントロールすれば議事はスムーズの進むはずです。

時間と内容を気にしながら議事を進める。本自治会は発足してから35年目。本年度の役員の方々も「明るく住みよい街づくり」・「友愛の輪が広がる街づくり」のために尽力され、「ふるさと祭り」などの三大行事、自治会館の整備、公園の整備、道路の不具合箇所の点検と補修の依頼、防犯パトロール、花壇の整備など、多方面にわたり活動を続けられてきました。このため、質問や意見などは提案された内容のみとし、他の事柄については意見として聞き、次年度の役員で話し合い、活動の参考にするという方向で進めました。

そして、約2時間後、総会も提案された内容通りに、かつ円満の内に総会が終了しました。やはり、「良識のある方々が多い自治会」ということを印象づけた総会でした。

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