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茂原市

2015年5月 2日 (土)

茂原の史跡めぐり(5)本納城址

Photo室町時代後期、享禄2年(1529)に領主黒熊(くろくま)大膳亮(だいぜんのすけ)景吉(かげよし)により築造されたといい、景吉はこの城を本拠地として24郷を治めたという。

Photo_2蓮福寺の墓地から表示に従い城址に向かう。山城であるが、本丸への道はそれほど険しくはない。

Photo_3永禄7年(1564)の国府台合戦の後、安房の里見氏の旗下を離れた土気城主の酒井定隆の軍勢に急襲され、同12年(1569)3月に落城し、城主景吉は切腹したという。

Photo_4その後、土気方の板倉右衛門が城代となって統治したが、天正18年(1590)に小田原落城後、徳川幕下の旗本知行地となり、廃城となった。

Photo_5城址には本丸、二の丸、狼煙台、削壁(さくへき)、抜穴、袋狭間(ふくろはぎ)など、中世山城の遺構が多く見られる。

2015年3月21日 (土)

茂原の史跡めぐり(4)光福寺の磨崖仏(非公開)

Photo腰当地区の山際に日蓮宗の光福寺がある。

Photo_2本堂の裏手に人工的に掘られた洞窟があり、中に3体の像(弁財天・薬師如来、娑竭羅竜王)が彫られている。

Photo_3この像は、雨乞いと豊作祈願のために彫られたものであるという。

珍しいので訪れてみると、何と洞窟に入る扉に「洞窟内の壁の一部が崩れており、危険ですので、中には入れません」という教育委員会の張り紙があった。

Photo_4


仕方なく教育委員会発行の書物から3体の像の写真を貼付させて頂いた。

2015年3月20日 (金)

茂原の史跡めぐり(3)人が押して走らせた「人車」

Photo_5茂原市立郷土資料館に、明治42年から大正の終わり頃まで茂原ー長南間を走った「人車」が展示されている。

Photo_6この人車の実物は、県内で現存する、唯一のもので、全国的にも珍しいという。

この車両は、8人乗りで、2人の車夫は押して茂原と長南の間をおよそ50分で結び、1日6往復運行されていた。

運賃は1区が5銭で、茂原・長南間は15銭であった。

Photo_7軌道は千葉県が敷設し、運営は軌道運輸車両組合が行い、旅客運送と貨物運送を行なっていた。

乗合バスやトラックなどの普及により、人車の運送が減少し、大正13年に旅客、同14年に貨物がそれぞれ停止された。

2015年3月19日 (木)

茂原の史跡めぐり(2)本小轡の掩体壕(えんたいごう)

Photo掩体壕は、太平洋戦争中に造られた施設で、敵機の攻撃から航空機を隠し守るための壕である。

Photo_2昭和16年(1941)9月、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡の約150戸と東郷小学校及び寺社などを強制的に移転することが命じられ、ここに「茂原海軍航空基地(戦略上は海軍252航空隊)」が建設された。その広さは、東京ドーム約51個分であったという。

Photo_3同時に敷地内には20数基の掩体壕が築造された。この工事に当たっては、人手が不足し、長生中学校や茂原農学校の生徒や、周辺の住民も動員されたという。

この本小轡に現存する掩体壕が最大のもので、総面積が365㎡、壕の内部の面積が286㎡、最大の高さが6。7mである。

Photo_4


内部にはセメントが間に合わず、後から付け足した所も見られる。

2015年3月11日 (水)

茂原の史跡めぐり(1)真名の上人塚

Photo真名(まんな)カントリークラブ内のクラブハウスの南東端にあり、標高126mのところに位置する。

Photo_2このゴルフ場が広く、ヨーロッパの古城を思わせるクラブハウスに行き、従業員の方にお聞きすると、「入口を左方に入り、しばらく登ると右手の高いところにある」という。言われたままに車を進める。

Photo_3案内表示を見つけ、階段を登ると案内板があり、その左手の高いところが「上人塚」である。

Photo_4戦国時代、土気城主酒井定隆が領国に「改宗令」を出したとき、この地の某寺の住職がこの改宗令に応じなかったため、捕らえられ、この地に生埋めにされたという塚である。また、真名村出身の徳の高い名僧が、入滅後に葬られた塚であるともいわれている。

