千葉市中央区の「大和橋」の先を左手に入り、最初の信号を右手に折れ、「病院坂」を上って青葉の森公園に入り、「舟田池」の南側を通って直進し(ここに古道跡が残る)、野球場と陸上競技場の間を通り、星久喜町から松が丘町の「延命(追分)地蔵」(右手のバス停留所の脇にあり)に至ります。この地蔵には、
これより右 とけ道(土気道。土気往還。大網街道)
これより左 とう可弥道(東金道。東金街道)
と刻まれています。ここまでが、土気道は東金道と重用していたことになります。
この先の交差点(かってはここを「追分」という)を直進するのが「東金道」で、「土気道」はここを右手に入り、すぐに左手に入って直進していました。江戸時代、この追分附近から、東金道、土気道ともに両側に松並木がありました。
かっての土気道の両側には、住宅・商店・公園・学校・駐車場などがあり、松が丘町から仁戸名町に入ります。しばらく行くと下り坂となり、右手に公園があります。ここにはかって鎌形をした池があり、「鎌池」と呼ばれていました。
この先から道は上りとなり、左側に住宅地、右側に国立千葉東病院の宿舎があり、その先は千葉東病院の敷地内で、道が途絶えています。もともとは、この敷地内を進み、現在の大網街道に合流していました。千葉東病院の南角には椎の木があり、かって「一里塚」といわれていました。
土気道は、ここから大網街道の道筋をたどり、赤井町から緑区鎌取町に進み、さらに誉田町(野田村)を経て、大網白里町に至ります。
江戸初期のこの土気道について、寛政10年(1798)10月の『乍恐以書付御訴訟奉申上候(野田村が中野村の荷継ぎ商いの差し止めを求めた訴状)』の中に、
<御道筋は千葉町より土気町まで行程凡そ五里の間、人家これなく>
とあり、千葉町から土気町まで、道幅の狭い道が人家のないところをくねくねと曲がりながら走っていたようです。
また、前述の『訴状』には、慶長19年(1614)に徳川家康が東金付近で「鷹狩り」を行うためにこの道を通ったといい、
<御供、御道(同)勢の呑み水、御馬口の洗い水を差し上げ、なおまた、馬継ぎ遠路に付き、難儀に及び候趣にて、領主森川出羽守、元和年中、右の両村の中央の野田原に駅場、新田開発し(以下略)>
とあり、元和年中(1615~24)に領主の森川氏が「野田原」に「人馬継立場(宿場)」を設けたといいます。
この中で、森川氏が生実藩の藩主になったのは寛永4年(1627)からであるため、野田原に「人馬継立場」が設けられたのは寛永4年か、同5年(1628)であると思われます。
その後、元文4年(1739)に「鎌取新田」(鎌取町)が成立し、土気道沿いの「立場(たてば)」(宿場前後の小駅で、人馬などが休息するところ)となり、人足や旅人相手の掛茶屋や茶菓子などを売る店が設けられました。天保14年(1843)6月の『辺田村、農間商ひ渡世の者書上帳』には、
<一.煮売一膳飯並びに雑菓子小売 鎌取場 六助
一.右同断 同 金蔵
一.右同断 同 勘右衛門
一.右同断 同 金七
一.質屋並びに荒物渡世 鎌取新田 久太郎
一.右同断 同 磯吉>
とあり、街道沿いに6軒の店があったといいます。
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