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街道

2009年12月30日 (水)

御成街道の「駒形観音」を想う

Photo長沼にあった島田家の長屋門はすでになく、その地に高層のマンションが建っています。江戸時代の面影は消え、若い人たちが好みそうな建物です。

この東方にある「仏母山駒形観音堂」は、右手のマンションが邪魔し、厳かな境内は一変しています。これも時代の流れでしょうか。

この観音堂は、生実郷の大巌寺(浄土宗)の境外仏堂で、元禄年間にこの辺り一帯の新田開発を請け負った江戸の薬種商人野田源内と土地の人たちが大巌寺16世沢春(たくしゅん)和尚を開山とし、馬頭観音を安置して創建したといいます。

Photo_2 境内の右側にある銅製阿弥陀如来は、像高2.36mで、元禄16年(1703)4月の鋳造。願主は鈍誉愚大徳、作者が江戸浅草の鋳物師橋本伊左衛門です。

この大仏の左膝部に「天文四天(1739)」とあることから、もとは「駒形千軒」といわれた「元観音堂」の地にあったが、この年にここに移されたといわれています。

この駒形観音と大仏は、街道を往来する人々の交通安全と疾病退散を祈願したものと思われます。

2009年12月26日 (土)

御成街道の「御滝神社」を想う

Photo_5 御成街道を長沼原から犢橋に入ると、右側に天和3年(1683)10月建立の「庚申塔」と昭和58年(1983)3月建立の「道祖神」がある。

ここから左手の細い道をしばらく行くと、右手に「御滝神社」がある。かってこの付近には谷津があり、雑木林で鬱蒼としていたが、現在はこの谷津も埋められ、整地されて住宅地になっている。

Photo_6 この付近を「字滝ノ山」といい、小さな滝があった。家康は東金に行く途中、ここで休憩し、この滝の水で喉の渇きを癒したという。

しかし、現況から滝があったとは想像することが出来なくなっている。

2009年12月25日 (金)

御成街道の犢橋宿を想う

Photo_3 御成街道の「犢橋宿」は、街道沿いに人馬継ぎ立ての業務を行う「問屋場」の他、旅人相手の旅籠屋(渡辺屋・花嶋屋など)・茶屋(新茶屋)・酒屋・駄菓子屋・餅屋・荒物屋など、15軒ほどの店屋がありました。

Photo_4 午後になると、華美な着物を着た「宿場女(飯盛女)」が立ち、行き交う旅人に声をかけ、また、夜遅くまで三味線の音が聞こえていたという。

現在の町並みからは想像できない江戸時代の様子である。

2008年1月27日 (日)

土気道(土気往還。大網街道)

千葉市中央区の「大和橋」の先を左手に入り、最初の信号を右手に折れ、「病院坂」を上って青葉の森公園に入り、「舟田池」の南側を通って直進し(ここに古道跡が残る)、野球場と陸上競技場の間を通り、星久喜町から松が丘町の「延命(追分)地蔵」(右手のバス停留所の脇にあり)に至ります。この地蔵には、

  これより右 とけ道(土気道。土気往還。大網街道)

  これより左 とう可弥道(東金道。東金街道)

と刻まれています。ここまでが、土気道は東金道と重用していたことになります。

この先の交差点(かってはここを「追分」という)を直進するのが「東金道」で、「土気道」はここを右手に入り、すぐに左手に入って直進していました。江戸時代、この追分附近から、東金道、土気道ともに両側に松並木がありました。

かっての土気道の両側には、住宅・商店・公園・学校・駐車場などがあり、松が丘町から仁戸名町に入ります。しばらく行くと下り坂となり、右手に公園があります。ここにはかって鎌形をした池があり、「鎌池」と呼ばれていました。

この先から道は上りとなり、左側に住宅地、右側に国立千葉東病院の宿舎があり、その先は千葉東病院の敷地内で、道が途絶えています。もともとは、この敷地内を進み、現在の大網街道に合流していました。千葉東病院の南角には椎の木があり、かって「一里塚」といわれていました。