ここから東側には雄大な九十九里浜が見渡せ、白子町の町並みも見られ、実に壮大な景色である。

2009年6月15日 (月)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(2)茂原の鷲山寺(じゅせんじ)

Photo_3 藻原寺に続いて、隣にある鷲山寺へ。

この寺院の境内には、元禄16年(1703)の元禄大津波の死者を供養する「元禄津波供養塔」があります。

Photo_4 11月22日の夜半から23日にかけて房総沖で、推定マグニチュード8・2の地震が起こり、安房から九十九里浜一帯に津波が起こりました。津波の高さは、千倉で5m、御宿で8m、九十九里浜で4mに達したといい、白浜の野島崎周辺では6mもの土地が隆起し、それまで島であった部分が陸続きになりました。

津波の被害も甚大で、この供養塔には、現在の長生村・白子町・大網白里町の地域で溺死者計2514人で、一松郷だけで845人の死者を数えています。

2009年6月14日 (日)

いずみ郷土史会の大多喜方面巡り(その1)茂原市の藻原寺

Photo いずみ郷土史会の6月例会は、車での大多喜方面巡りです。

9時に更科公民館を出発し、まず立ち寄ったのは茂原市の藻原寺(日蓮宗)に。一休みを兼ね、境内をフラフラ。

寺号の藻原が茂原の語源であり、藻の原であった湿原を平安時代に藤原南家が牧野として開墾し、荘園にしたことに由来します。

Photo_2 藻原寺は、日蓮宗の最初の信者である斎藤兼綱(かねつな)の居館から始まっています。建長5年(1253)に安房の清澄山で法華開宗を宣言した日蓮は、法華経布教のため、鎌倉に向かう途中、ここで1ヶ月余り滞在しました。

このとき、「題目初唱の一族」と称された斎藤氏が居館を開放し、布教の便宜を図りました。この居館に設けられた仏堂を日蓮は「榎本庵」と名付け、のちに「妙光寺」と称され、江戸時代初期には地名から「藻原寺」と改名し、東身延といわれ、宗門から重視されました。

境内は実に整然と整備され、掃除が行われていました。「きれいですね。こんなにきれいにしておくと、汚す人はいないのでは?」と掃除をしている方に声を掛けますと、「いや、ゴミを捨てたり、置いていったりする人もいますよ」と。

2007年9月 1日 (土)

茂原・粟生野東照宮(錦織倖栄氏宅内、東照権現社)

享保20年(1735)11月の「東照権現祠建立願書」(茂原市粟生野、森川隆家文書)に、

<上総国山辺郡粟生野村本田之内、慶長年中、源家康公様、同国一ノ宮より東金へ御往行御旅立之砌、御昼食し候御場所、牛馬糞土の穢れ有りの候にて、勿体なく、小祠建立有之候。然る所、今般再建したい旨、別紙連印の者共、挙って頼みに付き、御検分の上、御沙汰の程、偏に願い上げ奉り候。>

とあり、地元の人たちが東照宮の再建を申し出ました。同年12月の「大岡越前守検分許可書」には、

<継紙を以て申し渡し候。上総国長柄郡粟生野村本田の内、東照神君様、慶長年中、当所御往行の砌、御休所の旧跡等、具(つぶさ)に検分致し、然所、小社之れ有り、再建願いの儀、随分不苦、大社の儀は相成らず候。尤も、其の沙汰に及ぶもの也。>

とあり、大社は認められないが、小社の再建が認められました。

この小祠は、村人によって字本田に建てられ、「権現堂」と称したといいます。その敷地は10坪ほどで、ここに1間四方の小祠がありました。

明治以降、この祠は、錦織氏が譲り受け、昭和50年頃、老朽化したため、御神体を同家の床の間に移して取り壊されました。その後、同58年に錦織倖栄氏は、宅内の一角(権現堂跡地)に東照宮の石祠(高さ91cm)を再建しました。

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