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袖ヶ浦市

2011年8月16日 (火)

袖ケ浦市巡り(2)坂戸神社

古墳の上に神社が鎮座しているということで、坂戸神社を訪れた。

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この神社がある古墳を「坂戸神社古墳」といい、標高41mの位置に立地する前方後円墳で、全長63m、後円部の直径35m、高さ5m、前方部の先端幅28m、高さ2mである。全体を「坂戸神社の森」と称し、県の天然記念物の指定されている。

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この一角にある坂戸神社の鳥居をくぐり、階段を上ると参道となる。そして、正面に本堂があるが、拝殿はどこにでもある建物であるが、少し離れて建つ本殿はなかなか立派である。

この神社は、もとは「逆手神社」と称され、白鳳2年(673)の創建で、祭神は手力男命であるという。

2011年8月15日 (月)

袖ケ浦市巡り(1)飽富神社

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袖ケ浦市の史跡を巡っているが、まず気付いたのが袖ヶ浦町と袖ケ浦市の表示の違いである。町のときは「ヶ」であったが、市になって「ケ」と大文字にしたという。どういう意味があるのかは不明である。

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さて、久しぶりに「飽富神社」を訪ねた。この神社は、以前、境内にある東照宮を調査するために何度か訪れたことがある。もう10年以上前か?

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境内、本堂ともに当時とは変わらない。右手には東照宮も変わらずに鎮座していた。

2008年2月18日 (月)

袖ヶ浦市飯富の「七権現様」(その4)(5)小野家(6)中山家

(5)小野家東照宮(飯富字牛久2395番地)

字牛久の中山一夫家は、もとは小野五郎右衛門家で、この宅地の右手の断崖の途中に平坦な場所があり、ここに権現様の石祠(昭和29年に再建)があったといいます。現在、かすかに崖上に登る道跡が見られるだけで、権現様の所在は不明です。

宅地内の右手に大木があり、根本から清水が湧き出ています。この清水は、日照りのときでも涸れることがないといい、地元では「七権現様の井戸」と呼ばれています。

現在、中山家は空き家になっており、家屋や宅地内が荒れ放題になっています。

(6)中山家東照宮(飯富字山王谷3236番地。中山兵衛門家)

字牛久の中山博家(飯富3181番地)にも東照宮があり、宅地から西方の200mほど行った崖の中腹(字山王谷)に祀られています。

道のない谷津を下りると、中腹に数本のケヤキなどの大木があり、木々に囲まれるようにして小祠(高さ134cm、幅98cm、奥行83cm)があります。昭和29年3月に現当主の博氏が再建したもので、中には御弊の入った箱宮が納められています。

2008年1月29日 (火)

袖ヶ浦市飯富の「七権現様」(その3)(3)井下田家、(4)斎藤家

(3)井下田家東照宮(飯富2667,字西)

字西の篠田芳雄家の宅地は、もとは井下田藤八家で、権現様があったといわれているが、現在は所在不明である。

(4)斎藤家東照宮(飯富2657,字富納士)

字富納士の斎藤市右衛門(忠)家の宅地内の奥に小祠(高さ100cm、幅78cm、奥行60cm)がある。この中に銅板製の像(不動明王)がはめ込まれた木板と藤原光長作と銘がある御神鏡が納められている。

この小祠の左脇に東照宮の石祠(高さ50cm、幅16cm、奥行17cm)があり、

(正面)権現様

(右側面)大正二年四月一日

(左側面)斎藤寅吉

と刻まれている。

この権現様は、もとは木造であったが、古くなったため、大正2年(1913)4月に寅吉氏が石祠に改めたといい、社殿とともに権現様として祀ってあるという。

2008年1月23日 (水)

袖ヶ浦市飯富の七権現様(東照宮)その2(1)花澤家・(2)長谷川家

(1)花澤家東照宮(飯富2846番地、字馬場。花澤宗兵衛家)

飯富字馬場の花澤宗兵衛(巌)家は、飯富村の支配に当たった7名のうちの1人で、もとは宅地内の南側にトタン葺きの祠がありました。破損がはなはだしかったため、昭和62年に木造の小祠(高さ170cm、幅86cm、奥行77cm)を再建したといいます。

現当主の巌氏によると、この村に入った「宗兵衛」の名は、家康から頂いた名で、大坂夏の陣の他、寛永14年(1637)の島原の乱にも参陣しているといいます。また、当家の権現様は、東照宮ともいい、以前、葵紋入りの鈴が納められいた。家には巻物があり、これを巻いて寝ると病気が治るという伝承があるといいます。
(2)長谷川家東照宮(飯富2680番地、字西。長谷川甚左衛門家)

飯富字西の長谷川甚左衛門(伸吾)家の宅地内に権現様の石祠(高さ50cm、幅15cm、奥行12cm)があります。

もとは木造でしたが、痛みがひどかったため、昭和45年に石祠にし、もとの古い屋根などの材木は、祠の前に土台代わりとして埋めたといいます。

現在、権現様が置かれたブロックの台上には稲荷様も祀られています。

2008年1月20日 (日)