土気道は、ここから大網街道の道筋をたどり、赤井町から緑区鎌取町に進み、さらに誉田町(野田村)を経て、大網白里町に至ります。

江戸初期のこの土気道について、寛政10年(1798)10月の『乍恐以書付御訴訟奉申上候(野田村が中野村の荷継ぎ商いの差し止めを求めた訴状)』の中に、

<御道筋は千葉町より土気町まで行程凡そ五里の間、人家これなく>

とあり、千葉町から土気町まで、道幅の狭い道が人家のないところをくねくねと曲がりながら走っていたようです。

また、前述の『訴状』には、慶長19年(1614)に徳川家康が東金付近で「鷹狩り」を行うためにこの道を通ったといい、

<御供、御道(同)勢の呑み水、御馬口の洗い水を差し上げ、なおまた、馬継ぎ遠路に付き、難儀に及び候趣にて、領主森川出羽守、元和年中、右の両村の中央の野田原に駅場、新田開発し(以下略)>

とあり、元和年中(1615~24)に領主の森川氏が「野田原」に「人馬継立場(宿場)」を設けたといいます。

この中で、森川氏が生実藩の藩主になったのは寛永4年(1627)からであるため、野田原に「人馬継立場」が設けられたのは寛永4年か、同5年(1628)であると思われます。

その後、元文4年(1739)に「鎌取新田」(鎌取町)が成立し、土気道沿いの「立場(たてば)」(宿場前後の小駅で、人馬などが休息するところ)となり、人足や旅人相手の掛茶屋や茶菓子などを売る店が設けられました。天保14年(1843)6月の『辺田村、農間商ひ渡世の者書上帳』には、

<一.煮売一膳飯並びに雑菓子小売 鎌取場 六助

  一.右同断                同      金蔵

  一.右同断                同    勘右衛門

  一.右同断                同    金七 

  一.質屋並びに荒物渡世      鎌取新田 久太郎

  一.右同断               同      磯吉>

とあり、街道沿いに6軒の店があったといいます。

2007年8月23日 (木)

Magameつれづれ<第9号>ホームページ「東金御成街道」がアクセス数5万件を達成!

私の「ホームページ」に「東金御成街道」があります。船橋から東金まで、徳川家康が東金辺で「鷹狩り」を行うため、佐倉城主土井利勝が沿道の村々97ヶ村の農民を総動員し、「三日三晩」で造成されたという、「八里余(実測37km)」の直線道です。

このホームページは、平成11年(1999)11月8日に息子が作成し、開設したもので、2001年9月12日に1万件、2003年3月7日に2万件、2004年に3万件のアクセス数となり、8年目のこの8月に5万件を達成しました。

この『東金御成街道』は、2004年4月以降、内容の変更・追加をせず(「せず」というよりも「出来ず」という方が正しい)に今日に至っています。

内容的には、かなり膨大なもので、枚数が多いため、全部を読むのは大変かも知れません。しかし、項目別になっていますので、必要なところだけならば短時間で読み切ることが出来ます。

この東金御成街道も、私が調査を始めた、30年前頃は、知る人も少なく、「御成街道」といいますと、江戸から日光東照宮の「御成道」と間違える人が多く、地元でも余り知られていませんでした。その後、雑誌やテレビ番組(特に千葉テレビ)、パンフレットなどで紹介され、また、千葉市内の沿道には「御成街道」との表示も出され、多くに人に知れ渡っています。

私も、昭和61年に『お成り街道』(自費出版)、平成3年に『東金御成街道』(聚海書林)、平成10年に『東金御成街道を探る』(暁印書館)、平成12年に『東金御成街道史跡散歩』(暁印書館)を書いています。

その後、新しい史料が見当たらないため、この街道の調査・研究は滞っていますが、そのうちに『東金御成街道、もう一度』ということで書いてみたいと思っています。この街道が、私にとって、ライフワークですから。

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