袖ヶ浦市飯富の7つの東照宮(七権現様)について(その1)

袖ヶ浦市の旧飯富村には7軒の家に権現様(東照宮)が祀られ、「飯富の七権現様」といわれている(そのうち1軒は不明)。

その由緒については、

(1)天野氏が領主になったとき、この村の行政を司る者を7名選んだ。このとき、この7名が自分の屋敷に権現様を祀った。

(2)天野氏の家臣7名が、関ヶ原の戦いに出陣し、その戦功により、7名が飯富村の支配を命じられ、7名が自分の屋敷に権現様を祀った。

(3)大坂冬の陣のとき、木更津船水主24名が出陣し、その戦功により、7名に飯富村の支配が命じられ、各々が屋敷に権現様を祀った。

という説がある。

飯富村は、天正20年(1592)3月、徳川氏の麾下の臣天野佐左衛門光得の知行(高900石)に属し、貞享2年(1685)7月に天野佐左衛門清方、其の次子岡部兵部雄救へ采地の内、高150石を分与した。その後、両天野氏が本村を采地として世襲し、維新に至った。

そこで、次回から、この「飯富の七権現」の現状を見ていこうと思う。

2007年10月22日 (月)

袖ヶ浦・飽富東照宮(飽富神社境内)

国道297号沿いの「飽富」バス停を北に進み、右手の飽富青年館を通り過ぎたところを右折すると字馬場となり、左手に樹木が鬱蒼としている飽富神社がある。

この神社は、綏靖天皇元年(紀元前581)4月に天皇の兄神八井耳命(かむやいみみのみこと)が創始したと伝えられ、祭神が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を主神とし、相殿に大己貴命・少彦名命が祀られている。『延喜式』には「飫富神社」と記されている。

天慶2年(939)の平将門の乱により板東の地が荒廃したため、朱雀天皇は、これを憂い、この神社に勅使を遣わし、神剣を奉納して兵乱鎮定を祈願したという。

石段を登ると、広い境内に元禄4年(1691)に再建された本殿があり、この右手に東照神社(東照宮)がある。明治・大正期の『千葉県神社明細帳』(県総務部)に、

  一.境内神社 六社

     東照神社 祭神 源家康

            由緒 旧幕府の臣、元地頭天野佐左衛門光得、元和八年四月勧請 

            建物 間口九尺 奥行六尺六寸

とあり、元和8年(1622)4月に飯富村の領主・天野佐左衛門雄得(かつあり。前北畠光得)が勧請したという。この天野雄得について、『寛政重修諸家譜』に、

<天正十九年(1591)、東照宮(家康)、洛(京都)より江戸にかへらせたまふのとき、伊勢国鈴鹿(三重県鈴鹿市)にをいて拝謁し、御小性の列にくわへらる。さきに外家の家号北畠を称すといへども、これより天野にあらたむ。二十年(1592)3月6日、上総国望陀・市原両郡のうちにをいて千石余の地をたまひ、のちにあらため出せる地百石を加へらる。>

とあり、その後、大坂冬・夏の陣の戦功により、上総国武射郡に領地千石を加えられ、すべて二千石を知行し、のちに御使番になったという。

また、昭和2年10月の『君津郡誌』の県社・飫冨神社の項には、

<東照神社は、流れ銅葺にして、周囲に人物花鳥等の彫刻物を以て飾られ、その美を以て称せらるこの社は、元治元年(1864)に飯富の領主たりし徳川氏麾下の臣天野民七郎の再建せしものなりといふ。>

とあり、現在の社殿は天野雄得の子孫の民七郎が再建したもので、社殿の3面には江戸中期の作といわれる人物花鳥などの見事な彫刻が施されている(市指定文化財)。

2007年9月 2日 (日)

袖ヶ浦・岩井東照宮(国勝神社境内)

県道南総・昭和線を市原市方面に進むと、岩井字宮之台に事勝国勝長狭神、猿田彦神、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祭神とする国勝神社があり、地元では「勝の宮」とも称しています。

景行天皇40年(110)に日本武尊が東征のとき、この地を訪れて神々に戦勝祈願をしたのが起こりであるといわれています。また、このとき、山の端から朝日を拝した様子が天照皇大神が天の岩屋から出て来たときに似ていたことから、この地を「磐戸山」と名付けたともいいます。

この地は、突出した丘陵の東南部に位置し、左に清澄山、西南の鹿野山を望み、眼下には小櫃川流域平野が広がり、景勝の地でもあります。

本殿の左側に「東照宮」の社殿があり、明治・大正期の『千葉県神社明細帳』に、

一.境内神社 二社

   東照宮  祭神 徳川家康公

   由 緒  不詳

   建 物  間口一間四尺 奥行一間三尺

と記されています。

この社殿の中に内陣(高さ42cm、幅28cm、奥行12cm)が祀られ、その脇の棟札があり、

<東照宮再建勧請鎮座

    嘉永五年(1852)三月十六日

          神主 星野山城 藤原政雄>

と書かれています。

土地の人の話によると、この地は交通が不便であり、日光の東照宮に参詣することは並大抵のことではなかったため、代参として建てられたものであるといいます。

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